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加筆あり 2017年の高松宮記念杯競輪から東西王座戦が復活

2017-06-19 08:58:00 | 競輪
かつてG II で行われていた東西王座戦とは違う。

高松宮記念杯競輪(高松宮杯競輪)において、1973年から2001年まで行われていた、東と西の王座決定戦が準決勝となり、東西それぞれ1~4着までと5着のうちの一人が決勝に進出するという方式が、今年の大会から復活することになった。


高松宮記念杯競輪概定番組について


私は、この方式のほうが宮杯ならでは、という気がする。

中野浩一がこの方式のために、5回も全勝で決勝に進出した実績がありながらも、宮杯をとうとう優勝できなかった、という話もあるほどの、「トリッキー」な方式で、導入当初は、「西の選手を勝たせるための方式」と揶揄された。

というのは、初導入された1973年は、福島正幸、田中博、阿部道の「三強」時代全盛の頃であり、これに関連した「群馬王国」、「宮城王国」という勢力図も出来上がっていた。この状況に対し、当時はびわこ競輪場の固定開催だった宮杯の人気が、近畿地区を中心とする西の選手がなかなか勝ち上がれないことによって低下するのではないか、いう懸念が示されていたことにかんがみ、決勝戦以外は、東西それぞれに分かれて勝ち上がり戦を行うという、画期的な勝ち上がりシステムが導入されることになった。

そのため、福島正幸の師匠で、競輪評論家だった鈴木保巳は、現評論家の荒木実がこの方式導入後に2回制したことに関連して、

「この方式だからこそ2回も獲れたわけで、初日から東西混合対決がある準決3本勝負方式だったら1回も獲れていない。」

と評した。ちなみに、荒木が制した特別競輪は宮杯の2回だけだった。

しかし、この方式は、一方では、後のフラワーライン VS 九州 という、宿命の対決をくっきりと表した方式とあいまった。これに関連して、東西が区分けされていた頃の宮杯は、明らかに「線 VS 線」の対決になっていたな。

それに関連して、実は、東と西の、それぞれ分かれたレースにおいても、「微妙な関係」が見られた。

藤巻昇は(1975年から)北海道の選手であったが、フラワーラインが「仲間内だけのラインにこだわるあまり、競輪の本質を見誤っている」として、「アンチ・フラワーライン」を標ぼう。そのため、九州勢の「味方」とあいまり、決勝に上がってきたときには、中野や井上にマークするようになった。

1980年に藤巻は優勝しているが、このときは中野にマーク。正攻法の吉井秀仁の後位を巡って中野と山口健治が競りとなり、双方2センター付近で「吹っ飛んだ」ところ、藤巻が吉井後位に入りこみ、直線で差し込んだ。

一方、選手数だけ見れば、福岡に匹敵する「大所帯」だった岡山を当時束ねていたのが、現解説者の西谷康彦であったが、西谷はデビュー当初より山口国男を慕っており、そのため、岡山勢が決勝に上がった場合には、フラワーラインとの連携が見られた。

したがって、フラワー VS 九州 時代の宮杯は、「東西ラインの激突」というふうには一筋縄ではいなかったのである。

また、中野が一度も優勝できず、井上茂徳もなかなか優勝できなかった大会であった一方、滝澤正光は3連覇を含む、実に5回も制覇した大会ともあいまった。

中野は、西での勝ち上がり戦については、「点と点」の勝負に持ち込めたため、順当に勝つことができた。一方、井上茂徳は、当初はこの大会を苦手にしていて、決勝進出もままならなかった。当時、九州は自力型の選手が中野以外にめぼしい選手がおらず、しかも、中野とは王座戦以外で対戦させることができない事情もあり、井上は苦戦を強いられていた。

したがって、中野が「絶好調」で決勝に勝ち上がってくると、「ガード役」の井上が不在ということもあり、東から勝ち上がってきた選手が、「とにかく中野を潰せ!」という形で「一致団結」できたわけだ。

1977年の岩崎誠一の「大牽制」、1980年と1984年の山口健治と中野浩一との「壮絶バトル」はまさにそのことの証左ともいえる。

よって、上記に示した通り、もしも東西対抗形式が取られていなければ、中野浩一が宮杯無冠、ということにはなっていなかったかもしれないね。

一方、滝澤が宮杯を5回優勝しているが、これは全て、「フラワーラインの一員」が一通りタイトルを1度でも獲得した後に制覇している。つまりは、滝澤の宮杯での快進撃は、一方では、東西対抗形式に変化をもたらしつつあった、ということが言える。

そして、吉岡稔真と神山雄一郎の二強時代に突入すると、フラワー VS 九州という図式がなくなり、また、横の動きに対する規制が強化されたこともあり、点 VS 点の勝負に移っていったため、東西対抗形式は番組面において明らかに「マンネリ化」した。よって、GIIのタイトル戦である、東西王座戦を2002年に新設して、その大会をトライアル戦にした上で、東西対抗というスタンスは貫きつつも、勝ち上がり方式については東西混合という、他のGIと同じ形に、2002年より「戻した」。

しかし、今また、「ラインの力のおかげです!」という話よろしく、線と線の戦いが主流になりつつあることから、東西対抗形式を復活させることになったと見られる。
ジャンル:
自転車
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