山崎洋子の冬桃ブログ

日常雑記です。

本牧ー光と影の町

2010年09月01日 | 雑記
 本牧は、開港横浜の中心地・中区の中でも、独特の存在感を持った町だ。
江戸時代は漁業が盛んだった。危険な荒洲の海で仕事をする本牧漁師たちは、
激しい気性と腕の良さで有名。
 独特の漁法を編みだし、抜きんでた漁獲量を誇っていた。

 また、ここで獲れる海鼠(なまこ)も有名で、熬海鼠(いりこ)にして
長崎経由で中国へ輸出されていた。

 嘉永七年、本牧沖に黒船艦隊が停泊する。前年、浦賀に現れて国交を迫った
米国のペリー提督が、「返答やいかに」と再来日したのだ。
 漁師達の喧嘩沙汰が絶えなかったとはいえ平和な村だった本牧にも、
警護の武士達が大挙して押し寄せる。
 日本の開国、横浜開港へとつながる大事件が、ここに勃発したのである。

 このあたりのことは拙著「赤い崖の女」でどうぞ。


 山手の裾野から突き出した砂浜。そこにあった横浜村は半農半漁の静かな村だった。
 この横浜村が、思いがけず、江戸にもっとも近い開港場に選ばれた。
 そして凄まじいスピードで、港、外国人居留地、日本人町、遊廓が築造された。
 すぐそばに大きな需要が確保されたわけだから、本牧の漁業もさらに活気づいた。
 
 元町の裏手から山手、根岸、本牧にかけて、「外国人遊歩新道」という道が造られた。
 居留地の外国人が、風光明媚なあたりを馬で散歩するための道だ。
 浪士による外国人殺傷事件が多発したので、幕府が安全策として設置したのである。

 その道筋に茶屋ができ、やがて茶だけではなく「色」も売るようになった。
 そこが「チャブ屋」と呼ばれる横浜独特の洋風娼館へと発展していく。
 
 チャブ屋は、一階がダンスホールとバーカウンター、二階が個室という、西部劇によく登場する
娼館のような造りだったと言われてる。
 本牧の小港や大丸谷あたりに多くあり、客は多くが外国人。値段が高くて日本人には
おいそれと手がでなかったようだ。

 しかし新しもの好きの文豪、谷崎潤一郎は、有名なチャブ屋「キヨホテル」の隣に
住んでいた。谷崎が文藝顧問をつとめる「大正活映」という映画会社のスタジオが、
元町の裏にあった頃である。
 
 当時、最新鋭だった映画スタジオもチャブ屋も、関東大震災によって灰燼に帰した。
 チャブ屋は、短くも妖しい大正時代の蜃気楼だったのだろうか。
 
 このあたりのことは拙著「横浜秘色歌留多(よこはまひそくかるた」でどうぞ。


 さて、漁業の町だった本牧は、終戦を境にがらりと変わる。
 戦勝国アメリカは終戦後、横浜の多くを接収した。中でももっとも面積の多い接収地
となったのが本牧だ。

 米軍基地が造られ、フェンスで囲まれた中に、白い瀟洒な米軍住宅が建ち並んだ。
 空襲で焼け野原になり、GI相手の娼婦や浮浪児がさまよう横浜の中で、そこだけは
物の溢れる明るい別世界。なにもかもが日本人の憧れをかきたてた。

 しかしこの逆境から、本牧には独特の「基地文化」が生まれたのである。
 若者達は最新の欧米音楽、ダンス、ファッションなどを米軍基地経由で吸収し、
そこに自分達のオリジナリティーを加味して発信した。
 音楽性の高さで人気のあったグループサウンズ「ゴールデンカップス」も、
ハマジル、ハマチャチャといったダンスステップも、本牧から生まれた。
 
 このあたりのことは拙著「天使はブルースを歌う」でどうぞ。


 
 赤い車の向こうに、「ゴールデンカップ」(ゴールデンカップスを生んだ
ライブハウス)の看板。いまも健在。


 戦後は急速に工業化が進み、本牧の海辺も次々と埋めたてられていった。
 浜は消え、漁業は衰退した。
 米軍基地は撤退し、跡地にマイカル本牧という商業施設も誕生したが、バブル景気が
終息すると、その華やぎは消えた。それこそ蜃気楼のように短い期間だった。
 
 いま、本牧は静かな住宅地になった。
 しかし、じっくり歩いてみると、開港以前からのドラマチックな歴史を、あちこちで
垣間見ることが出来る。
 横浜の中でも、もっとも興味深い町である。

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