陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(二十一)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

洞窟の暗室に入室して、半月ほど経過した頃のこと。
足の痺れそのものは、千歌音にはもう苦痛ではなくなっていた。自分を石のような物体だと思えば、どのような痛みすら感じなくなれるのだ。ときおり、虫か蛇のようなぬめった生きものが手のひらに触れる感触があった。鼠のように小動物が走りさる音や、蝙蝠が啼いて飛び立つ音もした。最初は気味が悪いと思っていたそれも、このあまりに静かで退屈すぎる場所では、自分を刺激させる不思議なできごとのひとつぐらいにしか思えなくなるから奇妙なものだ。天井から冷たい滴が一滴首筋に落ちたぐらいで絹を引き裂くがごとくの悲鳴をあげていた千歌音も、こうした外界の衝動には動じなくなっていた。かえって、今日はどんな生き物の気配がするのだろうと楽しみにさえなっていたぐらいである。

だが、その頃から、千歌音には不可解な感覚が生じはじめていた。
暗闇のなかなのに、静寂のうちにあるのに、なぜか見えてしまう、聞こえてしまう、感じてしまう、奇妙なかたち、いろ、こえ、おと、さむさ、おもさ。ざらざらとして断片的だったそれらの感覚は、しだいに、ねっとりとしたまとまりをもって絡みつく。およそ生命の息吹あるものとは思えない。甘ったるいものを食べたあとの虫歯のようにちくちくと刺しながら、ときおり思い出したように千歌音の精神を蝕みつつ響いてくるのだった。それを魑魅魍魎と呼ばずして、なんと名づけたらよかろうか。

だが、千歌音にはそれを化けものじみて扱うことなどできなかった。
それらの声、それらのすがたかたち。次第にかたちになって明らかになっていくそれは、千歌音にはすべて久しく、近しく、親しい者ばかりだった。もはや存命していないはずの両親、姫宮の家の者たち。かつて姫宮神社の邸で仲良く遊んだ下女下男、世話回りをしてくれた女中たち。舞踏会で出会った殿御たち。そして、姫宮の先代当主たる千実(ちざね)。さらには、あのおばあさまこと月の大巫女までもが。だが、すがたは見目良くても、それらは千歌音におどろおどろしいことを吹聴しつづけた。──「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」「巫女を殺せ」──。

千歌音は耳を塞ぎ、眼を閉じ、地面に突っ伏した。
それでも、その声は、その姿は、どこまでも追いかけてきた。巫女とは、剣の巫女たる自分に他ならない。なぜ、自分を愛してくれたはずのこの者たちに、殺せ、誅せよ、死ね、くたばれ、と言われつづけなければならないのか。いや、好きだと思っていてくれたのは、自分だけの思い込みだったのか。慕われている素振りを見せて、裏では妬まれ、誹られ、疎まれ、嫌われていたのか。

耐え切れなくなった千歌音は、密室を閉じていた扉に縋りつき、どんどんと叩きはじめた。

「開けて、開けて、開けて! ここから私を出して、逃がして! こんな地獄、耐えられない! このままでは私はおかしくなってしまう。狂って死んでしまう! 助けて、助けて、助けて!」

その扉は固く、重く、時間が来なければぜったいに開け放たれることはなかった。
千歌音の悲痛な叫びは外には届かなかった。その扉を開けた姫子が見たのは、長い黒髪を振り乱したまま倒れていた千歌音の姿だった。蝋人形のごとく青ざめて失神している千歌音を、姫子は抱きしめ、手を握りしめ、体をさすり、優しくいたわった。黒髪に指を潜ませると、生え際に汗が光っていた。被っていた千早で千歌音を覆うと、姫子は無言のまま、みずからの試練の間に足を踏み入れていった。



ジャンル:
小説
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