陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の陽(いつはり)」(十二)

2009-09-26 | 神無月の巫女感想・二次創作小説


姫宮神社の七人の巫女たちは、さっそく、主の指示のために厩を飛び出していった。
後に残されたのは、月の大巫女・姫宮千歌音と、その腕に抱かれた赤子だけである。

月の大巫女は知らなかった。いや、それとも知っていながら語らなかったのだろうか。
彼女の没後、隆盛をきわめたこの姫宮神社が廃社とされ、神具も衣裳も持ち去られ、たった七人しかいない侍従の巫女たちは新しい職を得て、あっさりとその信仰を棄てさってしまう事を。井戸のなかの蛙が大海へ泳ぎ出したかのように、彼女たちはそれぞれに自分を活かすべき新しい世界を知ってしまった。主だった七人の侍従の巫女を含めた、お社の総勢百名ほどの巫女見習いたちや側女たちは、暇をいただくか、不慮の病、事故などでつぎつぎに世を去っていた。ある者は海外の実業家の花嫁となるべく異国へ渡り、読み書きが上手かった者は女学校の教師となり、着物の繕いが巧みだった者は洋裁で身を立てた。写本が手早かった者はタイピストの職に就き、道案内が得意で車酔いにならなかった話し好きは女子車掌になった。当時上流階級のご婦人の志願先として多かった、日本赤十字社看護婦養成所を卒業し、従軍看護婦になった者もいた。月の大巫女に近しい妙齢の巫女だけはこの村にとどまり、のちに大神神社に雇われたという。姫宮神社衰退の主因は、絶大な支援者であったはずの、あの姫宮家の翻意であった。神社の瓦解を進めるべく、再就職先を斡旋したのは、あろうことか、この姫宮家だったのである。

月の大巫女の後継とされた、黒髪の美しい少女はまったく巫女としての能力を開花させない凡庸な者であった。
偉大なる大巫女の孫娘とされながら、厳密には巫女たる者としては育てられなかった。修行中の他の者には禁じられたはずの、娘らしいひな遊びや少女雑誌に親しむことも許され、下働きも免ぜられ、彼女は何不自由のない姫君のように育てられた。本人は巫女になるという自覚もなく、良家の子女が臣下の家に暮らすという習慣そのままに、ただ姫宮の分家筋の娘が行儀作法の躾けのため預けられていたものと信じて疑わなかった。真摯に月の大巫女たる地位をめざして努力した姉巫女たちの妬み嫉みを、この少女が買ったとしても当然であった。巫女集団の統率者として相応しくなく、やがて、大巫女の残した信仰の基盤も、姫宮からの信頼も、人心も、家屋敷も、すべて失ってしまうのだ。無能にして無力な彼女が、くしくも「千歌音」を名乗らされて辿り着いた先は、たったひとつしかなかった。

月の大巫女は知らなかった。
やがて、この地には宅地造成工事が施されて神社の遺構など伝えることのない、まったく別の建物──乙橘高等女学校女学生寄宿舎、のちの私立乙橘学園高等部女子寮が姿を現すのだという事も。
百年経ったのちにも、その建物は学び舎につどう乙女たちの規律正しい生活の場となり、袴よりも襠(まち)の少ない女子学生たちの制服で溢れ、明るい声がさざめき合う。鬼の寮長と呼ばれた先輩に怯えながら、毎日お寝坊をくりかえす紅茶いろの髪の少女と、その彼女に呆れながらも付き添う親友たちとの、何も特別なことのないはずだった日々が送られることになる。その二人の少女たちの、真夏の夜の冒険が、やがてこの村の真実を明らかにしていくだろう。夏休み最後の夜、宿題を忘れた来栖川姫子は早乙女真琴を連れて、誰もいないはずの校舎を訪れる。二人はふとした機縁でプール遊びに乗じ、やがて、姫子はなぜか秘密の花園に辿り着き、そこで謎の少女によって夜の夢に囚われてしまう──…。夢の続きはまだまだ終わらない。語り手を替えて、時代を飛んで、場所を移して、延々と巫女の出逢いが語られていくだろう。

月の大巫女はその後に訪れるであろう動乱を予見していたはずである。
しかし、彼女ではそれは解決できなかった。解決できないにせよ、むやみに人心の不安を掻き乱し、神にすがって救いを求めよとけしかけるほどの偽善の聖職者ではなかった。何事にも寛容で鷹揚なこの大巫女は、この二十世紀、やがて訪れであろう人心の荒廃についても楽観視し、人の働きが機械に奪われたとて人の情けはけっして螺子の回転のように計算づくで獲得されるものではなく、愛情と優しさは潰える事はなかろうと考えていた。幕末の動乱を経験し、明治の混迷を生き延びた生粋の日本人には、このような腹の据わった気骨のある人が少なくなかったことであろう。

「わたくしは貴女を待っていた。一番遠くて近いところから、貴女をずっと待っていた。すなわち、この胸に貴女を待っていた。貴女にわたくしの持てる凡てを授けよう。そして、わたくしと貴女の血にまつわる呪いから、あの人を、あの子たちを救ってほしい。わたくしがこの世で一番に愛し、そしてまた、一番に憎んでしまったあの人。そして、その呪いを帯びてしまったあの子たちを」

月の大巫女が頬ずりをすると、赤子は目覚め、嬉しそうに笑った。
純粋で穢れのない瞳が、不思議なものを眺めでもするように、その老いた巫女を見上げていた。

「貴女はたったひとつのものしか救えない。けれど、そのひとつがやがて大きなものを救ってくれるはず。まずは、そう…古い昔語りからはじめましょうね──『月には誰にも知らない社がある。全ては其処から始まった』…」

幼い者の握りしめた掌には、奇妙なかたちをした勾玉があった。
赤子の胸の痣はそのときより封印されて仕舞った。その胸がけざやかな輝きを取り戻すのは、実にこの十年後──ふたりの少女があの井戸で出逢ったときのことであった。


***


ジャンル:
小説
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