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2017新春 日本橋七福神を歩く② 吉原の氏神だった末廣神社から、元は小島だった松島神社へ 

2017年01月07日 | よしなしごと

 次は笠間稲荷神社の南、歩いて5~6分の末廣神社に向かった。
 このあたりはもともと沼地で、ヨシが茂っていたそうだ。徳川2代将軍の1617年ころ、沼地を開拓して遊郭がつくられた。
 徳川の安泰が確実となり、江戸が着実に発展し始めたことが推測できる。当初は、葭ヨシの茂ったところなので、葭原ヨシワラと呼ばれたらしい・・諸説あり・・。

 葭ヨシは葦アシと同じで、葦アシは悪しに通じ縁起が悪いことから吉に通じる吉原と名付けられたとの説もある。末廣神社は遊郭吉原の氏神として建立された。
 遊郭は町の外れに設けられるから、江戸時代初期にはまだまだ江戸の外れだったことになる。
 1657年、明暦の大火が起き、このあたりは焼け野原になった。幕府は江戸の発展にあわせた町づくりを進めようと、遊郭吉原を現在の台東区浅草に移す。
 わずか40年で飛躍的に江戸が発展したようだ。末廣神社は地元の氏神様として残され、信仰を集めた。
 時代が変わりいまや都心ともいえる。末廣神社の周りはビルが建て込んでいて、社は窮屈に見える(写真)。
 参拝者も肩をすぼめて順番を待っていた。通りには外に鬼の面をかぶった氏子?がいて、金一封包むと、獅子を参拝者の頭上にかざしお祓いをしていた。
 子どものころ、町内の氏子連が笛太鼓鉦の音に合わせて獅子舞をしながら一軒一軒を尋ね、お祓いをしてくれたのを思い出す。昭和は遠くなりにけり。
 ご神体は毘沙門天で、多聞天の異名を持つ。多聞天は持国天、増長天、広目天とともに四天王として仏教を守護する神で、独尊像では毘沙門天、四天王の場合は多聞天と呼ばれるそうだ。
 福徳を授ける神であり、勝負事に利益あるとされる。参拝者の列の横から社を除くと、黒々とした毘沙門天像が見えた。

 末廣神社を後にしたところで、道が分からなくなった。向こうから来る人に松島神社を聞いたら、いまお参りをしてきたと笑顔で教えてくれた。
 歩いて4~5分のごくごく普通の四角いビルの一隅が松島神社だった(写真)。松島神社の宮司がビルに建て替えたのかもしれない。
 右の壁に由来が書かれていたが暗くて判然としない。後でインターネットも参照した。もともとこのあたりは海だった。
 いくつか小島があり、下総の柴田家?が小島の一つに居を構え、夜間の航行の安全のため庭に灯火をかかげたそうだ。もしかすると柴田某は船持ちで、夜でも航行できるように小島に居を構えたのかもしれない。
 どちらにしても大いに喜ばれ、信望も厚くなっていった。柴田某の屋敷には稲荷神社が奉献されていた。
 このあたりは吉原からさほど遠くないということで、呉服商人、人形細工職人、役者、芸子など住み始め、歓楽街が形成されていった。柴田某は、誰でも参拝できるように稲荷神社を公開したため、大いに喜ばれたらしい。
 1657年、明暦の大火が起きる。幕府はこれを機に大がかりな町作りに着手する。江戸城下が手狭になっていたので、このあたりに武家屋敷をつくることにした。
 とすれば大工、左官、鳶、瓦屋・・・等々の職人も住み始める。稲荷神社の参拝者も増えていったに違いない。1700年代早々、新町の骨格ができ、このあたりは松が多かったことから松島町と呼ばれるようになり、神社も松島神社となった。
 いまは海の面影もなければ、松林もない。神社そのものがビルの中に組み込まれるほどの都心の風景である。
 きっとビルを建てられるほど収入がある=地元の信望も厚く、参拝者の賽銭も多い、ということであろう。
 ご神体は大黒神である。大黒神は、密教の大黒天が大国主命と神仏習合して出来た神道の神で、破壊と豊穣の神だったがいまは豊穣の神として信仰されている。
 社のなかでは、大きなお腹の大黒様?大黒神?がにこやかな顔で座っていた。
続く

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