陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

教養だけでは生きていけない(三)

2015-08-15 | 教育・資格・学問・子ども
文科省が、旧来の体質を変えない大学に対して大鉈を振るおうとしたのを、まずは評価したい。しかし今回の通知はあくまで通知。成果のみえにくい文系学部をターゲットにしたので、地域だの、環境だの、人間福祉だの、理系学部へと接近させた意味不明な名称をおびただけのうさんくさい雑多な学部に改編させた上で、実体は旧態依然とした教養主義教育と変らないケースが多い。地方の国立大学から志望学部が消えると、学生が流出するので人口減少を促すという、もっともらしい意見もある。しかし、私の経験からすると、家庭の事情で地元で就職せねばならない学生は、地元企業(基本的には理系が多いだろう)やもしくは地方公務員に採用されやすいような学部を目指すべきであるし、県外に進学したとしても新卒ですぐにUターン就職したほうが、その後の人生もうまくいっている。下手に国際的に活躍したいと夢を見て、県外の外大に進学したはいいが、仕事で使えるレベルの語学力やビジネスマナーが身につかず、大見得切って飛び出した手前で地元にも帰れないので、都会で大企業下での単純な派遣労働に甘んじているケースもなどもある。これは、高度な教育にふさわしい人材の受入を企業が怠ったのではなく、日本の大学がそもそも、企業で働かせるに相応しい労働力の育成としての教育を行わなかったからだ。大学がおこなってきたのは、教員たちの研究に都合のいいモルモットたちでしかなかったのだから。

従来は専門学校卒業程度でなれた看護師はいまや大卒が多いが、これは最先端医療など高度な専門知識が求められるためで、まだしも理解できる。だが、しかし。なぜ、大学でアニメや漫画などを学ばねばならないのだろう。漫画家やアニメーターのような職人肌の仕事は、現場作業をやりこんでなんぼの世界で、大卒で鼻っ柱の高い新人は扱いづらい。作家やアーティストもそうだが、学歴や資格がなくてもなれる(というかまともに所得もなく納税もしていないのに、かってに名乗れる)ような職業を、大学で教える意味がわからない。けっきょく一時代を築いた文化人や客寄せパンダの芸能人たちの現役引退後の職場確保でしかないのだ。大学で学ばせなくてもいいような分野までなんでもかんでも研究にとりいれていく、いまの大学には、はなはだ疑問を感じざるをえない。

とにかく、大学は社会でひとりでメシを食っていける人材を育てるべきであるし、大学教員は学生あがりの博士卒ではなく、実業家や民間での研究者、行政職員、実務経験が豊富な士業などをもっとあてがうべきではないだろうか。
学生さんも大学で学べることなどたかが知れている、大学教員たちは穏やかで居心地がいいが、ぬるま湯に浸かっていると廃人になるのだと思って、積極的にインターンをしたり、資格取得をしたりして世の中で通用する素地を築いていかなければならない。大学の学部選びを失敗し、人生を遠回りした私からのお恥ずかしい苦言である。

大学というのは、知識を学ぶだけのところではない。
その学問を人生でどう活かすかを学ぶところである。自分が活躍する場所を自分で生み出せない人は、高等教育を受けても意味がない。大学は自分の人生に自分で始末をつけられる人間になるために通うところである。職業に結びつかない学問など、カルチャースクール程度の教養でしかいなく、金持ちか生活に余裕あるご老人が趣味でやればいい。才能がないとわかったら、ぐずぐずモラトリアムに浸ってないで、さっさと社会に出ていくべきである。好きな仕事を選べた人などほとんどないし、いたとしても、その内情は収入に乏しいというのが多い。学術の引きこもりよりも、高卒や専門卒で働いて、ちゃんと納税している人のほうが、はるかに社会では有益である。

私は学歴などは無駄なので、勉強しなくてもいいと申し上げているのではない。
むしろ、勉強というのは、大学で学ぶ重箱の隅を針でつつくように行う専門よりも、社会に出てから必要とされるものを自分から体得していったもののほうが、人生に役立つことが多いのである。研究室で分厚い蔵書と睨めっこしているだけ、インターネットで知識を探して賢くなったつもりになるよりも、世の中の、学理でわりきれない非合理さに塗れたほうが、よほど頭をうまく使うし、人間たくましくなるということが言いたいのである。若いときに重ねた苦労は生涯の財産になるが、その貴重な経験を積むべき時期を、大学の研究室という狭い世界と限られたお利口さんだが陰湿な学者肌の人間関係のなかで過ごしてばかりいるのは勿体ない。教養系の学部はほんらい華族階級の子弟のために用意されていたのだから、親御さんの懐に余裕がある方々のみ進学すればよろしいのである。教養系学部というのは、そもそもの昔、裕福な子女の結婚前の格付けのために通うようなところでしかなかった。地方の貧しいご家庭の優秀な生徒でも奨学金でなんとか通える国立で、役に立たない教養学部をのさばらせておくことは許されない。

このような事実は、私などが申し上げなくても、社会で長らく働いていらっしゃった方々からすれば当たり前のことである。しかし、そのような企業人や事業主たちを馬鹿にする学問の徒たち、学者ふぜいどもに、にひと言申し上げたかったのだ。社会を動かしているのは学理ではない、勤労者なのだと。そして、その勤労者の血税を注いでいる大学が、あまりに社会にとってなにも価値を生み出さない人間を量産しつづけるというのならば、その大学に鉄槌をくわえることなど至極当然というべきだろう。

教養がなくていい、というのではない。しかし、教養だけでは生きていけない。家族を養うために、地域社会での役割を担うために仕事をせねばならないのだとしたら、自分の趣向などどうでもよくなるからだ。


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