The letter from YOKOHAMA

Yokohamaは未来に開けた街で、新らしいものを歓迎する進取の精神が生きている、そして、ここにしかないものがある

料理人の誇り 下

2007-12-31 22:27:30 | Weblog
 台湾・中国の中華料理と日本の中華料理は違うかという質問に対して、留園の料理人・鄭春華は、
 「そりゃあ、日本のお客さんに合わせています・・・お客さんに喜ばれなくちゃあ、何にもならない」
 「四川のチリソースなんか、成都のとおりに作ったらメチャ辛くて、とてもとても日本人の舌に合わない」
 「だから辛さを抑えて、すこし甘くする」
 お客にはどんな人がいるのかと聞かれると、
 「私の味を目当てに来てくれる人がいる」
 そして、鄭料理人がいないと帰ってしまうお客がいた、これが本当だろう、そのお客は、お目当ての料理人の味を求めてくるのだ。
 何十年にも及ぶ努力と工夫、一品に対する料理人の情熱とセンス、料理は真剣勝負、ただ作ればいいというものではない。
 その料理に立ち向かう火のような思い、水のような冷静、また、きりりとした清潔な姿勢、一夕の宴のテーブルの上に、料理人の才能とアイデア・味覚ワールドが展開する。
 だから、テレビのタレントが片手間にやるのはどうであろう、茶髪の髪をかき上げもったいぶった手つきで、高価な食材を次々と放り込む、中華鍋の底でエビとアワビが泣いている。
 「ホントにおいしいものを食べたければ、前の日に注文すること・・・いい食材を用意できる」
 「それと、いろいろ食べたければ、最低3人か4人で来ること」
 懇切丁寧なアドバイスではないか、実際、そうであろう、「いい料理」にはいい料理人だけではなく、いい客が必要なのだ。
                             写真は「媽祖廟」

料理人の誇り 上

2007-12-31 10:16:06 | Weblog
 中華料理の秘訣を尋ねられたある料理人は、
 「倫工減料だけはするまいと思っている」
 「倫工」とは手間を省くこと、「減料」とは、材料の質と量を落とすこと。
 「これをやったらおいしくならない」
 まったくその通りだ、テレビや雑誌で取り上げると、日本の各地から客が押し寄せ、8月の暑い盛りに列をつくるようになる、ちょっとぐらい手を抜いても客が来てくれる、すると、料理人は横着になる、調理をおろそかにし材料の質や量を落とす、水や油にかまわなくなる。
 1957年10月、蘇州の名園・留園の名を冠した中華料理店が港区芝にオープンする。
 この留園の料理人・鄭春華は福建省福州の出身、10歳で見習い、15歳で上海の料理人、20歳で南京に移る、1949年から65年まで台北で働き、1966年に来日する、この時、39歳の働き盛りであった  ― 佐原秋生著  ニッポンの外国人シェフたち  ― 。
 それから、彼の日本での活躍がはじまる、それは、なかなかの料理であったようだ。
                             写真は「関帝廟」

黒ブタの背アブラ

2007-12-30 09:58:27 | Weblog
 台湾を旅行した時、台湾のほぼ中心の都市・台中で蒸し餃子を食べた、川の側の小さな店、蒸篭(せいろ)に三段で一段に5コ、三段・15コ、全部食べてしまった。
 軽くてさりげなく、ほんのりとした甘みがあって上品、まるで、モーツアルトのト短調のようだ。
 日本に帰ってから、いろいろな店の餃子を食べ歩いてみた、だが、それに匹敵するものにお目にかかれない。
 先日、中華街の食材店で渋い老人と出会う、そこで、そのことについて聞いてみると、
 「それは、自然飼育の黒豚の背アブラが入れてあったんでしょう」
 「・・・」
 「ほんのちょっと入れるだけで、見違えるような味になります」
 「スープなら軽くて上品、蒸し餃子や肉まんなら、とろ~りととろけるんですよ」
 「そこの『世界一の肉まん』、後味が舌に残って、ザラリとするんです・・・」
 「私は食べていないのでなんとも言えませんが、本当の背アブラだったら、サラリとするはずです」
 10年にも及ぶ謎が解けはじめる、
 「スペインのイベリコ豚は森に放牧してドングリの実を食べさせ、体重の半分はドングリで太らせるようにする」
 「すると、お腹と背中の脂肪の間に隠れた肉ができる、背中の肉と肉の間に網状のアブラの滲みこんだ霜降り肉ができる、だが、アブラに隠れていて見つからない、この肉は知る人ぞ知るグルメ垂涎の肉、一生に一度は食べてみたい肉なんです、そう、アブラののったマグロの最高のトロに匹敵する」
 「そ、そ、それはなんて言いますか」
 「なんて言いましたか、そう、なかなか見つからないので『Secreto(セクレト・秘密)』、これが絶品なんですよ」
 長い間の疑問が氷解、それにしても、食文化は奥が深いなあ。 

500円の肉マン

2007-12-29 10:33:48 | Weblog
 かつては、裏の通りを、纏足の女性がヨチヨチと歩いていたという、昔は不気味なところがあったんだろう。
 今は、表の通りを、地方からやって来た観光客が、肉まんをパクつきながらゾロゾロと歩いている、それにしても、1個500円というのは、どうだろう。
 あまり、いいことじゃあないな、1日1ドルで生活している国が数十カ国あるんだから、量が2倍・味が3倍って言ってはいるが、説得力に欠けている。
 また、「世界一の肉まん」、こっちは1個90円だが、ずいぶん小さい、こういうのを「うまい」っていうのだろうか、具のアブラがざらりと舌に残る。
 「本当にうまけりゃあ地元が通う」
 ところで水はどうしているんだろう、そう、スープの水だ、具を練るときに入れる水だ、まさか水道の水を、そのまま、ジャブジャブ使っているんじゃあないだろうな。
 あんなにたくさん作るんだから、そのへんがおろそかに・・・そんなことがあるはずはないね。

横浜の中華街

2007-12-29 06:12:53 | Weblog
 「本当にうまけりゃあ地元の人間が行くよ」
 大正生まれのFさんは、この20年、中華街には行っていない、
 「濃くないかい、それにキレがない、あれは作り置きして冷凍保存しておくからじゃあないかな」
 もっともFさんは和食党、中華には理解が無い、
 「今はどうなっているか分からないけど、20数年前、週刊誌で紹介された店にいったことがあるんだが、そこの受付の態度が悪かった、『お客さん、ビール飲まない、飲まなきゃあダメよ、さっさと注文するね』」
 向こうのオンナにはそういうところがあるんだな、
 「やっぱり日本のほうがいいよ」

12支と12宮図

2007-12-28 00:07:49 | Weblog
 2008年度の靖国神社のキャンペーン・ウーマンが、なんと、藤崎奈々子・30歳、実に、微妙な人選ではないか。
 藤崎はなよなよとした印象であるが、なかなか豪快な性格らしく、それに、かなりの酒豪で、酒にまつわるエピソードが多い、また、テンネンのように見えるが、多くのライバルを押しのけていくアタマの良さも持ち合わせている。
 2004年10月の『ロンドンハーツ』の「格付けし合う女たち」では、司会役の田村淳との交際をあっさりと認める、これには、淳・アツシの方がびっくりして、メロメロになってしまい、とても司会どころではなかった。
 おっとりとした外面に反して、なかなかしたたかなところがあり、タイミングを捉えて話題を提供する術に長けている、これが生き馬の目を抜くという芸能界で生き残っていくワザなのかもしれない。
 だから、今回の人選にも、どのようなプロセスがあったのかということになる。
 ところで、年女とはその年の干支(えと)に当たる女性で節分の豆まきなどをするのだが、欧米の社会には次のように紹介されていた。
 “A Woman who was born in a year with
 the same sign of the Chinese zodiac
 as the current year.”
 “zodiac”は12宮図、黄道帯を12等分して、その一つ一つに星座を当てはめたもの、中国の12支に該当する。

靖国神社と藤崎奈々子

2007-12-27 10:59:24 | Weblog
 藤崎奈々子は1977年12月19日生まれで北海道の出身、射手座のB型、1977年は昭和52年で、昭和52年の干支は「丁巳(ひのとみ・ていし)」、十二支では「巳(み)」になり、来年の干支の「子(ね)」ではない、つまり、年女ではない。
 靖国神社の来年のポスターに登場しているのは年女だからではなく、キャンペーンのためなのだろう、だったら、あの紗綾(さあや)だっていいことになる。
 新春、ニッコリと笑った紗綾に出会えたら、多くのオタクたちの一年が違ったものになるんじゃあないかな、まだ、それくらいの魅力はある、ちょっとしたインパクトが期待できるというもんだ。
 それはともかくとして、藤崎は目白学園女子短期大学の在学中にデビュー、マツモトキヨシのCMで注目を集め、1998年の『ウッチャンナンチャンのウリナリ』のレギュラーになる、ウリナリの三浦遠泳大会でクラゲのいる海を必死に泳ぎきり、2時間17分でゴール、ファンのこころを掴む、ここで人気が出たのかもしれない。
 同じ事務所・アヴァンギャルドの後輩に山川恵理佳がいて化粧品のCMで共演していた、新山千春や山口もえとも仲がいいらしい。
 ところで、今年の新春の靖国神社では、確か、振袖姿の山川恵理佳が微笑んでいたと思うのだが、この選考は同じ事務所だったからであろうか。

18歳の遺詠

2007-12-26 05:52:08 | Weblog
 三年前の二月下旬、靖国神社の拝殿前の掲示板に樺太で亡くなった看護婦の遺詠が展示されていた。
 28・23・22・20歳、そして18歳の学生の最後の歌は、
   暗幕の修理を終えて今宵より
     みな安らかにねらるうれしさ
 「安らかにねる」とは永遠の眠りのこと、それが「うれしい」、後片付けをやりとげて肩の荷が下りたのだろうか。
 ふと、横を見ると、七十半ばの男性が、この歌を見ていた、小さなリュックを背負い、地味だが清潔な服装、リュックの端に住所と名前が記されている、万が一のためなのであろう。
 正直そうな横顔が自決した5人の看護婦の辞世の歌を見つめている、老人のこころの中で、今、何十年前の出来事が走馬灯のように駆け巡っているようだ。
 そっと、その場を離れる、しばらく行って振り返ると、靖国神社の薄闇のなかに、まだ、立ち尽くしている。

靖国神社と氷川神社

2007-12-25 08:02:24 | Weblog

 12月24日はよく晴れていたが風が冷たかった、午後から靖国神社に行く。
 やはり、人影はまばらで、もう、お正月の準備をしていた、靖国神社の来年の年女は藤崎奈々子なのだが、ちょっとレトロすぎやあしないか、なんだか昭和の匂いがする、せめて紗綾ぐらいにしてくれたらと思う。
 「九段下」の駅に「メトロガイド」が置いてあり、その8面に、2007年度の「初詣ベスト10」が載っていた、
  1位  明治神宮          311万人
  2位  成田山新勝寺       290
  3位  川崎大師平間寺      287
 そして、10位に大宮氷川神社の200万人、この「氷川(ひかわ)神社」が気になる、氷川神社は考昭天皇の代に出雲国・簸川の杵築大社(出雲大社)を勧請したことになっている。
 だが、これは記紀の伝承によるもので、考昭天皇は伝説上の天皇であり、この物語の正体は、古代の日本列島で出雲と北関東の広大な地域に密接なつながりがあったことを証明している、つまり、近畿の天皇政権に対抗するグループの精神的支柱が氷川神社ということになる。
 だから、明治天皇が東京に都を定める・奠都の際には、桓武天皇が賀茂社に奉幣した例に倣い、毎年、氷川神社に奉幣することを定めたのではあるまいか。
 これは、武蔵野国の一の宮の氷川神社が、この地方一帯の土豪劣神・地元の実力者に穏然たる影響力を保持していて、京都からやって来た天皇家といえども、それなりの敬意を払わなければならなかったということではなかろうか。
 靖国神社が近代日本の戦没者のための神社なら、氷川神社は出雲系のグループのためのもので、古代から綿々と引き継がれており、この神社の氏子たちは、今なお、その伝統と結束力を誇っていることになるのかもしれない。   

台湾から来た父子

2007-12-24 00:21:46 | Weblog
 渋谷の喫茶店で資料の整理をしていると二十歳前後のカップルがとなりに座った、おそろいの花柄のシャツと毛糸の帽子、耳だけでなく鼻にもピアス、ずいぶん華奢な身体つきだ、ところで、どっちが男でどっちが女だろう。
 さっそくタバコに火を点け、ピーチクパーチクと囀(さえず)り始めた、
 「ていうかさ、このあいだの金ステのアユのファッション、ゼッタイにあのブチックだよね」
 もう二人の世界に入っていて隣りの人間など眼中にないようだ、スパスパとタバコの煙をあたり一帯に撒き散らしている、おかげで、すっかりやる気が無くなってしまった、時計を見ると3時5分、横浜に帰るにはまだ早い、「そうだ、靖国神社に寄っていこう」
 なだらかな坂の上に鳥居が見える、夕暮れの境内はひっそりとしていて人影はまばら、私の前を中年の男性とほっそりとした少女が歩いていた、ささやく言葉は中国語、香港かシンガポールそれとも台湾であろうか。
 ここには、李登輝さんのお兄さんをはじめとして3万2000柱の台湾人が祭られているので台湾の父子かもしれない、おそらく、身内か親類が祭られているのであろう。
 はるばる海を越え、今は無き肉親に会いに来る、遠い南国からやって来た二人は、肩を寄せ合い、黄昏時の境内を歩いていった。