陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(三十六)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

馬車の開いた窓から、乙羽が顔を覗かせた。
馭者台には誰もおらず、放り出されたままの手綱だけがそこにあった。馬だけが立ち往生し、神経質にいなないているばかりだった。そして、あたりには新たな眺めができあがっていた。窓から首をひっこめた侍り女の顔には困惑が浮かび上がっていて、それが千歌音の悪い予想を裏付けているかのようだった。

「お嬢さま、大変です! 馭者がどこかに消えてしまいました」
「まさか、あの化け物が?」

姫宮邸内の片隅で大暴れしたときの惨状が、千歌音の脳裏によみがえってきた。
大の男ですら、あの巨体の手のひらに捕まると、豆粒のようにされてしまった。四肢は砕かれ、あたり一面に血なまぐさい情景が広がっていた。また、あの地獄が繰り返される──!! 千歌音の唇がふるえる。乙羽はその問いを打ち消すが如くに首を振った。

「いいえ。ご安心くださいませ。ただの人でございますよ。ですが、人があんなに…。なぜ…」
「ひと?」

千歌音は馬車の窓から、そっと外を伺ってみた。
ものものしい気配は、たしかに等身大の人だかりであった。彼らの目はすでに殺気立っていた。追い剥ぎにしては、あまりにも血気さかんすぎる。第一、彼らはあまりにも見知った顔触ればかりだった。姫宮の家に下働きで仕えていた者たちや、小作人たちだった。仰天したことには、その群衆を率いていたのが、さっきまで馬車の手綱を握っていたはずの男であった。もしや、馭者があの者たちのいる場所へ手引きしたというのか。

最初に考えたのは、これはまたしても義姉君か義兄君たちかの姦計ではないか、ということだった。
本日の茶会での作句の出来ばえがあまりによかったものだから、帰り道に痛い目に遭わせてやろうか、と企まれてもおかしくはない。考えたくはないが、考えたくもないことをするのが、あの義きょうだいたちなのである。その予見は、乙羽とて同じだったようである。しかし、脅かし程度に集めたにしては、いくらなんでも人数が多すぎた。とすれば、別の可能性があろう。

「あの者たちは、この村の人間ではなくて?」
「そのようです。姫宮で馴染みの者たちもいますね。なにか訳あってのことでしょう。私が話を伺ってきますので、お嬢さまはこちらでご待機くださいませ」
「でも、彼らは私に用があるのでは…」

乙女がふたりだけの馬車が襲われる────この場合、まずもって疑うべきは人さらいだった。
千歌音は新聞で報じられる事件沙汰に興味を持たないから知らないのである。農村部では借金のかたに娘が女衒(ぜげん)によって女郎屋に売り飛ばされることは多かったが、零落した士族や華族の娘が稀に身売りされることもあるし、上玉欲しさに良家のご令嬢をかどわかしてしまうあこぎな輩もいないではなかった。欲に目がくらんだ馭者にそれなりの金子を握らせれば、喜んで手引きをすることもありうる話であろう。今は仁義の儒学が幅を利かす封建時代ではない。主大事で二君に仕えずの御奉公という忠義の風潮でもない。千歌音も乙羽もあまりにも世間の極悪さとは切り離れた場所で暮らしていたものだから、その可能性を考えていなかったのである。もし、人買いがいるとすれば、この二人なぞ、格好の獲物であったに違いないのだが。

しかし、その可能性はないとは言えないが、ほとんど無きに等しい。
なぜならば、姫宮の主従の馬車を阻む者たちは、姫宮に従順たるべき村人たちである。姫宮千実が在命当時には、この村は土地改良で栄え、姫宮商会の繁栄のおこぼれにあずかって、人々の暮らしは潤っていたはずである。米騒動のときですら富裕の姫宮家への反感はなかった。であるのに、その村の棍棒や鍬、鎌を持った者たちが、野良仕事の途中で抜け出してきたかのようないで立ちでこの場所を取り囲んでいた。しかも、男たちだけではない。年寄りや女子供まで含まれている。騒動という騒動がないこの穏やかな村であっても、小作争議や労働争議のひとつやふたつはないとは言えない。姫宮家での勤めは給金が悪いとは聞いてはいないが、待遇改善を求めての訴えかもしれない。馭者が勤めを放棄したのは、ストライキだと千歌音は思っていたのである。姫宮邸内で声を上げても馘首(くび)にされるだけだから、見知った仲間を連れてきたのだろう。

「いいえ。ご案じなさいませぬよう。お嬢さまのことは、この如月乙羽が我が身に変えてもお守りしたします」

頼もしい言葉を千歌音に残して馬車から降りた乙羽は、その万丈の気を吐く勢い失わず、毅然として暴徒たちに立ち向かった。

「そなたたち、こちらの馬車が姫宮のお嬢さまとして知っての狼藉ですか? いったい、誰の許しを得て道を塞ぐのですか。ここは姫宮さまの地所、わたくしたちが通るのは自由なはずです。いたずらなことをすると許しませんよ」

なかなか度胸のある侍女だった。
だが、時ならぬ襲撃者たちは、まなじりを上げて叱りつけるだけの乙羽の威嚇など意にも介さない。この小娘が、何を言うか。非力さをみくびり、せせら笑っているばかりだ。この村の土地のほとんどに姫宮の息が掛かっており、姫宮の名を出せば、村人の誰もが恐れをなして道を空ける。それが、この村の不文律であったはずだ。だが、大挙して押し寄せた民衆の激しい怒りの前には、家の権威も何もあったものではない。馬車の窓から様子を眺めていた千歌音はおろおろしていた。これでは、あのときと同じではないか。またしても自分だけが安全圏で守られているだけの。


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