yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1994土着思想としてのエコロジー=動物が食べにくい食料を人間が加工して食べる=縄文人が伝える共生術

2017年05月06日 | studywork

1994 「土着思想としてのエコロジーを掘り起こす」  地球環境と都市・建築に関する総合的研究

 地球環境への関心の高まりに呼応して、日本建築学会内に調査研究委員会を横断する研究組織が構成され、1991年4月~1994年3月にわたる文部科学省科学研究費「地球環境と都市・建築に関する総合研究」の助成、および1992年4月~95年3月の日本建築学会特別研究「建築・地域環境・地球環境の在り方」の助成を受けて研究が展開した。私もメンバーとして参加し、前者については1994年3月に、後者については1995年3月に成果が報告書としてまとめられた。私の担当分の一部を再掲する。概要は「1995土着思想としてのエコロジーを掘り起こす」としてすでに掲載している。フルページはホームページ参照。

環境との共生 ・・略・・

縄文人の伝言
 日本を含めた東アジアでは、人を環境の一存在形態として認識する考え方が伝統的にある。これは、人が環境の主役であり、地表や地中の無機物やそこに生存する動植物は人類の発展を持続させるための対象として存在している、とする考え方と基本的な立場を異にする。鈴木秀夫は、「森林の思考・砂漠の思考」と題する著書のなかで対立する二つ概念を考察しているが、森林的思考を前者、砂漠的思考を後者として置き換えてもよい。
 森林的思考においては、人とほかの生物とは、同時に自然の輪廻のなかに存在していて、それぞれが自律しながら共存しあう世界が構築され、特定の種が地上を支配しようとする原理はまったく見られない。縄文時代の遺跡として発掘された栃の種についての次の考察は、人とほかの生物とが共生的に自然のなかに存在していることを物語ってくれる。少し長くなるが詳細を紹介しよう。
 埼玉県桶川市の歴史民俗資料館の手で発掘、分析された縄文時代の地層のなかに、当時の石器や木ノ実、動物の骨とともに栃の種が発見された。
 栃の種は、あくが強く、固いため、そのままでは食用に供することはできないが、あくを抜き、すりつぶせば保存食にすることができる。あく抜き以下の一連の行為は、知恵のある人類だからできることであるが、同時に発掘された他の骨や種からは、食料に困った形跡がまったく見られない。
 なぜ、食料に困っていない人類が、手の込んだ工夫を加えて、栃の種を食べるのか。資料館の結論はこうだ。すなわち、人が、自分たちの食べやすいものを次々と食べたとしよう、知恵のある人類のことだから、四季折々の食料を真っ先に手に入れることができる。食べにくい部分は捨てて、おいしいところだけを食べ、食料が不足し始めたら、次の食料が豊かに実る場所に移動する。
 人から考えれば、これでよい。しかし、知恵や体の動きの点では、人に比べて弱者である動物から見ればどうだろうか。人にとって食べやすいものは、動物にとっても食べやすい、それを人が食べてしまっては、動物は食べるものがなくなろう。
 であるならば、食べやすいものは弱者である動物に残して、人は、その知恵を使い、動物が食べないものを加工して食べればよいのではないか。
 そのことは、多様な動物や植物との共存を作りだし結果として環境の変化に耐えられる種の存続を可能としてきた。縄文遺跡からは、栃の種に限らず、実にさまざまな植物や動物を食した痕跡が見つかっており、この推測を裏づける。栃餅は、縄文人が私たちに遺言した、環境と共生しようとする思想に他ならない。

風水の思想
  ・・略・・

腰当思想
 日本では、平城京、平安京の構成に、中国から伝わった風水思想の典型を見ることができる。ほかに、都城に限らず各地の町や村でも、風水的発想と推測できる空間構成は少なくないが、経済優先の開発によって風水思想との直接的なかかわりは分かりにくくなってきている。(地球環境問題発生の根がそこにある)。対して、沖縄では風水の考え方による空間構成がよく残されている。沖縄の集落に造詣の深い仲松弥秀氏によれば、中国から伝来する風水思想以前に、集落立地を決定する腰当(くさて)の考え方があり、この考えと風水の考えがおおむね一致することから、それ以降、風水として広まったようだ。腰当とは、「幼児が親の膝に抱かれ、何の不安も感ぜず安らいでいる状態のように、村民が腰当の森の祖霊神に抱かれ、何の心配もなく安らげる状態」のことで、腰当森を集落の北側として、集落はその南の方向に、扇状に展開する6)。集落の空間モデルを図に示す7)。腰当森は山に形成されていて、集落を包み込むように広がる。それは、防風と水源涵養の実質的な働きをすると同時に、祖先たちが守護神として宿る精神の根源の場として大切にされた。腰当の森を失うことは、裸で放り出された赤ん坊のように、実質的にも精神的にも拠り所を失うことにつながる。
 腰当の森のすぐ南に、村の創建者である宗家が建つ。続いて、南斜面を少し下がったところに分家が建つ。そのさらに南斜面を下がったところに、次の分家が建つ。武者英二氏は、分家から見れば、宗家は腰当の森に相当し、次の分家から見れば、最初の分家が腰当森に相当する関係にあると、指摘する8)。まさに、人々と森、人々と祖霊神、そして人々同士の、共生の関係の体現といえよう。この腰当の考え方は住まいにも具現されていて、武者英二氏を再度引用すると、「屋敷は、北側の丘や森を背にして建ち、周囲を福木やガジュマルの屋敷林で囲み、屋敷内には主屋・炊事屋・畜舎などを配置していて、植物と動物と人と、そして建物が共生する世界を形成」する7)。
 風水や腰当の概念が、それぞれの土地に芽生えた環境と共生しようとする土着思想を理論化し、広く人々のあいだに根づいてきたことを説明した。理想的な風水モデルや腰当モデルのかたちをとらないまでも、風水や腰当に象徴される土着思想としてのエコロジーは、各地の農村に、居住空間形成の作法として伝承されていて、私たちがその観点から農村を見れば容易に理解できる。しかし、都市型の居住様式を優位とする情報の氾濫と、農村住民の都市への移動、対する都市民の近郊農村への流入による地域社会(コミュニティ)の変質、そして何より、環境との共生による環境形成手法を技術に置き換えることで、(つまり、商品としての技術を購入することで)、誰でも、どこでも、良好な居住環境を得ることができる社会への移行が急速に進んでいるのも現実である。このまま推移すれば、かたちとして目に見えて分かりやすく、簡便に入手できる技術が至上となりかねない。では、どのようにして、風水と腰当に象徴される、環境との共生手法をその思想とともに、文化として後世に伝えていくか。その糸口は、地域社会にあるのだろうか。これまでの地域社会は、どのようにして健全な精神を文化として伝承してきたのか。次に、地域社会における伝承の仕組みを、エコロジーの視点から検討する。


社会のエコロジー  ・・略・・

環境の共有  ・・略・・

 

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 2017.4東京国立博物館本館で... | トップ | 1992「むらづくりと風土」論... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。