陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(二〇)

2009-09-29 | 神無月の巫女感想・二次創作小説

明日も頑張ろうとか、もう少しだとか、気休めに励ますことはないのが姫子である。
同じだけの苦痛を感じながら、姫子は恬淡としてやってのけていた。同じ傷口でも痛みの鋭さがそれぞれであることに、千歌音は思い至らない。千歌音と姫子には、明らかにわかる能力差がある。千歌音が苦心して坂道を登り切ったあいだに、姫子はすでに山ひとつは超えているのだ。下手に姫子が励ましたりすれば、千歌音は追いつこうとばかりに俄然張り切って無理をする。あるいは、自己謙遜という名の逃げを打つ。それをわかっているから、よくできただの、ここがまずいだの、褒めることもけなすこともしない。ただ側にいるというこの瞬間だけを大切に、愛おしくしてくれるだけだ。

修行がけっして迅速に進んでいるわけではないのに、姫子はいっこうに責めることはない。
儀式とやらが完成しないのに、余裕綽々といった感で、未完成の絵の余白への筆入れをあれこれと夢想しているかのように、むしろ過程をじっくりと楽しんでいる風ですらある。世の中はなるたけ卵を多く生む牝鶏のように手間のかからない出来合いの成果を望みながらも、まだ何らの力もないあどけない雛鳥の羽のばたつきをほほ笑ましく見つめるものであるが、ちょうど姫子のまなざしはそんな慈しみに満ちているように感じられた。失敗をしてはいけない、と思っていた自分でも、失敗したっていいのだ、と許せるようになった。この頃は山歩きをしていても、千歌音の前でわざと転んでみせるような真似までしてみせる姫子なのである。おふざけではなく、千歌音が劣等感にさいなまされているのを知ってのことか、と勘繰りたくもなる。修行の先が見えないのに焦っていないのは、あの日以来、巨神(おほちがみ)に遭遇することがなかったからだろう。最初に見かけたのが山中だったから、修行の最中に出くわしてもおかしくはないのだが。

「思っていたってできないわ。逃げたくても、どこに逃げたらいいのかわからない、とんでもない場所へ連れていかれるのに」

茶化して、そう答えるのが千歌音の精いっぱいだった。
巫女の修行は、千歌音の中にくすぶっている負の感情との遭遇の連続だった。
成らず果たせず進まずの毎日に打ちのめされ、その思いでまた情けなくも膝を屈しそうになる。できない、だめだ、どうせ、などという悪しき言霊で神聖な山を穢してはならない。朝の神前で拝殿に深くお辞儀をするときも、涙がこぼれそうになる。それでも前を向いていられるのは、ただ姫子が後ろから支えてくれるような安心があるからだった。どんなことがあっても、大丈夫。だっていつも姫子が一緒にいてくれるのだもの。

「暗くて寒くて、寂しい場所はね、ほんとうはとても安全なのよ。神様が眠っていらっしゃる場所なのだから。怖がることなんてないの」
「…ん」

その抱かれ心地があまりに気持ちよくて、千歌音がうつらうつらしかけている。独り言めいた姫子のその言葉は、あたかも子守唄のように作用していた。千歌音にしては珍しく聞き分けよく頷いたのかと思ったら、すでに眠りに誘いこまれて首を垂れただけだった。

「その心はあまりにも砕けやすい。その身はこんなにも脆い。それでも、あなたは神に愛されたその魂のまま、生まれてきた。その背中の痣のほかに、どんな傷をもつけさせたくはない。わたしたちは巫女で清らかなままでいなくてはいけないのだから…。でも、千歌音は知らない。わたしがいつも、どんな想いであなたの側にいるのかを」

長い睫毛の下りた白い瞼に、姫子がそっと唇を押しあてている。かすかに甘い寝息が聞こえるのを耳の側で感じながら、陶器の肌合いを楽しむかのように指先で頬をするりと撫で、顎の輪郭をなぞっていき、そして開いた襟元のあたりに顔を埋めた。

その翌朝、千歌音は寝床で行儀よく目覚めた。
これから憂鬱な修行がはじまるというのに、よく眠れたせいか今朝は身が軽い。姫子の寝床はすでに片づけられていた。姿見の前で襦袢を脱いだとき、鎖骨の近くの肌に赤い斑点が浮き上がっているのに気が付いた。まだ蚊遣火を焚くには早いが、なにせここは虫も殺さずの霊山が迫った神域である。虫除けに薬草を調合した線香を焚きしめていたはずだが、寝ているあいだに、虫に刺されたのだろう。姫子に見られたらからかわれそうで、急いで白衣の襟を当てた。針の先で指を突いたといった痛みですら大騒ぎしていた昔の自分から比べると、ずいぶんと鈍くなったものだとしか思わなかった。幸運にも、千歌音は姫子のその夜の顔を知らなかった。…


ジャンル:
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