yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

セイロン紅茶で知られるスリランカは紀元前のシンハラ王朝が起源、敬虔な仏教国である

2017年06月20日 | 旅行

1997「スリランカ入門」
 国際交流・宮あじ会は、宮代からアジア、さらには世界の文化と交流しようとする会です。そもそも文化とは極めて個別的であり、それぞれの地域、それぞれの民族によって大きく異なっています。しかし、個別性にこだわり、異なった文化を理解しようとしなければ国際化は生まれないし、ともに連携し豊かで平和な地球を作ることはできません。
 まず第1歩は、お互いの文化的特質を知り、それぞれの文化の良さを交換することではないでしょうか。宮あじ会では、普段着の国際交流を実践しています。なにはともあれ、お国自慢の料理はいつも最高です。また、異文化体験ツアーも好評です。1997年の夏は8月4日から11日まで、N大学3年、S君の案内で、彼の母国スリランカを訪ねます。そこで、スリランカについて紹介します。

スリランカはどこ?
 スリランカは、かつてセイロンと呼ばれていた。確か小学校では、紅茶の有名なセイロンと勉強した覚えがある。いまでもセイロン紅茶はよく知られている。しかし、現在の国名はスリランカ民主社会主義共和国SRILANKA(=光り輝く国)である。スリランカは、インドの東南にあって、インド洋に浮かぶ島であり、地図で見ると、島の形は宝石のようにみえる。実際にも宝石の産出量は多く、紅茶と並ぶ代表的な土産物になっている。
 インドとは直線で70kmぐらいしか離れていないため、古くからインドの影響を強く受けてきた。そもそも、伝説では、インドから追放された暴れ者の王子がシンハラ王国をつくったそうで、Sinhala(=ライオンを殺した者)がシンハラ人の語源になっている。この伝説からもうかがえるように、南インドから大勢の人々が移住して部族国家が形成され、その中から強大な王国が生まれたと考えられている。
 しかしまた、シンハラとは部族を異にするタミル人も南インドから流入していて、タミル人が強力になるたびにシンハラ族は南に都を移さざるを得なかったようだ。シンハラとタミルの抗争はいまでも続いていて、しばしば武力闘争に発展している。2004年時点の人口は1990万人強、そのうちシンハラ人は74%、タミル人は18%、その他はアラブ系、マレー人、オランダ系などで、人口構成にもスリランカの特質がうかがえる。

スリランカの歴史
 紀元前3世紀ごろ、すでに仏教を取り入れたシンハラ王国が栄えていた。都はアヌラダプーラAnuradhapuraにおかれ、巨大な人工貯水池を築き、年間を通して安定した水供給により稲作をすすめた。
 スリランカは島の中ほどに2500mほどの山並みがあり、それより南がウェットゾーン(年間を通して降水がある)、北がドライゾーン(10月~1月に吹く北東モンスーンの時期に集中して雨が降り、他の季節は雨がほとんど降らない)になる。
 南インドからのシンハラ人は島の北に進出し、ドライゾーンに都をおいた。人工貯水池による水供給システムの技術は、紀元前3世紀には完成していた。そうした技術レベル、仏教の聖地、都の繁栄をもとに、東南アジア、インド、アラビア、さらにはローマとも交易をしていたといわれている。中国からは仏教を学ぶため留学僧がくるほどであった。

 シンハラ王国は13世紀ごろまで続くのだが、タミルの攻撃にともない都を南に移していく。アヌラダプーラの東南に位置するポロンナルワ PolonnaruwaやクルネガラKurunegala、キャンデイKandyなどに都が移されていった。壁画で有名なシギリア(世界遺産にも登録されている)にも王朝がおかれたが、これは王位争いの内紛による。
 16世紀始め、インドに進出していたポルトガル人がスリランカに上陸、キャンディ王国を除くシンハラ王国やヤールパーナム王国など(当時、タミルの度重なる攻勢でシンハラ王朝の国力が衰え国内が3分されていた)を攻略した。ポルトガルはスリランカのcinnamonシナモン(クスノキ科の常緑高木名だが、一般には香辛料を指す、ニッケイ肉桂ともいわれる。東南アジアをはじめとする多くの熱帯諸国で栽培され、スリランカ産が最上とされる)が狙いで、17世紀半ばまでスリランカを統治していた。
 続いて、ヨーロッパの情勢に対応してオランダが進出、ポルトガルに代わって18世紀末までスリランカの統治を続けた。その後、制海権を握ったイギリスが進出してきて、キャンディ王国をも滅ぼしてスリランカ全島を支配することになる。以来、英語が公用語として広まっていった。

 19世紀に入るとイギリスはコーヒープランテーション、続いて紅茶プランテーションを拓くようになり、土着の人々のあいだに商業資本を蓄えた中核エリートが生まれてきた。彼れらは植民地支配に抵抗するようになり、やがてシンハラナショナリズムが形成されていった。イギリス本国が民主主義を進めているのだから、イギリスに学ぶ植民地の人々に民主主義の考えが浸透するのは当然である。
 抵抗運動が実り、議会制度の導入や憲政改革もあり、1948年、イギリス連邦自治領セイロンとして独立が実現した(イギリス人ヘンリ-・ムーアが総督)。1958年バンダーラナーヤカが首相に就任、中立政策をとるが暗殺され、1960年、夫の意志を継いで夫人が首相に就任、そして、72年、新憲法を制定し、スリランカ共和国として完全独立を果たす。しかし、バンダーラナーヤカ首相の権力乱用が国会で追及され、首相を解任される。その後も、タミル人の反乱による内乱状態が続き、1994年、バンダーラナーヤカ元首相の娘クマラトゥンガが女性大統領に選出される。が、現在に至るまでタミルとの和平交渉は難航している。

スリランカを代表する近代都市コロンボ
 現在のスリランカの首都は、1948年に国会議事堂が移されたスリージャヤワルダナプラSri Jayawardenepura、別名コッテKotteである。コッテというのは、15世紀のコッテ王国にちなんでいるそうで、それまで湖と草原だったところに新しく首都建設が進められたが、首都整備は必ずしも順調ではなく、いまでもスリランカの中心都市はコロンボ Colomboである。
 コロンボは、昔は小さな漁村だったそうだが、7世紀にアラブ商人たちが交易の場として使うようになってから栄え始め、16世紀以降、ポルトガル、オランダ、イギリスがコロンボ港に砦を築き、スリランカ統治の拠点にしてきたため国際的な都市として発展していった。そのため、独立した後も、現在のスリージャヤワルダナプラに国会が移るまで、コロンボが政治経済の中心になっていた。インドのデリーとニューデリー、あるいはアメリカのワシントンとニューヨークのように考えればいいかも知れない。

 
歴史を今に伝えるアヌラダプーラ・ポロンナルワ・キャンディ
 スリランカの伝統文化は仏教とともにあると言っても過言ではない。紀元前3世紀にはすでに仏教がインドから伝わっており、シンハラ王国ともに全国に広まっていった。現在でも、全人口のうちおよそ7割が仏教徒である。
 そのため、アヌラダプーラ、ポロンナルワ、キャンディなどの古都をはじめ、全土に仏教寺院、仏教遺跡が分布する。
 これは、スリランカの仏教が上座部仏教(小乗仏教)であり、すべての男子が出家を前提としていることによるのかも知れない。日本や日本に仏教を伝えた中国、韓国では大乗仏教で一般の男子は出家をしない。仏教建築、あるいは住まいにおける仏事はどう違うのか。はたまた、同じ上座部仏教であるタイの仏教建築とは果たして共通するのか。関心のある方はぜひスリランカへ、百聞は一見にしかず。

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