公営競技はどこへ行く

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「やめられない、とまらない!」のキャッチコピーを考えたのは大広の当時の担当者だった、はずだが・・・

2017-12-19 23:27:32 | その他
「言った言わない」の典型例ではあるが、どんな判断が裁判で下されるのか注目したい。


かっぱえびせん「やめられない、とまらない!」を考えたのは私 生みの親がカルビーを提訴 12/13(水) 16:59配信 デイリー新潮

1964年の発売以来のロングセラー「かっぱえびせん」。そのお馴染みのキャッチコピーをめぐり、生みの親がカルビーを訴えた。

 ***

「えびせんをつまみながら、企画を考えていました。一袋目を食べ、もう一袋を開けようとした時、“思わず手が出る やめられない とまらない”といったフレーズが閃いたのです」

 と語るのは、当時、かっぱえびせんのCM制作を請け負った広告代理店「大広」の元担当者・日高欽治氏(80)である。このCMは広島と東京で放送され、その後、別の代理店に代わり拡大版が全国放送されると、かっぱえびせんはカルビーの大ヒット商品に。だが、件のコピーの発案者は長らく不明とされてきた。


 それを知った日高氏は、2010年にカルビーに手紙を送り、同社の東京本社を訪問。“誕生秘話”を披露すると伊藤秀二社長は感激し、社内報に載せるための写真撮影もあったという。

 ところが、後にCMを別の会社が著作権登録していたという理由で、社内報への掲載は見送りに。さらには、社長との面会後に放送されたテレビ番組や新聞記事では、“コピーは社員が考えた”と紹介されていた。

 これに怒った日高氏は、名誉を傷つけられたとして今年7月に東京地裁に訴えを起こした。

「自分に著作権があるとは思っていません。ただ、テレビ番組や新聞を見た人は、どう思うか。私が嘘をついていたと思うはず。それはクリエイターとして堪えがたい」


 損害賠償請求額は1億5000万円だが、これは金額がないと裁判にならないといわれたためで、「お金が欲しいわけではありません」と日高氏はいう。さて、カルビーはなんと答えるか。

「日高様の面会のご要望に可能な限り真摯に対応させて頂いておりました。それだけに、今回提訴されたことは誠に残念でなりません」

「週刊新潮」2017年12月21日号 掲載



以下は参考記事。


昭和テレビ大全集 ぢゃない 昭和のテレビに関する四方山話 2017-07-17 「やめられない とまらない」 かっぱえびせん名コピー誕生の知られざる話 証言編(2)

保泉芳伸氏の陳述書より
カルビー株式会社とのこの度の争いの経緯について
1 私が関わった発端
 2010年6月10日ころのことでした、40年ほど前に広告代理店株式会社大広に勤務していた時の同僚のオーディオディレクターだった関安三郎さんから電話があり、「欽ちゃん(日高欽治さんのこと)ってカルビーの“かっぱえびせん”のコマーシャルつくってたよねえ」と言われたのが、私がこの問題に関がる発端でした。

 日高欽治さんは㈱大広での2年先輩の社員でした。


 私は関さんからの電話の問いに「ああ、あれは日高さんの絵コンテで、日高さんが忙しくて現場で撮影やってる暇がないからといって、急遽私が助っ人で演出から仕上げまでやった仕事だよ、どうしたの今頃そんな話を」と、訝しげに問い返しました。
 「ああそうか、あなたが演出したんだっけ、そうだ思い出した、だったら『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』は欽ちゃんのコピーだよね」
 「どうして」
 「いや、何か『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』のキャッチコピーは、電通でつくったとか、伊藤アキラさんがつくったとか、栗本慎一郎がつくったとか、そんな記事が週刊誌に出ているらしいよ」との、関さんの話でした。


 しかも日高さんが、「私が原作者です」とカルビーに名乗り出たけど、お客様相談室のA室長から、「お話を伺うと、日高さんの話はほんとうのように思えますが、最近、私が原作者ですと名乗りでる方が幾人か見えられたので、日高さんの話にハイそうですかと言えないのです。なにか確たる証拠になるようなものはありませんか」と言われたとのことでした。
 その背景には、2007年に音楽プロダクションのアストロミュージックが、『やめられないとまらない、かっぱえびせん』のコピーの入ったCMソングは、昭和40年ころ当社所属の作詞家・伊藤アキラと作曲家・筒井広志がつくったので、今もCMソングの一部が使われているので、使用料を支払ってほしいと言われ、契約をしてあるらしいということもあるようです。



 関さんから電話があった翌日三人で出会い、私は当時のことを鮮明に記憶していましたので、当時の様子を思い出すままに話ました。
 なぜ私がそのように当時のことを鮮明に覚えているかというと、私にとって”かっぱえびせん”のCM制作は特別な仕事だったので、私の心に強く印象に残っていたのだろうと思います。

 私は今年で72歳、年相応に記憶力も衰えていますが、なぜか”かっぱえびせん”のCMのことは、当時の仕事の様子などが心に映像として残っているから不思議です。



 というのも、当時の大広の放送制作部のシステムとしては、一人ひとりが担当スポンサーを持ち、自分で企画立案し、自分で直接クライアントと交渉してCMをつくるという、一人ひとりが独立したプロデューサー兼演出家でした。
 私も㈱白元を担当し、パラゾールやノンスメルなどのCMを、ニヶ月に一本くらいの割りで制作していましたので忙しかったのですが、それ以上に忙しかったのは日高さんでした。

 マルマンのCMや、特にビクターのラジオ番組を担当していたので週単位で追われ、じつに忙しく働いていました。もちろん日高さんばかりでなく他の放送制作部員の人たちも忙しく働いていました。


 そこへ広島営業所から、“かっぱえびせん”の15秒のCM制作の依頼が入り、日高さんに担当が割り振られたのですが、日高さんは自分の担当しているレギュラーの仕事で忙しく一人でやりきれないので、私に「手伝ってほしい」と頼まれたのです。
 当時の私は、まだ未熟な駆け出しの演出家で、自分の企画したものを自分で演出するのがやっとくらいの力量しかありませんでしたので、他人の企画した絵コンテを基に演出していくことは、かなり高いハードルでした。
 それだけに今でも心の中に当時のことが在り在りと残っているのかも知れません。




2 「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」のキャッチコピーが出来た由来
 日高さんの絵コンテは大変にユニークだったので、どうしてこのアイディアを思いついたのと、日高さんにたずねたら、“かっぱえびせん”を食べながらなかなかいいアイディアが出なくて困って、一袋食べてしまい、もっと食べたいと二袋目に手が伸びたときに、思わず「やめられない、とまらない」という言葉が思い浮かんだんだよ、と裏話を話してくれました。
 それに制作費が少なくて、つくるのにずいぶん苦労させられましたので、今でも不思議にそのことは覚えています。


 それと”かっぱえびせん”の生みの親の松尾社長さんが、CMの完成の日に広島から上京して銀座の松屋の裏にあった大広の録音スタジオに来られて、CMの完成を大変に歓びながら、私たちとスタジオの中で“かっぱえびせん”を食べながら談笑した様子などを、ありありと当時のようすが思い浮かべられるように話しました。
 また関さんも私の話を聞いているうちに、当時のことを思い出して同様に、「最初絵コンテを見たときに、まさか歌にするとは思っていなかったので、なんだ変なコピーとけなしたんだよ」と言っていました。




3 カルピーの伊藤社長から、日高さんが原作者だと認められた日
 そんな話をしているうちに、保泉の話ならカルビーでも信憑性をもって聞いてくれるだろうから、一緒に行ってくれないかということで、日を改めて三人でカルビー株式会社の「お客様相談室」のA室長のとこへ話しに行きました。
 A氏は私の話を聞き、話の内容に信憑性を感じ、後日社長にも会わせると約束してくれました。



 2011年6月29日、伊藤秀二社長と会う機会を得て、社長の他、相談室長のA氏と宣伝課長のH氏も同席して、私たち三人は、“かっぱえびせん”のCMソングが誕生した経緯を在りのままに話をしました。
 特に、社長との談笑で、明日宇都宮へ行くというので、「どうしていくのですか」と尋ねたら、“かっぱえびせん”は空気を運んでいるようなのものだから、広島から東京までの運賃がもったいないから、宇都宮の工場をつくるので、その打ち合わせに行くというような話をしまたので、そのような話は、当事者しか知らない話でしょうから、大変に信憑性をもって受け取られました。

 伊藤社長も私たちの話を信頼してくれて、「カルビーが今日こうしてあるのも、創業時代に日高さんたちが力を貸してくださったからですねえ」と喜んでくださいました。日高さんを「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」のコピーの原作者として認めてもらえたのです。




4 金銭的な要求などの意思なかった日高さん。
 日高さんはそれだけでよかったのです。
 原作者としてカルビーに認めてもらえただけでよかったのです。
 決して原作者として金銭的な要求をする気はなかったのです、「ただ週刊誌などに、日高さん以外の人が『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』のキャッチコピーをつくったかのような記事が載っているので、御社の社内報に、今まで作者不詳だった『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』のコピーの作者が見つかりました。そんな記事でも載せてくれませんか、そうすれば御社の社員も創業時の歴史を知ることもできるし、日高さんはその記事のコピーを持って、疑念を抱いている友人や知人に、カルビーでもこうして認めてもらった、と、クリエーターの誇りを取り戻せるのでお願いします」と、私からA氏にお願いしたのです。

 A氏にも異論はなく、「どんなふうな内容にしたらいいか、何か見本になるような文章を書いてくれませんか」と、内々に頼まれましたので、次のような文章を参考に書きました。



『かっぱえびせん今昔物語』

(社内報記者の署名入り記事)



 私はある日、偶然にも「かっぱえびせん」のコマーシャルを初めてつくったという人に出会いました。「かっぱえびせん」が発売されてから40年以上経ちますから、その人は70歳を越えていました。
 その人は若かりし頃、広告代理店・株式会社大広の制作部で、テレビのコマーシャルの草分け時代に活躍した人です。名前は日高欽治さん(72歳)です。


 日高さんが“かっぱえびせん”と出会ったのが、昭和39年、当社がニューヨーク「菓子国際見本市」でスナック菓子として好評を博し、自信を持った創業の松尾孝社長が、日本でも大々的に売り出そうと、広島から東京に進出する決意を固め、テレビで宣伝するために大広にコマーシャルの制作を依頼したことから始まりです。


 日高さんはかっぱえびせん”を前にして、どんなコマーシャルをつくろうかと、ぽりぽりと”かっぱえびせん”を食べながら、必死にアイデアをひねり出そうともがいていました。

 なかなか良いアイデアが出ないうちに、一袋食べてしまいました。とても後を引く味で、もう一袋食べたくなり手を伸ばしたときに閃いたのです。
 「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」。このフレーズでした。
 もうこうなればあとは芋ずる式にアイデアは出てきます。あっという間に、'



「思わず手が出る、

 手が出る、
 手が出る、
 かっぱえびせん。


 やめられない、
 とまらない、
 かっぱえびせん」


 と15秒間のコマーシャルの案が出来上がったそうです。

 そして日高さんの友人の作曲家・小川よしあきさんが、今、私たちが口ずさんでいる有名なメロデーを、出来上がった15秒の映像に、CMソングにして音楽を付けたのです。
 松尾社長も最後の仕上げの日に、広島から駆けつけ録音スタジオに入り、仕上がったばかりのコマーシャルを見て、大変に喜んでいたそうです。


 ディレクターの日高さんが、“かっぱえびせん”を食べての実体験から出た言魂のようなコピーだからこそ、40年以上経った今でも私たちの心に響いてくるのだなあと、私もうれしくなりました。
 日高さんが「カルビーさんもあの頃はまだ広島の小さな菓子工場だったけど、今では一流企業に成長している姿を見ると、草創期にその一役を担わせていただいたことを、誇りに思っています」と言った言葉が印象的でした。


 私が入社したときはもう大きな会社でした。でもこれまで大きくしてくれた、松尾社長はじめ多くの先輩の皆様、そして外から支えてくれた人がいたから今の私たちがいると思うと、この環境に安住してはいられないという気になりました。
 40年以上も親しまれる「やめられない、とまらない、かっぱえび世ん」というコマーシャルを作ってくださった日高欽治さん、ほんとうにありがとうございました。



(◯◯記)


 このような文章を参考になればと思って渡しておきましたが、後日、日高さんは宣伝部のH課長と会い、社内報に載せるための顔写真を撮ってもらったから、次号に載るのではないか言っていました。
 しかし9月に入っても、日高さんのところへは何の連絡もありませんでした。そこで日高さんがH課長に問い合わせたところ、H課長より文書で「社内の関係部署と協議の結果、日高さんのご要望には応じられません」といった趣旨の返事が戻ってきました。



(中略)



 一体何を言いたいのでしょうか。どんな法律を駆使しようと、私たちが昭和39年に”かっぱえびせん”のコマーシャルを作った事実を否定することはできません。担当プロデューサーと映像ディレクターとオーデオディレクターの三人が揃っているのに、それを完全に否定し、そのような事実はなかったと何を根拠に言えるのでしょうか。


 百歩ゆずって、コマーシャルはつくったかもしれないが、『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』のコピーを日高さんはつくらなかった。という視点に立ってみましょう。
 つくったこともない人間が後年「あれは俺がつくったんだ」と言いふらせるでしょうか。つくったこともない人間が当時の絵コンテを再現できるでしょうか。つくったこともない人間が「なんだ変なコピー」とけなしたんだ、などと思い出せるでしょうか。
 もしつくった事実がないのにそれだけのことが言えたら、それは詐欺師の集団です。
 私たちは何を欺こうとしたのでしょうか。


 カルビーでは今後とも事実だけしか公表しないということですから、私たちの存在そのものを否定されたわけです。
 全国放送で私たちのことはなかったことと、否定されたわけですから、私たちにとっては大変な屈辱です。
 私たちは最初から、著作権を楯に金銭を要求したわけでもなく、ただ社内報に日高さんの記事を載せてくださりさえすれば、「シャン、シャン、シャン」で終わったのです。


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