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2017年1/12 小橋正義引退

2017-01-15 10:44:13 | 競輪
6名大量落車が発生した1996年のグランプリ並びに、GIを8回制覇した小橋正義が引退。

通算勝利数は454と500勝の大台に届いていないにもかかわらず、優勝回数は68。ここ一番の舞台に強かったことが分かる。


【競輪】G1で8勝、GPも制した小橋正義が引退 2年前からはA級に2度陥落/競馬・レース/デイリースポーツ online

2017.1.13

KEIRINグランプリ1996制覇、G1優勝8回の小橋正義(49)=新潟・59期・A1=が12日、現役を引退した。

 小橋は岡山県出身。県立水島工高卒業後、日本競輪学校に59期生として入学。1987年5月、花月園でデビュー。91年に小倉の競輪祭でG1初優勝。96年は立川でグランプリを制した。

 2000年6月に新潟へ移籍してからも、01年に青森の寛仁親王牌、04年に小倉の競輪祭、前橋の寛仁親王牌で優勝するなどトップクラスで活躍していたが、15年以降はA級に2回も陥落するなど低調だった。ラストランは16年12月14日の平塚6Rで2着だった。

 通算1着回数は454(2490走)、優勝回数は68。うちGPは1、G1は8、G2は3、G3は30。獲得賞金は17億1073万3488円。



“平成の鬼脚”小橋正義が引退…体力気力十分も「一身上の都合」― スポニチ Sponichi Annex ギャンブル

G1・8勝、GP1勝「平成の鬼脚」と呼ばれた小橋正義(49=新潟・59期A級1班)が引退を決めたことが26日、スポニチ本紙の取材で分かった。

 岡山県出身の小橋は、59期生の卒業チャンピオンとして87年5月、花月園競輪場でプロデビュー。首を上下に激しく動かす独特の先行スタイルでファンを魅了し、またたく間にトップスターに駆け上がった。91年11月の小倉競輪祭で神山雄一郎の先行に飛びつき、追い込んでG1初制覇。

 戦法を追い込みに変えた94年3月静岡ダービーでは海田和裕−井上茂徳の3番手から追い込んでG1・2勝目。翌95年3月の松戸ダービーで三宅伸の逃げに乗り、“史上初のダービー連覇”(当時)を達成した。当時、鬼脚と呼ばれた井上茂徳に続き「平成の鬼脚」の地位を確立した。

 「新しい環境で再出発」と00年6月に岡山から新潟に移籍。西から東に移り、新しい環境で一流マーク選手の技を磨き続けた。01年7月の青森・寛仁親王牌は太田真一−神山雄一郎の3番手から優勝し、“史上初の東西G1制覇”を成し遂げた。

 寛仁親王牌を4度優勝、“ミスター親王牌”とも呼ばれた小橋だが、近年は競技規則の変更により本来の闘志あふれる走りが出来ず、さらに年齢的な脚力の衰えから15年7月、A級に降級。今年1月にはS級に戻ったものの、7月から再びA級に降級した。どんな展開になっても歯を食いしばり走り続けたものの、“妥協を許さない”小橋の走りは厳しい戦いを強いられていた。

 最近は引退の噂(うわさ)に対して「体力的にも気力的にも大丈夫。まだ走る」と答えていたが、スポニチ本紙の取材に対しては「一身上の都合で引退します」と本音を明かした。今月12〜14日の平塚F2(752)を最後に引退を決意。20年前(96年)の立川グランプリ覇者が、前検日の立川グランプリを前に、激闘を続けたバンクから去ることを決めた。なお正式な引退表明は年明けの予定となる。

 ◆小橋 正義(こばし・まさよし)1967年(昭42)8月18日、岡山県生まれの49歳。00年6月に新潟に移籍。岡山県立水島工高卒。87年5月に花月園でプロデビュー。主な優勝は96年グランプリ、第33、45回競輪祭(91、04年)、第47、48回日本選手権(94、95年)、第4、7、10、13回寛仁親王牌(95、98、01、04年)。通算成績は2490戦454勝。通算取得賞金は17億1073万円。1メートル71、78キロ。血液型A。



選手数が多いにもかかわらず、選手同士のまとまりが悪かったため、山口国男との親交が深かったという縁もあり、フラワーラインに与することで、西谷康彦が一つにまとめ上げてきた岡山勢だが、フラワーラインが瓦解すると西谷の参謀の役目も事実上終焉し、三宅勝彦が代わって岡山勢のまとめ役を担おうとしたところ、三宅のやり方に異を唱えたのが小橋だった。

小橋は、「あろうことか」、かつて、岡山勢が「敵」とみなしていた井上茂徳に接近。そして井上から「鬼脚術」を学び取り、1991年の競輪祭において、岡山勢初の特別競輪優勝者となった。

この優勝をきっかけに、岡山勢は一気に九州との関係を深めた。本田晴美が吉岡稔真と親しい間柄になるのも、これが契機だった。

また、「中四国」の連携が密になるのも、これがきっかけだった。今や、中四国ラインは競輪の「常識」だが、小橋がタイトルホルダーになる前までは、四国勢がどちらかというと、九州勢との繋がりが深かったことから、意外と連携実績に乏しかった。

結果(実績)がその後の人の流れを変える。小橋正義はそのことを見事に実現させた。

その後、小橋はタイトルを量産するが、上記の通り、2000年に新潟に移籍することになった。そして新潟登録でもGIを3度制覇した。

2004年は1月の競輪祭、7月の寛仁親王牌と、いずれもドーム競輪場で行われたGIを制覇。賞金王も見える位置にいたが、青森記念出場のため、青森空港へ向かう飛行機で、「偶然」、T社長と遭遇。機内でT社長が「一方的に」小橋に対してしゃべくり倒した(と、自身の日記で述べていた)ことが「きっかけ」となり、小橋は「落ちていった」ような気がするな。

なぜなら、小橋はその後、落車を連発し、ひいてはこれが影響して、タイトル戦線からも離れていったからねぇ。

とりわけ、瞬時にスパッと切れる脚が消えてしまった。

同期同級生の豊田知之がA級陥落を嫌って現役を引退したにもかかわらず、豊田と同時期にA級陥落が決定した小橋は現役を続行した。その後、記事にある通り、S級復帰も果たしたが、今年下半期からはA級に再び陥落していた。
ジャンル:
自転車
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