陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(三十二)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

邪神の前で泥仕合を演じた、あのふとどきな女の上半身だった。
絶望と憤怒のまま息を止めた、凄まじい死に顔だった。根を断ち切られて茎みじかに涸れた大振りの花のように、生前それなりに見られた娘の容貌は歪んでいた。千歌音は口もとを覆って顔を背け、足早に立ち去った。胸に苦いものがこみ上げてきた。

尊ぶべき月の大巫女に不名誉な死後の称号を与えた、このもと巫女見習いは死を賜るべきして賜ったのだろうか。
崇高なお社への罪深き裏切り者を正視に堪えぬ肉塊へと変えた力は、人斬りの刀が血を吸う前にみずから折れゆく運命の、身から出た錆というべき魂の腐敗であった。彼女はたしかに、自分の不行状を正当化すべく、恐れ多くも村の守り神たる大巫女様を穢したのだ。しかし、この棄教者はおのれの信念を頑なに信じて潔く行動するという点においては、まぎれもなく、巫女たり得たというべきだった。あの女は、恐怖と殺戮の神に殉教したのだ。衆目の集まるなかで、千歌音は無実を証明する機会すら奪われたのだ。千歌音の不活動それ自体が、月の大巫女の、姫宮のお社の、ひいては大神のお社も、陽の巫女としての姫子も、すべての聖者の誇りを傷つけていた────巫女であるのに、救いの神を信じていないという点において。

あの巨神(おほちがみ)はひとを喰らったりなぞはしないはずだった。しかし、現にあれが破壊の限りを尽くすことによって、多くのひとが暮らしを奪われ、いのちを失っているのだった。姫子はここにはいない。大神神社に立ち寄れば、姫子の消息はわかるはず。だが、千歌音の足は向かなかった。姫子を探していながら、姫子の生存に望みがあるとなると、たちまち会わせる顔がない。巫女としてなんらの働きもないまま多くを犠牲にしてしまった事実を、姫子に知られたくはなかったのだ。千歌音が姫子から遠ざかりたい理由は、またそれだけではなかった。

月の大巫女さまが、邪神として降臨なされた──?!
そんな馬鹿げた濡れ衣は、お仕置き逃れのために衝かれる子どもの嘘のように、思いつきの所産であるべきだった。死者になら、いくらも罪を着せることができると、人々は思っている。死者には弁明もなければ、刑罰もないからだ。死者には無実も冤罪もない。ただ罪が消えないためだけに、死者の名が欲しいだけだ。姫子が口寄せすれば、たちまち真実は明らかになるのに。そうだ、そうに違いない。だが、こんな安易な結論はかえって絶望を呼んだ。不意に階を上りながら、その先が切れて、裏返しに下っていく、そんな沈鬱な気分に千歌音は陥った。

姫子が鬼面の巫女として私を殺したあの悪夢、さて、あれは現実だろうか? 
姫子が私を殺すはずはない。傷つけるはずはないのだ。しかし、それは姫子のからだが正しい魂の持ち主である場合に限られる。考えたくはない事実だが、姫子が悪しき霊にのっとられたとしたら、あの夢はまっしぐらに現実に置き換わる。そのとき、千歌音はどうすればいいのだろう。姫子を止めることはできない。おそらくは、逃げるしかない。

千歌音の仇敵は、その捨て鉢な命に帳尻が合うような狼狽の種をまんまと落としていった。
唇を噛みしめていると、隣を歩く乙羽が立ち止まった。侍り女は「あの哀れなお方は」と口を切って、
 
「お名前をイズミさんと仰いましたの。月の大巫女様のお社で見習いをされていらしたとか…。姫宮さまのお勤めでは、仲良くしておりました。お近づきになり難いけれど憧れだった千歌音お嬢さまのことを、イズミさん、それはそれは、たいそう嬉し気に語っていらして」

猫を被っているのだとは思えなかった。乙羽にはあの女がそう見えたのだろう。敵手が亡くなれば、それは親しい友になり、理解ある親になり、世に知れぬ恋人にさえなる例を、千歌音は姫宮千実の死によってすでに学んでいた。故人をなじるのはもはや無意味だ。

千歌音が諦めに似た嘆息をついた。目をつぶり、お経のように聞き流そうと考えて、瞼が震えていた。侍り女がつと身を寄せて、指のあいまに、おのが指を滑り込ませてきた。千歌音は驚いて目を、耳を、開いた。その乙羽の次なる言葉にも。

「──千歌音さまは、誰も死なせてなどおりません」

胸を衝かれるとは、このことか。弾かれたかのように、乙羽を見つめた。
半ば嬉しく、半ば悔しくて。情けない始末のうえに慰めの言葉を、心ひそかに待ち望んでいたのだ。

乙羽はぶら下げていた巾着のなかを漁った。取り出したのは、お守り袋のような紐付きの小さな布人形だった。乙羽は千歌音の手をとって、それを握らせたのだった。千歌音はふたたび瞠目したのだった。その布の柄は、忘れもしない、月の大巫女のお召し物の柄であった。なぜと問う目線に、乙羽は一縷も偽りのない瞳で答えた。



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