公営競技はどこへ行く

元気溢れる公営競技にしていきたい、その一心で思ったことを書き綴っていきます。

後乗りではダッシュがつかないぞ

2012-11-26 06:25:44 | 競輪
TOOL4より

平成24年11月25日

小松島FⅠ(西日本カップ)の2日目は、小松島競輪特有の風も吹かず、穏やかだったのに、強い筈の選手が脆かったり、「とても」の弱い選手が3着に喰い込む波乱の続出。これも全てに大ギヤに依る弊害。以前の様に調子、そして実力が優先する競輪に早く戻して貰わねば、偶然ばかりでは、最大の長所である推理が成り立たなくなり、真のファンが離れて行く事は明白。早く気が付いて、ギヤを制限すべき。どうせやるなら中途半端にせず、3.57迄として、フレームも頭から落ちる、縦パイプの制限も同時にやる事か。75度以上はダメとすれば、全員が後乗りに成り、グッと安定感も増すし、回転力の勝負は理想的。



ま、慣性力が備わっているとは思えないスポークホイール仕様にもかかわらず、4倍台のギアばかり使用している今の選手はほんとどうかと思うのは確か。ま、ホイあたりもそれぐらいのギアで競走していたようだが、言うまでもなく、前輪はバトンで後輪がディスクだからこそそうしているのであって、前後輪ともスポークだったら足腰を痛めるだけになってしまうだろう。

ところで、後乗りっていうのは「よくない」。

確かに、福島、田中、阿部の三強あたり、いや、阿部良二あたりまでは、競輪選手の乗車フォームは確かに幾分後乗りだったように思う。しかしこれでははっきりいってダッシュがつかない。

阿部良二がメダルを取るまで、競輪選手は世界選で惨敗を繰り返していたが、ただ一人、平間誠記だけは、今の選手の乗車フォームに繋がる「立ち乗り」をしていた。すると、平間は2年連続でプロスクラッチでベスト8入りを果たした。また、立ち乗りをマスターしたことにより、平間は「悪魔の脚」と恐れられるほどの驚愕の強さを発揮するようになった。そして、1968年の世界選は、平間自身もメダルを取るつもりでモチベーションも高揚していたみたいだが、練習中の事故で亡くなってしまった。それ以後しばらく、「立ち乗りフォーム」をする選手はいなくなった。

だが、1975年の日本選手権決勝で、165㎝しかない高橋健二がホームからカマシ先行を決め、500バンクの千葉で逃げ切り優勝を果たした。このレースで落車した福島正幸は、高橋のスピードに全く反応できなかったと話していたが、高橋は体格をカバーするべく、平間がやっていた「立ち乗りフォーム」をマスターしていたのである。

それ以後、菅田順和、中野浩一らも同様に「立ち乗りフォーム」をマスターし、高橋ともども世界選で活躍したのは承知の通り。そればかりか、競輪のレース内容をも変えてしまい、この当時は、バンクレコードは瞬時に更新されるのが当たり前だった。

その一方で、従前の単調な展開が鳴りを潜めたせいか、車券を取りにくくなった、という客の声も上がってきたのもこの頃からであり、その後、競輪人気が下火になっていったのも確かだが、少なくとも、後乗りを推奨できるのはツーリングまで。今ではロードでも後乗りなんかやってる選手はいないぞ。

ただ、T社長の話も一理あるけどね。

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