陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

エイブル・アートの正体(後)

2014-03-13 | 芸術・文化


どちらかといえば、ガラパゴス現象と言われる日本だけは、世界の潮流に逆らった、独自の流れをつくってきたのだと感じています。萌えと呼ばれる現代日本独自の美学がまさにそれ。可愛い、やさしい、癒される。そんな造形こそが評価されます。そして、ひとびとは「自分よりも劣る」「自分よりも不遇な」立場の人が起こした勝利に刺激されることをひたすら好むようになったのではなかろうか。すなわち、からだにハンディがある人がつくったものほど美しく、尊く、清らかである。さきに白旗挙げて、ころんと寝転がって負け犬のようにお腹を見せてしまえば、可愛がってもらえるような風潮がある。そしてまた、「それを感受するわたしたちはやさしくて気持ちがいい生き方をしている」。このようないわば許しを与えるような、大衆救済のイデアのために、今回の佐那河内氏のような作曲家が求められた、と言えるのです。それは歪んだヒューマニズムと言えなくはないのか。

ところで、忘れてはならないのですが。
エイブルではないアーティスト、すなわち健常者であるところの「ふつう」の創作者たちは、ほんとうに健常なのでしょうか。良作量産できる作家であっても、心になにがしかの傷を抱えた人もいます。むしろそうした傷が原点に創作の核となっている場合もあります。しかし、こうした作家活動の裏にあるPTSDは、体の不自由というハンディに比べたら、重みではありません。

ひとつ考えてみてください。
難聴で障害手帳を持っている人のつくった音楽と、精神疾患で障害手帳を付与された人のそれと。あなたはどちらを評価しますか? 多くのひとは前者でしょうね。後者ならば、心の病だのに逃げ込んでまとも働かないで音楽ごっこしやがって、このキリギリス野郎め、とお叱りを受けること受け合いです。すなわちエイブル・アートには、身体上の不能が大きければ大きいほど、その価値が高まるという奇妙な判定基準が存在します。アートの美徳というものが、その作品ほんらいのクオリティとはまったく別の、個人的な不能とのみ一途に結びつけられている。傑作というものが、そもそも超人的な感覚能力の賜物であるにも関わらず。だとしたら、エイブル・アートとは、かつて手足のないもの、畸形人たちを見世物小屋に入れる所業と同じなのではないか。

ところで、私はつと不思議に思うのです。
こうした身体の不能こそがエイブル・アートのクオリティの高さを形成しているとするならば。もし、近い将来、細胞遺伝子学の発展によって、再生医療の充実によって、現在ある多くのハンディキャップが取り除かれた場合、遜色なく健常者と暮らせることとなった場合、このようなエイブル・アートはその価値をそのままに存続させることができるのでしょうか? もしくは不自由であった時代の創作物がより価値があるとされ、治癒したのちのそれは劣ると判断されてしまうのか? 感動が不可能指数に比例するのであれば、ありえそうなお話です。

佐那河内氏を奇蹟の音楽家ともちあげた聴衆には、音楽を聞く耳がなかったのか。それはさだかではありませんが、この論議が、マイケル・サンデル言うところの、戦傷の大きさによって武勇を語り勲章を授与する米国の機運と似ていることは否めません(註)。そして、からだの傷は負わなかったにせよ、こころに手ひどい傷を抱えたPTSDの戦傷兵たちが、米国の犠牲者として顧みられず、日本国内の軍事基地に送り込まれています。はたして、そのような心的負傷者に、アートはどれほど治療効果を持つのでしょうか。
戦傷の大きさが武勇を図るという考えは、芸術の価値の大きさが、作家個人の不自由や苦境にこそ由来するという考えに近接しています。それはきわめて病理的な考え方となりますね。こうした考えはせんじつめれば、不道徳で不健全なことを行えば行うほど、アートとして大成されるという、いささか歪んだクリエイター像を生み出すことにもなります。

全聾の作曲家という付帯価値がなくなったいま、それでも「なんらのハンディのない」新垣氏本人の自作として、その曲が受け入れられたのだとしたら、それはすばらしいことです。しかし、もしもそうでないのだとしたら、そもそも、その曲にはそもそも価値がなかったということになります。さて、「全聾の」というお冠がなくなったまま、あらためてその曲を聴いた時、あなたはそれに感動しましたか? 作った人が犯罪者だろうが、欺瞞者だろうが、人格に問題があろうが、作品には罪はありません。バロック絵画の巨匠カラヴァッジョは人殺しでしたが、画家の素行の悪さはその個体にのみつきまとい、作品の生はそれを離れて永遠となります。作品は作品どうしで独自に有機的作用しあい、独自の進化を遂げていく。すぐれた芸術家は、すぐれた先達の「人生から」ではなくその「作品」から学んでいました。良しと思えば、存分に享受すればいいのです。

そして、また、逆説的にこのインチキ作曲家はじつはいまの時代、まさにアーティストらしきアーティストとも言えます。なぜならば、現在のクリエイターたるものは直接に生産者である必要ではなく、パッケージをかぶせてプロヂュースするのが仕事だからです。マルセル・デュシャンがただの男性用便器の角度を変えて、芸術作品に仕立て上げてしまったように。美こそは快の哲学。なんとなれば、アートの役目はモノではなく、感動体験の受容なのですから。ひじょうに不道徳に聞こえるかもしれませんが「全聾の作曲家が生み出した奇蹟の楽曲」という伝説をつくった、そのコンセプト自体が、けしからんことにすでにアートだと言えなくもない。困ってしまうのは、それを一回性の展示出品ですむギャラリーではなくして、市場に延々と流布し、反復生産される音楽、複製されることで利益を着々と受け取る音楽という媒体でやらかしてしまったことですね。芸術は高度な質を保ったまま反復されると、不特定多数に伝播し、巨大なマネーを生み出す。大衆社会が求める消費としてのアートの歪んだ果実だったといえるのです。


【註】
マイケル・サンデル著『これから正義の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(ハヤカワ文庫)、24-25頁。

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全聾を装ったゴーストライター作曲家・佐那河内守の騒動は、作品の付加価値の問題。善良なひとびとにとって望ましい、アートにおけるナラティヴネスを明らかにしていく。


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