衆議院の解散

2017-09-18 13:03:42 | 国制・現代政治学

2017-09-30追記;9月28日の解散を受けて。

2020-06-22追記。

2023-01-09追記。

日本国憲法

7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。3号;衆議院を解散すること。

69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 

[議会解散権の沿革と機能]

・13世紀に議会の原型がイギリスで登場して以来、君主は議会の解散権を保持し、議会を牽制する手段として用いた。時代が下り18世紀末から19世紀にかけて、解散権はデモクラシー的な色彩を帯びることになった。君主が議会と対立したとき、解散に続く選挙を通じて国民の判断を仰ぐ意味があると認識されるようになった。□上田242

・解散権の機能として、(1)国家機関間に生じた紛争の解決、(2)国民投票の代用、(3)内閣の安定化、が挙げられる。□B教授157

 

[日本国憲法における解散権の運用(1)]

・日本国憲法施行後の初めての衆議院解散は、施行から約1年7か月後の1948(昭和23)年12月23日に行われた(なれ合い解散)。当時の第2次吉田茂内閣は少数野党であり、衆議院の解散によって多数派形成を目論んだ。解散を回避したい野党側は「解散は69条が定める内閣不信任案決議が可決されたときに限られる」と主張し、吉田に反発するGHQ(民政局)も野党を支持した。民政局の仲介によって与野党間で69条解散をすることが合意され、吉田内閣は、あえて衆議院で内閣不信任決議案を可決させ、「日本国憲法第69条及び第7条により衆議院を解散する。」との詔書によって解散をおこなった。なお、この総選挙で吉田が率いる民主自由党は大勝し、第3次吉田内閣が発足した。□上田242、憲法史378、目で見る87-8、植松小堀258

・1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効して占領管理体制が終わった(→関連記事《占領体制下の国制》)。以降、自主的な憲法解釈・憲法運用が可能となる。直後の同年6月17日、国会の両院法規委員会は「衆議院の解散制度に関する勧告」において、69条の場合以外にも解散が行われ得る・国民の総意を問う必要があると客観的に判断され得る十分な理由がある場合に内閣は解散が可能である(ただし、内閣の恣意的判断による解散を否定する)、と述べた(※)。同年8月28日、第3次吉田内閣は、憲法69条によらずに衆議院を解散した(抜き打ち解散)。吉田の意図は、鳩山派と野党への対抗にあった。□上田242、憲法史379-82、植松小堀257

(※)すでに1952(昭和27)年2月発行の佐々木惣一『改訂日本国憲法論(補正版は1954年6月発行)』303-4が、憲法69条につき「併し、これは、憲法が、この場合には解散を行い得る、ということを定めたのに過ぎない。この場合に限り解散を行い得るもの、と定めたのではない」としていた。

・この抜き打ち解散に対し、野党の国民民主党最高委員長であった衆議院議員苫米地義三は、あえて総選挙に立候補せず、その無効確認請求を直接に最高裁に提訴したが却下された(最大判昭和28・4・15民集7巻4号305頁)。そこで苫米地は1953(昭和28)年4月24日の参議院議員通常選挙に改進党から全国区で立候補して当選するとともに、改めて、通常の地裁ルートで議員資格の確認等を求める訴えを提起したが、その上告審は「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつてもかかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。」とした(最大判昭和35・6・8民集14巻7号1206頁[苫米地事件])(※)。□上田242、目で見る87-8、憲法史379-82、植松小堀256-7

(※)苫米地事件の前年に出された最大判昭和34・12・16刑集13巻13号3225頁[砂川事件]は、旧日米安保条約を「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの」と評価した上で「一見極めて明白に違憲無効でない限り」裁判所の司法審査権の範囲外にあると述べ、例外的に司法審査の対象とする余地を残していた。砂川事件判決をもって「最高裁が統治行為論を採用した」と見る一部学説もあったものの、精確には「統治行為論と裁量論をミックスした特異なロジック」というべきである。これに対し、苫米地事件判決はこのような例外を留保していないから、(統治行為とのタームこそないものの)真正の統治行為論を採用したものと評価できる。□武田108-9、尾吹163-5、阪本C235-7、諸根424

 

[日本国憲法における解散権の運用(2)]

・日本国憲法施行後の1947(昭和22)年5月から2017(平成29)年9月までの約70年間で、計24回の解散がおこなわれた(約2.9年に1回の頻度)。反対に、衆議院解散がなく議員が4年の任期を全うしたのは「1972(昭和47)年12月10日~1976(昭和51)年12月9日」の1回のみ(任期満了を迎えた時は三木武夫内閣)。24回のうち20回は7条解散であり、69条解散は次の4回にとどまる;第2次吉田内閣による1948(昭和23)年12月23日のなれ合い解散、第4次吉田内閣による1953(昭和28)年3月14日のバカヤロー解散、第2次大平正芳内閣による1980(昭和55)年5月19日のハプニング解散、宮沢喜一内閣による1993(平成5)年6月18日の政治改革解散。以上の日本の実績は「自由な解散の最典型国」とも評される。□目で見る87-8、植松小堀273

・上記23回の解散は、すべて衆議院(国会)の会期中におこなわれてきた。例えば、第2次中曽根康弘内閣による1986(昭和61)年6月2日の死んだふり解散、第3次安倍晋三内閣による2017(平成29)年9月28日の解散では、会期冒頭に解散するためだけに国会が召集されている。このプラクティスを受けて、会期中でしか解散ができないという憲法上の習律(constitutional convention)が成立した、と説かれることがある。□B教授162

・2014(平成26)年12月14日に実施された総選挙では、総選挙(及び国民審査)の管理執行のため、一般会計(予備費等)から56,143,000,000円が支出されている。

・日本国憲法が内閣に自由な解散権を与えているとの理解に立てば、最近のイギリスのように「解散権を制限する法律」の制定が許容されるかは不明(違憲の可能性?)。□曽我部4

 

[イギリスの例]

・日本国憲法の起草に関わった入江俊郎や佐藤功は、衆議院解散制度はイギリスをモデルにしたことを認めている。そして、宮沢俊義・芦部信喜らに始まる憲法学の通説は、イギリスを「永きにわたって、首相単独の自由な意思で国王に解散を助言して解散権を発動する、との運用(習律)がおこなわれてきた」と評してきた。□植松小堀267

・しかし、「イギリス首相による自由な解散」は日本で作られた神話にすぎない、との分析もある。イギリス憲法学では「いまだ国王の実質的権限が残っている」と説かれ、君主の牽制によって解散権の濫用を未然に制御する点が着目されている。実際にも議会任期の4~5年目になって解散されるのが通例とされていたが、2011年に議会任期固定法(Fixed-term Parliaments Act 2011)が制定され、首相の解散権の行使には下院の3分の2以上の賛成を要するようになった。□曽我部1、阿部67〔松井幸夫〕、B教授160、植松小堀266-74、初宿辻村23〔江島晶子〕、上田79

 

[カナダの例]

・イギリス連邦国の一つであるので統治の機構はイギリスに類似している、と説かれる。□初宿辻村100〔松井茂記〕

・現に、カナダでは頻繁に解散がおこなわれている。□曽我部2、上田78

 

[ドイツの例]

・ボン基本法69条1項本文は「自己に対する信任の表明を求める連邦宰相の動議が、連邦議会の議員の過半数の同意を得られないときは、連邦大統領は、連邦宰相の提案に基づいて、21日以内に連邦議会を解散することができる。」と規定する。この規定からわかるように、連邦議会に責任を負うのは連邦宰相のみである。□高橋205〔石川健治〕、初宿辻村173〔初宿〕

・しかし実際は、1949年の基本法制定以降、連邦議会の解散がなされたのは3回にとどまる(1972年、1983年、2005年)。□曽我部2、阿部編346-7〔初宿正典〕、初宿辻村173〔初宿〕

 

[フランスの例]

・フランス第5共和制憲法12条1項は「共和国大統領は、首相及び両議院議長の意見を聴いた後、国民議会の解散を宣告することができる。」と定める。□高橋283〔高橋〕

・しかし、ドイツと同じく解散は限定的に運用されており、1958年の制定以降は5回にとどまる(1997年以降は解散されていない)。イギリス首相が都合よい時機に議会を解散してきたことを「イギリス式解散(dissolution anglaise)」と揶揄する。□曽我部2、阿部255-6〔矢口俊昭〕、B教授163、上田79

 

[イタリアの例]

・大統領が一院又は両院を解散できる権限を持つが、憲法典で大統領の任期の最後6か月は原則として解散できないとされている。□上田79

・1948年から2017年まで17回の解散がされているが、多くは議会の任期満了間近の解散であり、残りも政権運営が行き詰まっている等の場合の解散である。□上田79

 

[解散権の理論的根拠]

前掲最大判昭和35・6・8[苫米地事件]は、抜き打ち解散が違憲無効であるとの主張に対して、真正の統治行為論を採用した(※)上で「本件の解散が憲法7条に依拠して行われたことは本件において争いのないところであり、政府の見解は、憲法7条によつて、―すなわち憲法69条に該当する場合でなくとも、―憲法上有効に衆議院の解散を行い得るものであり、本件解散は右憲法7条に依拠し、かつ、内閣の助言と承認により適法に行われたものであるとするにあることはあきらかであつて、裁判所としては、この政府の見解を否定して、本件解散を憲法上無効なものとすることはできない」とした。この最高裁は、事実上、7条解散を容認するに等しい(少なくとも司法審査で争う途はない)。□武田109-10、尾吹166

(※)なお、議員定数配分問題に統治行為論は採用されていない。つまり最高裁は「(衆議院解散と同様の)直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」ではない、と解しているのか。ここからも統治行為論の射程は明確でない、と言われる。□渡邊255

・憲法実践として7条解散が定着している事実を受けて、現在の学説は「69条の場合以外にも内閣は解散決定権を有している」との理解で一致している(かつて69条限定説を採った小嶋和司も7条解散への異論を放棄した。なお、阪本理論(1)235は「69条限定説が妥当+7条解散という習律が成立」とする)。もっとも、その理論構成はわかれる。[a]「内閣の助言と承認」に実体権能が詰まっていると理解し、7条が根拠となると説く見解(内閣法制局?)。[b]「助言と承認」には実体権能は含まれず、日本国憲法が採用した権力分立構造や議院内閣制に根拠を求める見解。□尾吹133、阪本C132-3

・なお、俗に「解散は内閣総理大臣の専権」と言われるが、日本国憲法下において解散権を行使する主体は内閣(形式的には天皇)である。内閣総理大臣は、仮に解散に反対する国務大臣がいても、憲法68条2項に基づいて当該国務大臣を罷免して解散を実現することは可能だが、国務大臣の罷免を実行するのは政治的に困難とも説かれる。現に、これまでに5例しかない(郵政解散など)。□B教授160、真渕77

 

尾吹善人『日本憲法-学説と判例』[1990]

阿部照哉編『比較憲法入門』[1994]

諸根貞夫「統治行為-苫米地事件(判批)」芦部信喜ほか編『憲法判例百選2〔第4版〕』[2000]

阪本昌成『憲法理論1〔補訂第3版〕』[2000] 

初宿正典ほか編著『目で見る憲法〔第2版〕』[2003]

大石眞『日本憲法史〔第2版〕』[2005]

長谷部恭男『Interactive憲法』[2006]

高橋和之編『新版 世界憲法集』[2007]

上田健介「衆議院解散権の根拠と限界」大石眞・石川健治編『憲法の争点』[2008]

渡邊賢「政治問題の法理」大石眞・石川健治編『憲法の争点』[2008]

真渕勝『行政学』[2009]

阪本昌成『憲法1 国制クラシック〔全訂第3版〕』[2011]

武田真一郎「日本国憲法第69条」戸松秀典・今井功編『論点体系判例憲法3』[2013]

植松健一・小堀眞裕「日本の解散権は自由すぎる!? 苫米地事件」山本龍彦ほか編著『憲法判例からみる日本 法×政治×歴史×文化』[2016]

曽我部真裕「イギリス首相になくなった? 「解散権」を憲法の視点で考える」[2017]

初宿正典・辻村みよ子編『新解説世界憲法集〔第4版〕』[2017]

上田健介「執政をめぐる比較」新井誠・上田健介・大河内美紀・山田哲史編『世界の憲法・日本の憲法』[2022] ※2022-01-09追記。

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