陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

神無月の巫女精察─姫子と千歌音を中心に─(三)

2016-10-13 | 神無月の巫女感想・二次創作小説



──それは日だまりの出会い。

どんなモノにもたとえようのない
尊いあなたに私は出会えた。

魂が凍てつく時にも、身を焦がされる不安にも、
果て無き闇の恐怖にも、
胸を張って立ち向かえる。

あなたと出会えた幸せが胸に輝いているから…。──

(旧版DVDブックレット第三巻より抜粋)


ひきつづき、七年目(この記事を書いたのは2011年です、念のため)の神無月の巫女語り。
今回は前半部折り返しの第六話から。このあたりから、物語が急加速します。ちなみに、五話と六話の合間にあたる学園祭のエピソードを扱ったのがドラマCD(神無月の巫女ドラマCD 5.5話「君の舞う舞台」)。こちらもアニメ本編に劣らず完成度の高いシナリオでおススメです。わずかにですが、千歌音ちゃんがソウマを出し抜いて姫子を救えることのできた貴重なシーン(コロナの複製ドールに惑わされない)があります。実はあのシーン、のちのちの十一話で、姫子が鏡で輻輳された千歌音の幻に惑わされないでまっすぐに進む場面と対照になっていたんですよね。幻影のなかからほんとうの自分を見つけてくれた千歌音ちゃんの、真の姿を認めて姫子が探しにいく。その凛々しくなる十話以降の姫子には、しかし、涙ぐましい試練が待っていました。





第六話「日溜まりの君」(ひだまりのきみ)では千歌音視点で、第八話「銀月の嵐」(ぎんげつのあらし)では今度は姫子視点で、ふたりの出逢いの回想が入ります。
どうでもいいですが、このまろマユゲの犬が管理人の昔飼ってた犬に、たいへんよく似てます(←ほんっと、どうでもいいですね)。この愛くるしい姫子ごと、そっくりお持ち帰りしたい(殴)

千歌音はわりあい素直な十六歳らしいことば遣いなんですけれど、姫子の方はなんというかお伽話を語るかのような凝った口調なんですよね(脚本の違いといえなくもないが…)。学芸会の台詞といいましょうか、漫画のよみすぎでロマンチストといいましょうか。とにかく千歌音の外側しか見ていなかった感じ。周囲から高貴な姫君と褒めちぎられているお嬢さまなんですが、千歌音ちゃん、意外としゃべり方に気どったところはあまりないんですよね。姫子しか見ていない、姫子にだけ語りかけたい。だから、姫子にも分かるような優しい言葉で姫子のこころに近づこうとする。だから、彼女が姫子にさいしょに出逢ったときの感動というのは、自分を特別扱いしないがゆえの感動だったのでしょう。




八話でついにオロチと化した(といっても見せかけなのですが)千歌音は、姫子には忘られない夜の傷を、ソウマには敵意の矢じりとまなじりとを突きつけてしまいます。なにかもう、前半部の鬱憤晴らししましょうかとでもいいたげに、暴れ回る宮様。爽快です。でも、本人は顔で悪笑いして、こころで泣いているんですね。

姫子の陽の巫女パワーの助けあってこそのソウマの勝利だったと皮肉げに語る千歌音は、どこか痛々しいですね。
ほんらいならば、その陽の巫女パワーは月の巫女に荷担され、手をとり合ってアメノムラクモを召還させねばならぬもの。つまりそれは陽の巫女の気持ちがあろうことか、敵方であるはずのオロチに向けられてしまったということです。姫子が千歌音よりもソウマを選んでいることに、頼みとしていることに勘づいてしまう。そして、さらには他ならぬ自分の深層心理によって、アメノムラクモの復活に支障をきたしているのだと気づいてしまう。そのために千歌音が決意したことは、姫子の緋袴の巫女服を奪うこと、すなわち死すべき巫女の運命を肩代わりすること、さらに悪の化身であるオロチロボをも乗っ取らねばならないこと。それはもはや、姫子と刃先を並べる側にではなく刃先を受ける側に、すなわち敵対者に回ることを意味していました。




そして、第十話「愛と死の招待状」の揺さぶり方がうまい。あわや改悛したのかと見せかけた千歌音。
第九話以降儀式を乗り越えて逞しくなった姫子ではあったけれど、再会できるやいなや、すっかり甘えてしまう。皮肉なことです。ことここに及んではじめて、姫子は千歌音ちゃんのことで真剣に向き合って、想いの丈いっぱいになってしまう。遠ざかる愛こそ欠乏感を掻き立てるものかな。そして、一夜が明けるとそれはつかのまの夢。もちろん枕をともにした夢のなかに置き去りにされたものではない。それははかない現実のなかにおきたたまさかの夢。姫子は、またつれなくされてしまう、突き放されてしまう、突き落とされてしまう。とはいえ、第七話「恋獄に降る雨」(れんごくにふるあめ)までさんざん、千歌音にやきもきさせてしまったのだろうから、なんだかこの仕打ちすらあって等しいものとすら感じてしまいますが…。






千歌音の真意、そして姫子の本領が発揮されるのは最終話「神無月の巫女」を待ってからです。
今はもう創作ストーリーの読み方がいくらも追求されてしまっているので、これからこれに似たものをするとまったくおもしろくない(というか、困ったことに、寝ても覚めても類型を見出してしまう神無月病が発生する)のでしょうが、当時としては、とても衝撃的でした。そして、これは他ならぬこの来栖川姫子と姫宮千歌音だからこそ、この世界観だからこそ成立し、惹きこまれてゆく物語なのです。「姫子」と「千歌音」の同位体として、似たものに面影を重ねてみても、それはそれで慰められもするが、一面虚しさもつのる。他の類する作品を引き比べてみて、あるいは後続の先例を踏んでうまくつくられた作品と並べてみて技術として見劣りする部分や、すでに古びた感のするテイストがあったとしても、それに出逢った自分を懐かしむためにこそ価値があるのであって、個人が胸の裡でたいせつにしておく秘めたる傑作とは、まさにそのような受容者にどのような体験を与えるべきかにかかるものであると、私には思われるのです。人生の意味を問うために、側においておく。新しいことを発見するかもしれない、しないかもしれない。いつもいつも抱く想いがおなじことばかり。しかし、傑作の条件は、ただそれだけでいいのです。頭であれやこれやと好きな理由・嫌いな理由を探し、多数派のなかに飛び込んでから好きになったものはえてして飽きやすく、しかし、ハートに訴えてくるようなものだけが人生に残るのです。好きになるのに理由はいらない、ただ見つめている。それだけが愛の証かな。



【各記事の目次】
神無月の巫女精察─姫子と千歌音を中心に─(目次)
アニメ「神無月の巫女」を、ロボット作品としてではなく、百合作品として考察してみよう、という企画。お蔵入りになりかけた記事の在庫一掃セールです。

【アニメ「神無月の巫女」 レヴュー一覧】



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