陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。

「夜の点(くろぼし)」(二十八)

2009-09-29 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空

頭を抱えてうずくまることしかできなかった千歌音だった。
切り株のようにへたりこんで腰を下してしまったあとは、もういくらも立ち上がれない。足があるのに、もう一歩たりとて歩けない。じきにあの邪神がここを見つけるであろう。石を持ち上げてその湿った裏側にこびりついた虫を眺めるように自分が発見される姿、子供が遊びっ気で石を落とすようにして潰されていく自分の末路を想像して、千歌音は戦慄した。

どれくらい、その場にとどまっていたのだろうか。その衣の裾を引っ張る者がいた。

「…ね。…ち、…か、ね」

かすかに聞こえるのは、自分の名を呼ぶ声だった。もしや、姫子が?! だが、周囲を見渡すにも己を覆う屋根の一部によって、光りが閉ざされ、薄暗く、ましてや身動きもとれるものでもない。

「千歌音さま。千歌音お嬢さま、大事ありませんか?」

声がしたのは、自分の足もとからだった。
自分の太ももの付け根の側から、ひとの頭のようなものが覗いている。一瞬、生首だけ置かれているかと勘違いして仰天。さらにそれが落ち着き払った声で口を開くので、千歌音は驚きつつもかろうじて安心を取り戻した。着物の裾を掴んでいたのは、少女の指だった。その手は二枚の板の合間から差し出されていた。すこしおどきになってくださいませ、そう指図されて、千歌音はおずおずと後ろへ下がった。板が引きずらされて、そこだけ埃の払われた痕が見える。やにわに少女が上半身を出した。姫子に近い明るめの髪の色の少女、見慣れた顔の侍女。それは、先日、服毒が疑われた膳で機転を利かせた、あの娘であった。

「乙羽…さん?!」
「千歌音お嬢さま、ここなら安全です。早くお隠れくださいませ。さあ、早う、こちらへ」

乙羽がしきりと手招きをする。千歌音は彼女が入り込んでいる穴を覗きこんだ。乙羽の足が浮かんだ高さから察すれば、落ちても這い上がれないほどの深さではないらしかった。長い下げ髪が引っかからぬよう、肩から前へ垂らすと手巾(ハンカチ)で一つ束ねにした。乙羽に手伝ってもらいながら、千歌音は足からそろりそろりと潜り込んだ。乙羽も心得たもので、自分の肩を足場にと差し出し、主の小袖の裾が乱れぬようにその両脚を包んで受けとめている。土だらけの足袋の裏がひんやりした地の感触を得たとき、侍り女に抱きとめられている格好になっていた。もちろん、乙羽は畏まってすぐに身を離すや、千歌音の着物についた土埃を叩いたのである。穴はゆうにひとが五人ぐらいは入れる広さがあったが、他に誰もいなかった。

ここはもしや厠(かわや)なのでは、という問いは口にはしなかった。
とりたてて鼻につく匂いもなく、汚物が残っているわけでもなかった。手で触ってみたが、石壁のしっかり組んだ構造であると知れた。使われなくなった古井戸か、地下壕なのかもしれない。座敷ランプが置かれてあって、内部はほのかに明るかった。千歌音が穴へすっかり身を沈めると、乙羽がすかさず入り口を密閉しない程度に板戸でふさいだ。直後に叩きつけるような轟音が生じて上下に揺する激しい振動があり、揺れ幅が穏やかになると静かに埃と木片とが隙間から流れてきた。間一髪であったのだ。

ちちち、とちいさなさえずりが聞こえた。
乙羽が着物の袂を開いてみせたのは、ひよこだった。ぴぴぴ、ぴよ、ぴよ。と軽く啼き、羽繕いをしてみたり、目をくるくる回してみたりする。乙羽が指を添えると、手乗りに慣れているのか、しがみついておどけてみせた。それで、千歌音の恐怖はいくぶん和らいだ。

「その子は貴女のお友だち?」
「名をミカと申します。ここのお邸のお食事に出されるはずの卵に混じっておりました。うっかり孵化してしまったのでしょう。大きくなれば、いい鶏肉になる。だから飼育して太らせろと言われました。でも、わたくしには可愛くって…食べるなんて滅相もない。それで逃げたことにして、ひそかにここで飼っていたのです」

ち、ち、ち。とさえずりながら、ひよこは千歌音の肩先にも止まった。
綿毛のようなふわふわした羽毛を頬へすり寄せて、しきりと甘えてくるではないか。千歌音の気持ちもまどろんだ。いのちの温かみを側にして、ほころばない者などいない。生きているって、なんてすばらしいのだろう。こんなにも小さな生き物にささやかな幸せを教わるとは。千歌音はひよこに頬ずりして、涙を流していた。小鳥も救ってしまえるなんて、優しい人なのだろう。腹を膨らませて喘いでいた魚を見つめていた、あの日の姫子の姿に、隣の救い主が重なった。千歌音はふだん生き物にみだりに触れることはない神経質だったが、あまりの愛くるしさに胸うたれたのか。ひよこの翼をつまんで広げて、ちょいちょいと黄金いろの羽毛をくすぐってみても、嫌がるふうもない。小さい成りにも、しっかりした爪のある足を持っている。

「この子は卵のまま無体に食べられるよりも、鳥になって生き延びることを選んだのね…」
「飼い主に似て、少々、我が強いのかもしれませんわ。さもなければ、今頃はオムレツにされていたことでしょう」

とても血と骨の転がった地獄をくぐって逃げた者の言うべきでないような、不吉な冗談であったが、千歌音は極度の緊張から解き放たれた直後だったので聞き流していた。小さな命に、生き方の何をかやを教えられたように感じ入っていた。ひよこは乙羽の頭に飛び上がって、巣をつつくように遊んでいる。雛鳥はいい主を選んだのだ。

「助けがくるまで持久戦です。さ、まずは腹ごしらえをいたしましょう」

乙羽が油紙をひろげて取り出したのは、桜餅だった。
炊事場でつくっている最中で、持ってこられたのは二つだけですが、と前置きしつつ差し出す。青葉に包まれた柔らかい菓子に目を落としながら、せめてもういちど桜を見ることができたら、と千歌音は思わないではいられない。ひとつだけをありがたく頂戴し、乙羽よりも先に迷わず口に含んだ。もう毒味など要らないのだ。乙羽はすこしだけ驚いた顔をしたものの、肩のひよこと仲良く分け合って食べている。塩味がやけに利いているなと感じつつ、ゆっくりと噛みしめながら、涙の入り込んだ喉の奥へ押し込んだ。

千歌音ははじめて、姫子とは別に、この姫宮の家でこころを許せるひとを得たのだった。



ジャンル:
小説
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