4時半に犬の散歩に出発する。東側の空ない例によって星の数々が輝いていた。それが、国道を渡り時、妙に星の数が減っていることに驚き、踏切を渡る頃、天を仰いでみると全く見えなくなっていた。雲がかかったのだ。
天体の観測には天気の良いのが必要条件である。古代ギリシャで星座が誕生したというのも尤もなことである。星の動きに関しても、毎夜、観察していないと惑星の動きなど分かるはずもない。
丘陵の頂にお寺があるが、その前の道を歩いていると、正面に上の山古墳が見えるが、その中央の部分の中頃の高さに一点の明かりが見えていた。そこが丁度樹木の枝葉が落ちて、山の向こうの明るさがこちらに届いているのかと思ったこともあるが、どうも社務所か休憩所の白熱電灯のようであると考えるようになっていた。上の山古墳は現在、川北神社となっている。川北というのは綾羅木川の北という即物的な名称のような気がしてならない。
その明かりが消えていた。電球が切れたのだろう。
光にばかり目が行くのは辺りが暗くて見る物がないからである。
まだ、明るい頃に散歩していた頃、あちこちでフジの蔓が伸びていたが、その後どうなったのだろうか。
川に至って下り、駅の表に出て国道を南下して帰る。1時間余りの朝の散歩であった。
昨夕6時頃、公園、海岸へ散歩に行く。
ボラが跳ねないのは、あのボラはきっと川を遡って行ってしまったからだろう。
飛行機を見ないのはどうしてかな。次々と行くのを見たのは臨時増便だったのだろう。あの時何かあったっけ。
カラスは三々五々と南に帰っている。カラス位になると少々の自然の変化に対して安定した対応が出来るようだ。通勤、通学の人のように。
夕日の美しさにかまけて、身近な自然を見るのを忘れてしまっている。
犬は波打ち際に腹這いになるが心から心地よく感じているようには思えない。習慣、惰性のような気がする。
おそらく何も変わっていないように感じられるのは、こちらの視座が変わったために変化を捉えられないためだろう。
夕日が海に沈み、5日位の月が輝きを増してきた。何かが勢いを失うと、別のものが勢いを得ると考えるのは人間の勝手な論理から来るものだろう。太陽はまだ、何十億年も勢いを失いわないだろうし、月も満ち欠けは一貫しているのだ。一時的な現象から何か意味を感じたがるのは人間のそそっかしさから来るものだろう。