陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

リチャード・ドーキンスの科学エッセイ『利己的な遺伝子』(後)

2013-06-26 | 読書論・出版・本と雑誌の感想


さりながら、本書はなにぶん誤解を招きやすいタイトルに相違ない。
たとえば、しばしば本文で強調されている「動物は遺伝子に乗り捨てられていく機械である」という簡潔だが、あまりに簡潔すぎて、おそろしいこの言葉には、進化の頂点にある人類ですら、自己の肉体が、いずれ新しいモデルチェンジを迎えて使い古される車のようなものか、と頭を抱えたくなろう。おそらく私を含めた多くの読者が次のような一文を目にしたときには、抗議を申し入れたくなったことだろう。


「育ちそこねた子どもの生涯には、回復が不可能となる時点が、あるにちがいないのだ。この時点に達しないうちは、彼は不断の努力をつづけるべきである。しかし、そこに達したら、彼はただちに努力を放棄せねばならない。そして自分の身体を、一腹子仲間や親たちに食わせてしまったほうがましなはずである」


なんとも毒気のある一文ではなかろうか。
しかし、著者ドーキンスの云わんとしたところは、いわゆる弱肉強食論ではない。彼は、生物が選択をくりかえして進化してきたというダーウィニズムの熱狂的な信奉者ではあるが、進化に乗り遅れた者に対するまなざしは穏やかですらある。ネッカーキューヴを例えとして、自然淘汰には「遺伝子から」と「個体から」の二つの側面があると言う。この双構造によって、利己主義と利他主義は矛盾しない。競争の激しい世界を何百年も生き抜いてきた遺伝子が、きわめて利己主義的な指令を個体に発しながら、ときに個体に利他主義的な行動を促すこともありうるのである。

たとえば、ミツバチの世界では働き蜂たちは女王蜂の繁殖をたすけるために、自分の子を産むことを放棄し、他個体の子どもの育児にいそしむ。個体が異なる物どうしが共存しあうとき、それを美しく友愛と呼ぶか、それとも計算づくめの善意と考えるかは人それぞれであろう。だが、その説明が腑に落ちた時に、納得できるだろう。われわれきわめて脆くも弱いものである生きものは、遺伝子によって生み出され、世代を乗り換えていくだけの生存機械(vehicle)ではあるが、親が子を育て慈しむように、他を助けることのできる最良の選択をすることができると。

ドーキンスはこの本が道徳を説く本ではないが、こうした行動生物学(エソロジー)は教育的価値をもつという。ドーキンスが「道徳」という言葉に慎重になる裏には、近著『神は妄想である』で明らかにしたように宗教や信仰への反発が根づいているのだ。しかし、人(あるいは文化)をなぜ殺してはいけないか、という大人が単純にイエスという答えをもっていながら、それを子どもたちに説明できないような命題を抱える場合、この本は宗教や倫理に頼らずにすむ答えを用意してくれるだろう。情緒がはいりこむ隙き間などない明瞭な回答がそこにある。それは、またいっぽうで皮肉なことに、人(あるいは文化)は殺されても良い場合がある、という答えにもなっているのかもしれない。

本書の唱えたことの感触はさまざまで、どのようにも解釈されうるし、おそらく読み返すたびごとにあらたかな発見と思考が導かれてくるのだが、それだけすこぶる刺激に満ちた内容であるということだろう。この本がいまだに文庫化されていないことが惜しまれる。


(2012年2月16日読了)

【関連記事】
書籍『利己的な遺伝子』(前)
リチャード・ドーキンスが1970年代に発表し、センセーションを引き起こした科学エッセイ。生物はなぜ自己保存のために生きるのか。しかし、また、なぜときに道徳的な行動に走るのか。

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« リチャード・ドーキンスの科... | TOP | 真夏のけじめ »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 読書論・出版・本と雑誌の感想