ほぼ週二 横浜の山の中通信

人と異なる視点から見る

中国は共産党独裁のままの方が日米は都合が良い?

2015年04月30日 | 国際・政治(中国)

週刊ダイヤモンド2015年4月14日の加藤嘉一氏のコラム(下記URL参照)に、「中国が民主化されない限り、アメリカの世紀は終わらない」と書かれていました。

中国はハードやソフトにおいて、何かを「創造」する能力は未だ貧弱であり、この「創造」する能力を高めるには民主化が前提と言っています。

http://diamond.jp/articles/-/70039

 

私は民主化にもいろいろあって、民主化だけが「創造」に導く唯一の解とも思えません。アメリカが優秀な移民を数多く受け入れていることが、その大きな要因の一つであって、アメリカがその解の一つを持っているのは確かです。

 

中国は下記の①②ができれば、国力はもっと増大するのは確かでしょう。

①中国は「世界の工場」から脱皮する

②社会不安を克服する

 

①中国は「世界の工場」を脱皮する

中国はそのうち米国を追い抜くと言っている人がいますが本気なのでしょうか? 昔の日本の80年代のように、今の中国経済は、リーマンショック対策でバラ撒いた金で潤っていますが、そういう時ばかりが続くわけがない。中国は「世界の工場」であって、「世界の本社」でもなく、「世界の開発・設計部門」でもない。したがって、「世界の本社」や「世界の開発・設計部門」のあるアメリカやヨーロッパや日本を質で越えられるわけがない。

「世界の工場」を脱皮するのに、民主化が必ず必要かどうか?

 

②社会不安を克服する

現在の中国のように、官僚の汚職による不正蓄財、蓄財の海外への不正持ち出し、民衆による抗議活動などが大規模に存在する限り、国力が削がれてこの程度で済んでいる。これらが適正化された場合、中国の国力は今よりももっとすごいことになる。

この社会不安を克服するには共産党独裁を止めて、民主化するのが必要。

 

こういう矛盾を抱えた中国に日米が手を貸して、共産党が政権を維持できるようにしている限り、中国の国力は制限されるので、日本やアメリカにとって都合の良いことになる。

 

ホンマかいな?と思うのは、民主化したら却って国力を削ぐ場合もあるのでは?と思います。今の中国には民主化の受け皿が見当たらないし、民主化したとしても欧米のようにはならないでしょう。「アラブの春」のように元の木阿弥になるか、ロシアのようになるのか、インドのように混沌とした国になるのか、見当もつかない。場合によっては、旧ソ連のように分裂するかもしれない。

したがって、しばらくは米国の天下が続くことになるというのが、上記コラムと同じ私の結論です。

2015.04.30


男はトイレで手を洗わない!人もいる

2015年04月24日 | ニュース

私はトイレネタが好きですが、同時に清潔好きでトイレから出ると必ず手を洗います。

 

4月12日の日曜日の昼過ぎ、トイレから手を洗わずに出てきた夫が小さい長男に触ろうとして嫁さんと喧嘩になり、嫁さんが夫をナイフでけがをさせると言う事件が起きました。以前から夫婦げんかが絶えなかったそうで、ちょっとしたきっかけで大喧嘩になったのでしょう。清潔好きの嫁さんなら、トイレで手を洗わない夫は我慢できないでしょう。「性格の不一致」の最たるものかもしれません。

ただし、メディアによっては、「夫が手を洗わなかった」とは違う話も載っています。

 

話は変わりますが、私が早朝6時過ぎのJRに乗って通勤していた頃、冬は寒いのでトイレが近くなり、乗車駅のトイレを良く利用していました。

そこでの観察結果ですが、小をして手を洗わない人が5~6割いたのは驚きませんが、個室から出てきて洗わない人が1~2割いたのにはビックリ。エー不潔! 信じられない! 

 

めずらしいと言えば、冬の洗面所(出るのは水だけです)で髭を剃っている出稼ぎのような初老の建設作業員がいました。髭を剃る度に剃刀(ナイフです)を陶器の洗面台に叩きつけて毛を掃っていたので、「ビシー」という音が響いていました。

 

私が小学生の頃、自分の家は汲み取り式の汚いトイレでした。その後会社に勤めてからも夢の中にこの汚いトイレが何回も出て来てうなされました。私が学生の頃、小便をするために京都の公衆トイレに入ったら仕切りの無い、「溝」に向かってするタイプでした。会社に入った頃でも、ある関東の遊園地のトイレに入ったら、やはり同じタイプの便所でした。さすがに、日本では大の「ニーハオトイレ」はありませんが、小の方は「ニーハオトイレ」です。

いずれにしても、日本のトイレがきれいになったのは、最近のことです。

 

話は戻りますが、夫は「大」だったのでしょうか、それとも「小」? 

2015.04.24


「八紘一宇」? アホな議員が何いうとんねん

2015年04月23日 | 国際・政治

3月16日の参院予算委員会。自民党の三原じゅん子議員が多国籍企業の課税問題に関する質問のなかで「八紘一宇」という言葉を持ち出したそうです。

「八紘一宇」! 僕のように古くさい人間(といっても戦後生まれ)なら、戦争中に良く使われた言葉と言うことくらいは知っています。しかし、その詳しい意味は知りません。

 

それでネットで調べてみました。「八紘一宇」とは、「全世界を一つの家にする」ことで、日本書紀に出て来る文(漢文)を縮めて大正時代に造られた言葉です。日本書紀のなかでは、「全世界」と言っても大して広くないので、日本書紀の中で使われている限り、どうってことのない言葉です。しかし、その言葉が戦争中に使われば意味が変わってくる。したがって「八紘一宇」が「全世界を一つの家にする」という意味を持ったのは早くても大正時代以降であって、「八紘一宇」を「建国以来の根本原理」とするのはこじつけでしょう。

 

しかも、予算委員会の多国籍企業の課税問題(税金逃れをいかに捕捉しようかという話)で、わざわざ使う言葉でしょうか? 三原じゅん子議員は、刺激的な言葉を使って自分の質問が注目を浴びるようとしたのか、単純にうろ覚えの知識を披露しただけなのか? 

ある人が、三原じゅん子議員は党の女性局長だし、「甘く見てはいけない」と書いていましたが、そうなんでしょうか? 私にはお粗末な話としか思えない。

 

そうしたら民主党の馬淵澄夫議員が、「三原議員「八紘一宇」発言に違和感なし。言葉だけをあげつらっていては、事の本質が見えなくなる」という文を現代ビジネス(ウェブ版)の2015年03月21日に書いています。要は「八紘一宇」という言葉に「侵略行為を肯定するような考え方はない」ということらしい。そりゃそうでしょ、日本書紀では「全世界を一つの家にする」という意味はないし、原文はもっと限定した意味で使われているそうです。ところが「八紘一宇」が戦争中に使われば、別の意味も持ってくる。言葉は時代背景や、その言葉をどういう目的で使うかによって、その意味が変わってくるのは至極当然なことです。政治家がそういうこともわからないようでは失格です。それに発言した場所が参院予算委員会で、多国籍企業の課税問題に関する質問の中ということを忘れていませんか?

 

国会では、日本をもっと前に進めるような議論をしてほしい。自民党も民主党も困ったもんだ!

2015.04.23


やっぱり心配!長大トンネル内の事故

2015年04月21日 | 鉄道・リニア新幹線・航空機

そらみろ!というつもりはありませんが、先日青函トンネル内で発煙事故が発生しました。長大トンネル内から脱出することになる事故は、地震よりも火災の方に現実味があるかもしれません。

 

青函トンネル内での特急の発煙事故のいきさつを簡単にまとめます。

----------------------------------------

4月3日夕方5時頃の青函トンネル内で、函館発新青森行き特急「スーパー白鳥34号」(6両編成)の先頭から2両目の床下のモーター付近から発煙し、列車は青森側にある旧竜飛海底駅から青森側へ約1キロ進んだトンネル内で緊急停車した。運転士が消火器で消火活動を行い、発煙は収まった。124人の乗客らは旧竜飛海底駅まで歩き、そこからケーブルカーに乗り地上に脱出したが、全員が避難するのに約6時間を要した。

 

車掌は青函トンネルに入る前から異臭に気が付いており、その原因を確認したがわからないまま、旧竜飛海底駅を通過した頃に外に火花が見えたので列車を停止させた。

この列車を停止させたのが、車掌から連絡を受けた運転士とか、車掌が非常ブレーキを操作したとか二通りの記事がある。

 

なお、旧竜飛海底駅から地上へ向かうケーブルカーの定員は約15人で、往復に約20分かかる。

----------------------------------------

この事故の問題点は

 

①緊急停止した行為・停止した場所は適切か?

旧竜飛海底駅から青森側へ青函トンネルを抜けた場所が津軽今別駅で、ここまで19.5Kmあります。津軽今別駅まで、最高速度に近い時速120Kmで走ると約10分、 通勤電車並みの時速60Kmで走ると約20分。(青函トンネル内では、新幹線も時速120Kmで走るそうです)

旧竜飛海底駅に停車するか、青函トンネルを抜けるか、難しい選択ですが旧竜飛海底駅の近くに止まらなかったことは問題です。

 

今回は乗客も少なくてよかったけど、駅から数Kmのところで緊急停止したら駅まで2時間近く歩くことになり、煙にまかれたり歩けない人も出てきて死傷者が増えるかもしれない。

 

②今のケーブルカ-での避難方法は適切か?

ケーブルカーの定員は15人で往復に20分かかるとすると、124人が脱出するのに20分×124人/15人≒165分、つまり2時間45分で済む計算ですが、今回の火災ではその倍の6時間がかかっている。ケーブルに乗り降りする時間もあるし、そうスイスイと手際良いわけではないでしょう。

 

ところで、旧竜飛海底駅(海面下約150m)から階段で上がるとします。上越線の土合駅の下り線ホームは新清水トンネル内にあり地下70mで、そこの階段は462段(長さ338m)なので、旧竜飛海底駅の階段は土合駅のおよそ倍です。また、高尾山のケーブルカー終点と高尾山頂との標高差は127mなので、高尾山のハイキングよりキツイですね。

 

新幹線の場合はどうする

今回は124人の避難に約6時間かかったので、もうすぐに走り出す新幹線の定員731人が避難する場合、6時間×731人/124人≒35時間、新幹線の乗客が地上に出るまでに35時間かかることになり、一部の人は飢えで死んでいます!

 

新幹線が長大トンネル内で発煙や火災を起こした場合、緊急停止して消火することも重要ですが、どこで停止するか、あるいは走り抜けるかの判断も重要で、JRはいろいろな事例を今から検討して対応を訓練しておく必要があります。それに、ケーブルカーは容量不足です。

 

より重要なのはリニア

上記の想定はとりあえず北海道新幹線の青函トンネルだけの話ですが、問題はリニアです。ほとんど全線がトンネルなので、リニア1編成が発煙や火災(人為的な場合もある)で停止した場合、トンネル内には少なくとも十数本のリニアが同時に停止します。事故のあった列車から遠く離れた列車は駅に停車できるでしょうが、近くにいた一部の列車は駅と駅の間のトンネル内に停止する可能性もある。トンネルは平地部分でも数十メートルの深さなので、JR東海は数~10Km毎に斜坑や立坑を設置するらしいのですが、リニアはそのポイント近くに停車できるのでしょうか? そして短時間に脱出できるのでしょうか? 大いに疑問です。

2015.04.21

 

後からの判断になりますが、今回の青函トンネル内の事故では、異変(異臭であっても)を感じた時点(今回は青函トンネルに入る前)で停止するべきだったと思います。もし異変を感じたのが青函トンネル内なら、最寄りの旧海底駅(青函トンネル内に2か所)に停止して点検すべきです。

 

また、先頭にいる運転士より、後方にいる車掌のほうが異変を感じる機会が多いので、よほどの緊急性が無い限り、車掌は運転士と連絡を取って対応すべきです。

2015.04.23

 

 続きはこちら。 

 


渋谷ハチ公前交差点のスクランブルはいつ始まったのか?総合版

2015年04月19日 | まち歩き

渋谷ハチ公前スクランブル交差点に関するブログ3件を整理し書き加えました。それで文章の量が増えましたがご容赦ください。前のブログ3件は自分で言うのも何ですが読みにくいので書き直し、数寄屋橋交差点の開始日が間違っていたので訂正しました。

 

下記の日付は各新聞に掲載された日、朝日新聞からの記事は(朝)、読売新聞からの記事は(読)で示しています。(前3件のブログでは、新聞掲載日と実施日がごっちゃになっていました)

 

1968年(昭和43年)12月1日 (1978年11月19日の読売新聞の記事から)

日本で初めてスクランブルが、熊本市の子飼交差点で実施された。

1971年3月16日 (朝)

4月5日から都内の小学校5校周辺の交差点5か所でスクランブルを実施する。

この時点で、既に全国6市11交差点でスクランブルを実施している。

1971年3月16日 (読)

4月5日から都内の小学校5校周辺の交差点5か所でスクランブルを実施する。

警視庁管内で初めて。

1971年4月5日 (朝)

都内の小学校周辺5か所でスクール・スクランブルを始めた。

1971年4月23日 (朝)

新宿東口の新宿通りの二幸前から伊勢丹横までの4交差点で、4月26日からスクランブルを開始する。

1971年4月26日 (朝)

新宿東口の新宿通りの4交差点で、4月26日からスクランブルを始めた。

1971年7月10日 (朝)

都内5駅(飯田橋、お茶の水、赤羽駅、八王子駅、吉祥寺駅)の周辺5か所で、7月15日から開始する。

1971年12月3日 (朝)

銀座西4丁目、有楽町駅中央口・日比谷口の3か所で3日から開始する。都内では既に14交差点で実施している。

(今までに名前の挙がった交差点を順に足すと5+4+5=14で計算は合う。ということは、スクランブルを実施している交差点は、上に名前の挙がっている交差点だけ)

1973年6月9日 (読)

上野ガード下交差点でスクランブルを実施。これで都内のスクランブル交差点は26か所。

(この26か所の交差点の名前の記載なし)

1974年3月17日 (朝)

1973年(前の三件のブログには、1974年と書いていたが間違いです)12月22日から数寄屋橋交差点でスクランブルが始まった。周辺の渋滞対策として周辺の信号機42か所の点灯を調整した。

1975年(月日は不詳) (国土地理院ホームページの写真から)

上空から撮影された渋谷ハチ公前交差点の写真(国土地理院撮影)に斜め横断歩道が見えるので、この時期には実施されていたと推測される。

1976年4月11日 (読)

数寄屋橋のスクランブル交差点は、歩行者用青信号の点灯時間が短く、歩行者が渡りきれないので危険というスクランブル交差点に批判的な記事を掲載。

 

これ以降、スクランブル交差点の記事は少なくなり、東京のどこそこで始まったという記事は見当たりません。結局、渋谷ハチ公前スクランブル交差点に関する記事は見つかりませんでした。

 

渋谷ハチ公前交差点でスクランブルが始まったのは何時?

「1973年末から1975年の間」と、状況証拠から推測しています。理由は、

 

①渋谷ハチ公前交差点のような大規模交差点でスクランブルを実施するには、交通渋滞の対策が必要になるはず。そうすると、スクランブルが初めて大規模に実施された数寄屋橋交差点(1973年12月22日開始)以降と推測するのが妥当と思う。

 

(新宿東口の新宿通りの4交差点は、新宿通りと交差するいずれの道も細くて自動車の交通量が少なく、周辺の渋滞対策が比較的容易なので、スクランブルは数寄屋橋交差点ほど難しくないと思われる。)

 

②1975年(月日は不明)に撮影された航空写真に渋谷ハチ公前交差点に描かれた斜め横断歩道が見える。したがって、1975年にはスクランブルは始まっていたと推測する。

 

まとめると、「1973年末から1975年の間」と書いていますが、忙しい年末はありえないので、スクランブルは「1974年か1975年」に始まったとするのが妥当でしょう。

 

他の資料の開始日は違う

 

・テレ東の2012年5月19日(土)放送「出没アド街ック天国」

「京島二丁目交差点」のところで、ハチ公前交差点は1971年4月26日(つまり新宿東口の新宿通りの4交差点と同じ日)としていますが、違うと思います。理由は

①当日の新聞には新宿東口の新宿通りの4交差点を上空からの写真付きで取り上げているのに、ハチ公前交差点を全く取り上げていないのは不自然。

②1971年12月3日の新聞に、「都内では既に14交差点で実施」とある。それまでに新聞に掲載された交差点だけできっちり14か所になり計算は合うので、新聞に掲載されていないスクランブル交差点は無いことになる。したがって、1971年12月3日までにハチ公前交差点でのスクランブルの開始はありえない。

 

・1998年刊の本

 この中に、「1970(昭和45)年3月5日より都心の主な交差点の信号機がスクランブルとなった」と書かれています。都内でスクランブルが開始されたのは、1971年4月5日の都内の小学校周辺5か所からであり、その前年はありえない。

 

海外のスクランブル交差点

(上記の朝日新聞と読売新聞の記事からまとめました)

アメリカでは、H・A・バーンズ氏が交通事故対策の一つとして、1950年(昭和25年)頃にスクランブル交差点を始めました。始めた場所は、朝日新聞はデンバー、個人がインターネットでバンクーバー、Wikiはカンザス・シティとバンクーバーなど諸説あります。

 

1971年4月6日の「天声人語」によると、H・A・バーンズ氏はデンバーで6年間在任した後ボルチモア、次いでニューヨーク市の交通局長に就任しました。ニューヨーク市では、スクランブル交差点を1960年代に始めましたが、1974年3月20日の朝日新聞にはニューヨーク市のスクランブル交差点は全て廃止されているとの記事があり、10年ほどしか続かなかったようです。

 

また、ヨーロッパのスクランブル交差点に関する記事は全く見つかりませんでした。

 

まとめると、戦後アメリカでスクランブル交差点を始めたのは、H・A・バーンズ氏で確かなようですが、これ以前に、スクランブル交差点があったのか無かったのか、またヨーロッパの事情はどうなのかわかりません。

 

(まとめ)

朝日新聞や読売新聞を見る限り、渋谷ハチ公前交差点のスクランブルがいつ始まったのか、見つかりませんでした。ということは、ニュース性が無くなった頃に始まったのでしょう。

 

インターネットで捜し始めた時、あるブログ?(今見当たりません)で「渋谷ハチ公前交差点は1974年頃始まった」と書かれていましたが、その根拠は書いてありませんでした。他の方も過去に捜されたのでしょうか?

これ以上捜すとすれば、区役所・警察・商店街などの資料でしょうが、私はこれまでにします。

 

しかし、海外の人は変なところに興味を持ちますね。私もハチ公前交差点は相変わらず人が多いなあと思いながら人を避けつつ普通に横断しているので、面白くも何ともない。

 

アメリカで実施されていたものが、日本に移されて盛んになる一方、アメリカでは下火になるというのは、「スクランブル交差点」もラジオ体操と同じですね。

(ラジオ体操はアメリカの保険会社(メットライフ生命)が放送していた番組に倣って日本でも戦前に作られました。今でもアメリカでラジオ体操をやっているのかなあ?)

 

(感謝)

これらの資料検索に当たって、横浜市中央図書館のご協力をいただきました。

2015.04.19

 

一連の渋谷ハチ公前スクランブル交差点に関するブログが5件あるので、一覧にしてリンクを張っておきました。

「「渋谷ハチ公前交差点のスクランブルはいつ始まったのか?」のブログ一覧

2015.11.28

 

2016.04.01 続きはこちら