陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(二十五)

2009-09-29 | 神無月の巫女感想・二次創作小説

だが、ほんとうの悪夢はそれからだった。
寝床で呆然としている千歌音は、日中だというのに、室内がやけに薄暗いことに気づいた。雨が降るという空でもない。

窓を開けようとしたそのせつな、舞い込んだ突風に吹き飛ばされ、したたかに背中を壁に打ちつけてしまった。漆喰の壁がへこみ、藁に混じって埃っぽい粉が降ってきた。源氏襖が外れて、倒れている。

恐る恐る目を開いてみれば、窓を打ち破って、巨大な手のひらがそこに蠢いていたのだった。
まさか、まさか、私を狙って?! 手のひらは箱の中身を探るように、指先を広げたり閉めたりしながら、部屋のなかを執拗に荒し回った。部屋の真横からではない、天井が窓になっていて、魚籠(びく)の中の魚を引きずり出さんとするように。それは指というよりは、蛇の鎌首に近いような、気色の悪い、俊敏な動きをしていた。乱暴に手が突っ込まれているのだ。瓶底の隅にこびりついた砂糖の小片までも欲しがるごとき執着心で何度も掻きまわされて、室内が無数の傷だらけになる。箪笥からこぼれた着物が指先に引っかかったのか、糊を引きはがすように魔の手が指先を擦り合わせていた。布が裂かれていく神経質な音がした。心臓が喉元から飛び出すような恐怖が、千歌音にわきあがってきた。

巨大な手のひらは、まさしく、あの巨神(おほちがみ)のものだった。
あの手に捕まったら、一巻の終わりだ。千歌音はその指先からかろうじて逃れようと、這うような格好で奥の廊下へと退いた。その廊下の先がすでになかった。高床式倉庫を模した姫庫(ひめぐら)は、横倒しになっていたのだった。

獲物が見つからなかった巨神は、姫庫をあきらめて、姫宮の屋敷にあたりをつけはじめたらしい。姫宮本邸の敷地内の端に位置するこの姫庫に近接するのは主に、使用人たちが住まう領域だったが、長屋が密集しており、厩舎もある。双の腕を振り上げた荒ぶる神は、他の部屋をことごとく潰して回った。指先の一本ずつが鋭く突き刺さり、鎌で薙いだような切れ味を残していく。風塵が舞いあがり、瓦礫が覆いかぶさってくる。戸襖や畳が、博徒の投げるぞんざいな花札のように乱れ飛んだ。鈍い重みの音がしたかと思えば柱が引き倒され、瓦が弾けて石突のように鋭く割れた破片がうっかり人々の足止めになった。百年経とうが揺らがないとされた頑丈な屋敷が、今し、あっけなく傾いていくのがわかる。

逃げ惑う声、軋りあげる礫の音、滴る血の流れ。喉をふさぐようなむせ返る埃と、肌を焦げ付かせるごとき熱風。命を握りつぶすことに微塵のためらいもない破壊神が、進んでいくたびに地獄絵が広がっていく。阿鼻叫喚の悲鳴があちこちで上がっていて、それはその朝を快活な挨拶で迎えた犠牲者たちの、悲しむべき最後のこだまになっていた。誰もこの惨状を正確に記すべき言葉を放つこともなく、ただ獣じみた嘆きだけが飛び火していくのだった。安全がどちらの方角か定かでないので、列を乱されて修復不可能な蟻の群れが引いていくように、人という人も、放たれた家畜も混ぜて、ぶつかり合い押し合いしている。

千歌音は、その惨劇のさなかを縫うようにして逃げている。
やっと開けたところへ出たと思ったら、そこはあたかも平安絵巻の吹抜屋台のように、天井の省かれた部屋になっていた。巨大な石の柱が二本突き出ていた。みなれない造作のある、ふしぎな柱。薄暗闇で右も左もわからぬまま、めまいを覚えながら、千歌音はたまさかそこに寄りかかった。巫女修行で山道を歩いて少しは健脚に鍛えたはずの千歌音ですら、もう歩けない。全身から冷汗が噴出しているのに、寝起きで唇がかさつき、喉がひどく渇いていた。

ふと見やれば、黒ぶちのあの仔犬が喚きながら走り回っている。
もともとは大神神社に居ついた仔犬だったが、お隠れ島の牢獄からの帰還からこのかた、ヒメコと名づけられて飼っている。巫女の修行に差しさわりあるといけないので、姫宮の女中に世話を言いつけて預からせていた。────あれはもしや、姫子か?

「ヒメコ! 姫子! こっちに来て! こっちにおいで!」

友に語りかけるようにか、それとも飼い犬に命じるようにか。どちらの調子がいいのか判じる間もなく必死に呼びかけるが、仔犬の耳には届かない。尻尾を垂れて恐々と、きゃん、きゃん、と叫び、逃げ惑う人に蹴飛ばされて、小さな体躯が毬のごとく転がっている。夜の独断行を勇ましく導いた、あの救助犬のごとき大胆さは見当たらなかった。姫子が降りているときの仔犬は、風鈴のように陽気に舌を出して笑っている獣であった。助けに飛び出そうかと思った千歌音の足が、一歩踏み出したところで、たちまちすくみあがった。身を隠していた柱がやにわに傾きはじめたからだった。

めりめり、とあちこちで異様な音がする。ずどおおおん。なにかが引き落とされ、あっけなく放り投げられていた。破壊の音はすぐ間近だった。木の柱には似つかわしくない、光りが弾け、金属質な音が耳の底を引っ掻きたてる。それは、夕空の静けさへ不敵に滲んでいく寺の鐘の底響きに似ていた。そろりと見上げると、雲突くような大きな魔人がそこに立っていた。柱と思っていたのは、あの巨神の足だったのだ。鐘の音と聞こえたものは、その巨体の咆哮であったのか。千歌音はその足の真裏にいたので、怪物には気づかれなかったのだろう。だが、いつ踏みつぶされたとて、おかしくない位置にいた。

まちがいない、あの怪物は、私を探しているのだ。
山中で姫子とともに遭遇した巨神は、私たちをさだめて狙ってなどいなかったのに。なぜ、私だけを? どうしよう、どうしよう、どうしよう。私はいったいどうしたらいいの?!




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