
1月に「テンポイントメモリアル」と称して日経新春杯の日に京都競馬場へと行ったわけだが、その「第二弾」というわけではないが、今回はあの天才・福永洋一の騎手生命が絶たれたレースである「毎日杯」当日に阪神競馬場へと行くことにした。
1979年3月4日。
この日の福永は絶好調で、毎日杯のレースが始まるまでに1日5勝を挙げていた。ちなみにこの当時、中央競馬で1日5勝は最多勝利のタイ記録であった。
丁度毎日放送ラジオの競馬中継を聞いていた私の親父が、
「洋一また勝ったんか!こりゃ毎日杯も人気はなさそうやけど、2着には来る可能性があるから抑えとかんとアカンな。」
と言っているのを思い出す。
毎日杯で騎乗することになった牝馬のマリージョーイは現在調教師である山内研二が騎乗して新馬・400万円特別と連勝し、3戦目で洋一に乗り替わったが、そのレースで不良馬場に泣かされ大敗。本来ならばそのレースを勝って桜花賞への出走権を確実にしておきたいところであったがそれができなくなったことで急遽、この毎日杯への出走をすることとなった。
しかし毎日杯といえば当時は弥生賞と同じ日に開催されていた。つまり、関西馬がクラシック戦線に乗るための東上最終便のレースであり、このあとスプリングステークスを挟んで皐月賞へと進むパターン。つまり、関西牡馬の有力どころがこの毎日杯に集結していたわけである。
1番人気は後の宝塚記念馬・テルテンリュウ、2番人気は後の菊花賞馬・ハシハーミット、3番人気はネーハイジェット。
この年の関西3歳馬としては、カツラノハイセイコが日本ダービーを後に勝つことになるが、そのカツラノハイセイコ以外の関西の有力どころが揃って出走していた。
となると、条件馬に加え、牝馬であるマリージョーイは相当に苦戦が予想されたが、洋一人気が手伝ってなんと13頭中、6番人気にまで支持されていたのである。
しかしこのレース、マリージョーイは後方のまま追走が手一杯の状況。ま、洋一のことだから何とか着順を拾うレースを見せてくれるものと思っていたが、その矢先・・・
直線入り口でマリージョーイのひとつ前にいた斎藤博美騎乗のハクヨーカツヒデが落馬。それに乗り上げる格好でマリージョーイも落ちた。すると。
普通の騎手ならば、落馬の際の対処法とは、馬が落ちた方向とは反対方向に「落ちよう」とするものらしいのだが、反射神経が並外れてよかった洋一はなんと馬が落ちる方向へとそのまま「落ちた」。
すると、馬に振り落とされるかのような形となるもんだから、馬場へたたきつけられる「エネルギー」はかなりのものとなり、洋一は全く起き上がれないまま救急車へと運び込まれた。
その後はご存知の方も大勢いることだろう。
「えっ!洋一どないしたんや!」
「洋一アカンのか?」
辛くも命は取り留めたが・・・
「何や!テンポイントに続いて洋一までも!」
「もう競馬すること自体イヤになった。でも洋一は大丈夫なんやろ!洋一が出てきたらまたやることにするわ。それまで競馬なんかやりたくもない!」
と親父の顔はかなり引きつっていたね。一時は競馬をやめることまで検討したとか。
ま、親父はその後もやるわけだが、実のところ、洋一のこの件があってから、競馬をやめたファンは少なくなかったんだとか。
「洋一はどんな悪い馬でも2着には必ず持ってきよる。洋一が乗ってアカン馬はもう「どうしようもない」んや。武邦はそんなことようせん。それどころか、ええ馬乗って3着や!」
「だから洋一が「おらん」ようになると競馬がおもろないんや。洋一がおらんかったら競馬やめたいわ。」
私の親父以外にも恐らくそうした思いのファンは少なくなかったんだろう。何せ、あの武豊でさえいまだやってのけていない、JRA2年連続連対率4割以上を洋一は果たしていたわけだから。
また、洋一は前述したカツラノハイセイコにも騎乗していた。恐らく、カツラノハイセイコがクラシック戦線に乗っていたら洋一鞍上で戦っていたことだろう。
そして私が競馬への興味を持ったのは、丁度洋一の落馬事故以後。つまり、洋一がいなくなった後に丁度あたり、洋一の現役時代というのは一切しらない。ま、当時小学校3年生だったから「仕方ない」けどね。
でも、事あるごとに親父から、福永洋一がいかに素晴らしい騎手であり、さらに「救いの神」であったことを懇々と説かれていたことを思い出す。もし競馬をやるのならば、福永洋一を知らずして語れないということを。
そういう意味で、この「毎日杯」というレースは、日経新春杯と並んで毎年その惨劇が思い出されるレース。いや、もう思い出したくない、というオールドファンもいるかもしれないね。
そして親父は後に「天才」の名をほしいままにする武豊と比較する際、
「そりゃ武邦の息子はよう勝ちよるけど、ええ馬ばっかり乗っとるやろ。洋一はそうやないんや!カスみたいな馬ばっかりなんや!エリモジョージとか。ま、親父(武邦)よりははるかにええ騎手やけど、洋一とは次元が違うな。」
と常々語っていたね。
したがって洋一の息子・祐一の存在を知るや、
「洋一には息子がおるんや!当然騎手になるやろ!それまで待ってるんや!息子が出てきたら、武邦の息子なんかイチコロやろ!」
そもそも、祐一がまだ騎手を選ぶかどうかさえ決めていない頃から、
「騎手になれ!洋一の息子!」
ってうるさかったからなぁ。
1992年、福永祐一はJRA騎手試験にチャレンジ。しかし中学校の体育の授業中に足を骨折したことが災いして適性試験に落第。
私が、
「祐一、アカンかったわ。もう騎手試験はアカンのちゃんうか?」
というと、
「何言うとるんや!祐一よりも上の年のやつがとおってるやないか!何べんでもとおるまで受験するやろ!」
すると、騎手試験に落第したため、仕方なく?近江兄弟社高校に進学した祐一は翌年の騎手試験を合格。高校を中退して競馬学校へ進んだ。
「みてみい!おい祐一!早く騎手になって出て来い!クソ武(豊)をやっつけたれ!」
確かに競馬学校騎手試験は合格した。だが祐一は、洋一と仲の良かった柴田政人厩舎に当初配属の希望を出していたらしい。となると祐一は関東の騎手?
「アホか!祐一は関西でないとあっかい!関西で乗れ!」
とうるさい私の親父。
すると?祐一は関係者の説得もあったんだろうか、関東配属希望を撤回して洋一の「兄弟子」にあたる北橋修二調教師に直談判して配属させてもらったらしい。というわけで、「関西」所属が確定した。
「親父が関西の騎手やのに、息子が関東なんてあっかい!それでええんや。ところで北橋ってどんな馬おるんや?当然、これからは北橋厩舎の馬も徹底マークや!」
そして1996年、福永祐一、中京競馬場でデビュー。すると、デビュー2連勝を果たす。
さらに福永はデビュー当時、中京で騎乗する機会が多く、すると親父もそれに倣う形で、阪神が表の開催であるというのに、裏開催の中京のレースばかり買うようになった。すると、親父はその中京で「当たる、当たる・・・」。一時期、「中京の鬼」と称していたほど。でも親父は中京競馬場には一回も行ったことはなかった。
しかし、祐一は今やG1勝ちを量産状態であるが、私の親父はその活躍を見る前に亡くなった。でも福永祐一は確かに私も武豊以上に「マーク」しているね。
そんな祐一、今年の毎日杯では大本命馬に騎乗していた。確かに「負けられない」わな・・・










ま、今や古い話となってしまったんで、知らないファンが多いかもしれません。ま、オールドファンならば、毎日杯といえば、福永洋一の名を思い出すと思いますよ。
97年の落馬の際は確か臓器を一個失うほどの大怪我だったように記憶しているんですが違ったかな?
舞い上がっていたというのは謙遜かもしれませんが、腎臓を一つ取られてしまったんですね。
ところでフジテレビの「スーパー競馬」で、この年の朝日杯をエイシンプレストンで祐一は勝利に導きましたが、その際大川慶次郎さんが、
「私も腎臓一つありません。でもこうしてピンピンしています。」
と話していた矢先、翌週お亡くなりになられました。
ということは神様「最後のレース」が祐一の勝ったレースだったというわけで、そういった意味からも思い出深いですね。
洋一、同い年なので私も応援し続けています。