陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(三十五)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

だが、千歌音に煩悶をもたらしたのは、あの事件からの二次的なものからだった。

三月はじめ、梅がしぼみ、そろそろ桜に花愛での機会を譲ろうとする時節であった。
ひと月経ち、巨神(おほちがみ)があれから村を襲ったという報告は何もなかった。かたくなに戸を立て、窓を閉ざし、地下があればそこに潜っていたであろう村人たちも、あの災難のことを頭から忘れている頃でもあった。どんなに戦で荒れても、百姓は季節に応じた土地のことが根っから心配な性分である。巨体に潰されて草木も削がれ、花実ももがれた無残なただの泥地と化した土地は、働き者の百姓たちの手で、秋の収穫に向けて稲田として再生されていた。ゆっくりとこの村は以前の平穏なすがたを取り戻しつつあった。

その日、乙羽と共に、千歌音は村の茶会に出席していた。
乙羽というしっかりした支え手がいるものだから、かつてのように義姉君たちのよる嫌がらせで、日程を外されたり、衣装合わせをしくじったりという恥をさらすこともなくなった。つくしが土を持ち上げる、うららかさ溢れた春の陽気のせいか、すこぶる体調もいい。のどかなうぐいすの啼く声に誘われてついつい足も進んでしまうような好天に恵まれた日でもあった。午前中に庭を散策し、午後からの茶会では参加者がそれぞれ俳句を詠むのであるが、あらかじめ、手ほどきを受けていた千歌音はそつなくこなすことができた。

その帰り道、ふたりを乗せた馬車が立ち往生したのだ。
がくん、と馬車が揺れたかと思うと、それまでの快闊な車輪の音がしなくなったものだから、乙羽はドアを開け、注意深くあたりに視線をさまよわせながら外へとまろび出た。数分後、戻ってきた乙羽の報告によると、車輪がぬかるみに挟まってしまったので、しばらくそこに停車するのだと言う。

たしか前にもこんなことがあったはずだ。
一月、姫子の薬を買いに出かけた帰り道、人力俥が路次の溝に嵌まってしまい、修理をしている最中に、かつての姉巫女に遭遇した。そして、あの不気味きわまりない狂信的な芸能集団にも。太鼓や笛を鳴らして群衆をひきつけ、みだらな寸劇を披露したり、自死するようなそぶりをしてみずからの血で書をしたためていたりの、あの気違いじみた顔触れ。とても人間のものとは思えなかった。彼らの幟は「おろち衆」と染め抜かれていた。あの集団と、あの巨神とは、なにか関係があるのだろうか…。

千歌音の顔に急に不安が兆しはじめた。主の気分が急降下したのを察した乙羽は、さっそく気遣いを怠ることはない。

「千歌音お嬢さま、ご安心くださいませ。馬車に乗っていればよくあることです。このあたりは道が悪うございますから。ささ、手持ち無沙汰になってはいけませんから、二人だけの茶会を楽しみましょう。どんな些細な時間でも、優雅な嗜みを忘れないのが淑女たる者の務めでございますよ」

そう言って、乙羽は馬車の座椅子の蓋を開いた。
そこは物置になっており、持ち運びできるトランクを引っ張り出した。取り出したのは、西洋磁器の茶器一式、そしてお出かけ直前に焼き上げたばかりの香ばしいビスケットを詰めた籠である。先だってのお茶会は和式だったが、こちらは西洋流。まったく用意がいい。乙羽のこんな、なにがあっても動じない部分は、姫子に似ているなと思わざるを得ない。それでいて、姫子のように、いたずら口を叩いたりはしないのだから、主としては気分がいいのだ。

ほのかに香り立つ紅茶を味わいながら、菓子に手を伸ばしていた二人。
停車してから、ものの数分もせぬうちに、馬車はがくん、と大きく揺れた。やにわに床が傾いた車内で茶器は横滑りし、菓子が散乱し、お茶はぶち撒かれた。

あまりの振動だったので、千歌音の背筋には冷たいものが流れていた。
この振動はただの地震ではない。そして、この不穏にすぎる鳴動には覚えがある。よもや、あの巨神(おほちがみ)が襲ってきたのではないか。ここすっかり、楽しいことに夢中で忘れていたはずの、あのおぞましい惨劇が脳裏にまざまざと蘇ってきた。




ジャンル:
小説
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