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つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1994サグラダ・ファミリアの紀行文=受難のファサード未完、生誕のファサードほぼ完成+工事用リフト

2017年07月19日 | 旅行

1994年ツアー2日目 受難のファサード 生誕のファサード 塔 完成予想図 枝の主日
 2015年10月31日・土曜、午後11時半ごろ、バルセロ・サンツホテルでビールを飲みながら、1994年ツアーの紀行文「サグラダ・ファミリア」の続きを読んでいる。
 1994年ツアーの続き・・写真は西正面の受難のファサードの未完の骨格である。ここに最後の晩餐、磔刑、埋葬、昇天などをテーマにした彫刻が飾られる予定である。私たちは受難のファサード側から入場した。受難のファサードの骨格を見ただけでも十分に圧倒される。未完とはいえ、ファサードには情念が満ちあふれている。
 受難のファサードの見学メモには、Ωオメガと縦横4マスのマス目に1-14-14-4、11-7-6-9、8-10-10-5、13-2-3-15の魔方陣の走り書きが残っていた。どこを見てメモしたか、記憶に残っていない。
 ギリシャ語の文字はアルファαで始まり、オメガΩで終わるそうで、キリスト教ではα-Ωを神が始まりであり終わりであると解釈するそうだ。ガウディか弟子か職人?がこの建物は神の住まいであることを表そうとしてα-Ωを彫り、それをガイドが紹介し、私がメモしたのだろうか。
 魔方陣とは縦に足し算しても横に足し算しても斜めに足し算しても、四隅の4マスを足し算しても・・ほかにまだあるかも知れない・・和が同じになるという数式である。1-14-14-4、11-7-6-9、8-10-10-5、13-2-3-15の和はいずれも33になる。33はイエスの生涯と一致するそうで、ガウディが後世に伝えようとした暗号であるとする説もある。暗号解読にも興味を引かれるが、どの場所に彫り込まれていたのか記憶にないから、次回のお楽しみにする。

 足もとに注意しながら、東正面の生誕のファサードに向かう。生誕のファサードを遠くから見ると、ただ凹凸で覆われているように感じた(次頁上写真)。しかし、近づいてみると、凹凸は植物をモチーフにした紋様で、植物の枝葉が幹から伸び出しているように、植物紋様が壁から浮き出ている。遠望したときはそれが単なる凹凸にしか見えなかった。その植物紋様がそれぞれ自由に伸びだしているためファサード全体としては左右対称に整っているわけではないが、枝葉が幹からどれだけ伸び出そうとも一本の木として脈絡をもってまとまっているように、自由に伸びている植物紋様は全体としてはバランスしている。

 バランスしているから安定感はあるが、表情全体は圧倒する迫力で迫ってくる。異様といっていい。

 すでに彫刻も完成していて、最上部に聖母マリアの戴冠(上写真上部)が彫られ、その下の上部に大天使ガブリエルによる受胎告知(上写真中ほど)、続く下にイエス生誕を祝い楽器を奏でる天使たちが飾られている(中写真左右)。それを支える柱の上はイエスを抱くマリアとヨセフの像である(中写真中ほど)。
 聖書のエピソードに詳しければ、もっと理解が深まったかも知れない。

 足もとに注意しながら工事用リフトに向かい、何人かのグループに分かれてリフトに乗った。12使徒を象徴する12本の塔は、受難のファサード側に4本、生誕のファサード側に4本立っている。栄光のファサード自体はまだ着工されておらず、塔も未着工である。記憶が曖昧だが、たぶんリフトは受難のファサード側の塔に沿って設けられていたようだ。リフトを上っていくと、塔の上部が間近になる。上部は彩りが鮮やかになり、それぞれの塔にexcelsisなどの文字が浮かび上がっている(下写真)。聖書にちなむ言葉のようだ。すべての塔には鐘が備えられ、荘厳なメロディを奏でることになるそうだ。リフトからは、はるか下にバルセロナの町が広がっている様子が見える。言い換えれば、サグラダ・ファミリアはバルセロナの町を抜きんでていることになる。その抜きんでた上方から鳴り響く鐘の音で、町中が荘厳な雰囲気に包まれるていく。それがガウディの狙いかも知れない。

 リフトを降りたあと、地下の資料展示室をのぞいた。ガウディのメモ?や模型?・・あとで弟子たちが記録したり、製作したのかも知れない・・、彫刻の断片?、建設用の道具?などが並んでいたようだが、壁に展示されていた完成予想外観と平面に吸い寄せられてしまった(写真)。まだ工事が進行していて、生誕のファサード、受難のファサードと8本の塔しか見ていないから、とても想像しきれない威容である。おそらくこれもガウディ直筆ではなく、弟子たちがガウディの言葉やスケッチ、模型をもとに推測したのであろう。弟子たちはガウディの構想を忠実に引き継いでいるだろうが、もしかするとガウディは弟子たちが構想を発展させることを期待していたのかも知れない。

 サグラダ・ファミリアの外に出た。サルデニャ通りに面して演壇が設けられていて、通りを人が埋め尽くしていた(写真)。人々は、正装ではないが、きちんとした身なりをしていて、子どもたちは大人の背丈ほどもあり、飾りのついた藁束のような枝を手にしている。キリスト教の祭儀らしい。あとで調べたら、イエス・キリストがエルサレムに入城したとき、人々がナツメヤシ(日本語訳聖書では棕櫚)の枝葉を道に敷き、あるいは手に持ってイエスを迎えたことを記念して、この日を受難の主日=枝の主日と呼んでいるそうだ。となると、子どもたちが持っているのはナツメヤシ(=日本ではシュロ)の枝葉ということになる。イエスは、エルサレム入城のあと最後の晩餐をし、受難、磔刑となり、そして復活する。
 復活に先立つ1週間が聖週間で、キリスト教徒には大事な祭儀となる。枝の主日は聖週間に先立つ祭儀という位置づけになり、このように大勢が集まってくるのであろう。日本では聖週間や枝の主日といった祭儀を目にする機会がないから、大勢がキリスト教の祭儀に集まっている様子を見るだけでも、スペインの人は敬虔なカトリック教徒であることがうかがえる。(1994.3現地)

 ・・略・・ バルセロナの起源は、伝説によればカルタゴ人がつくった町で、カルタゴが破れたあとローマ人が町を整備した。そのころの遺構が旧市街=ゴシック地区にいまも健在である。その後、西ゴート王国、ウマイヤ朝の支配下になり、801年フランク王国領になり、10世紀末に独立、11世紀カタルーニャ君主国となる。12世紀にはカタルーニャ・アラゴン連合王国となり、地中海に進出、海外に領土を保有して大いに栄えた。バルセロナは港町として繁栄したが、15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合王国とカステーリャ王国が統一王朝となり、中心がマドリードに移って、バルセロナは次第に衰退する。19世紀の産業革命以後、繁栄が戻り市域が拡大したため、旧市街=ゴシック地区を残して、碁盤目状の都市計画が進められた。ホテルから見通しがいいのも碁盤目状の都市計画のお陰である。

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