陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(十三)

2009-09-29 | 神無月の巫女感想・二次創作小説

侍り女は、空気をたっぷりと入れかえた窓を閉めた。
雑念を締め出すように、緩みのない窓枠がきっちりと合わされているのを確かめて、乙羽は絨毯が痛まない礼儀正しいやりかたで、しずしずと椅子を引く。外界を遮断すれば、乙羽が目にし、耳にし、感じるもののすべては、この気高き姫宮の掟にしたがったひとつの乱れもなき暮らしに基づくものばかりであった。この村では刻がゆっくりと流れ、どんな乱れや災いが生じたとしても、砂のごとくに穏やかになだらかに均(なら)されていくのだ。

やがてよく磨かれた銀づくしの給仕盆のうえで、つるりと光った磁器の器が軽やかに鳴る。高級な茶器は気を引き締めてくれる。うっかり力を抜くと壊れてしまうぞ、我を大切に扱え、と存在そのものが警戒している。一人が暮らすのにはあまりにも広すぎるこの室内に、優雅な午後の紅茶の薫りが漂いはじめるのは、もうまもなくのことである。

独りきりの紅茶を楽しみながら、乙羽は先だって届けられたはずのエアメイルの封を切った。
二枚の便せんとともに、一葉の写真があった。地中海らしき風景、マーブル模様の岩壁と蒼い海、爽やかな空に白い雲。そしてオリーブの木の下で、異国の友人たちに囲まれ薄く微笑んでいるのは、黒髪のご令嬢である。真夏の休暇旅行で留学生たちとイタリアを訪れた報告であった。

「あいかわらず太陽の強い場所がお好きなのですね。千歌音お嬢さまは…」

穏やかに呟きながら、侍り女はアールグレイをゆったりと口に含んだ。
姫宮のお嬢さまが口にすべきお茶といえば、緑茶ならば玉露、紅茶ならば世界最高級品のF.T.G.F.O.P. (フィナー・ティピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコー)と定められている。しかし、忠実なる侍女・如月乙羽は主人の留守居にそれを味わうなどというはしたないことをするわけがない。英国の貴婦人がたが日々楽しまれるその紅茶を乙羽が好んで親しむのは、この午後の憩いに、遠く離れた異国でも我が主が同じものを味わっているからであった。彼女の主は、自分を忘れるほどワインに溺れるようなはしたないことはしない。

薫り高き紅茶で英気を養ったあとに、乙羽にはまだたくさんの仕事が待ち構えている。
代理人として乙羽に決裁を委任された書類はたんとあるし、この秋口までに館の人手を増やすべく、新しく迎える侍り女のための部屋の割り当ても考えなくてはならない。明日は姫宮翁が主催する夜会があるので、晩餐の献立について料理長と打ち合わせをする予定。さらにこの夕方には、学園内で新調したスプリンクラーの稼働状況を、業者立ち会いのもと確認する手筈になっている。酷暑厳しい夏日から薔薇の園を含めた校内の緑生を護るべく導入されたものだが、別の効能も見越してのものであった。最近、ふとどきな仔犬があの麗しき花園に紛れ込んで粗相をしているとの報告があったばかり。闖入者を追い出すために、夜にも作動させるべきであろう。

姫宮家のご令嬢が受け継ぐべきもののすべては、ひたすら清く正しく美しく、かぐわしく整えられていなければならない。朝の快活な目覚めと夜の安静な眠りとをもたらすべき、この館の御寝所のように。それが如月乙羽の使命である。


このとき、アテネ五輪が開催されたあの平成十六年八月三十一日の午後。
すなわち、来栖川姫子と早乙女真琴とが夜の学園にお忍びに出かける、数時間前のことであった…────。


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