mixi からの移設ブログ
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 最初にその話を知ったときにはその発表内容に衝撃を受けたが、その後の事態の進展で全く別の衝撃に変わった。
 まさか?!...という感じだった。

 1/29 に発表された理研発生・再生科学総合研究センター(以下理研 CDB)での、いわゆる STAP 細胞の発表は、それが真実であれば驚くべき新発見だったとは言えそうだった。しかし、その後ゾロゾロ出てきた各種のどす黒い話多数に、当初は「驚きつつも、そんなこともあるかな...」くらいにしか思わなかった。それが、いわゆる正常性バイアスであることを否応なく痛感することになったのは、AAAS 年次総会で滞在していたアメリカから帰国してからのことだった。

 一連のことを、取り急ぎ整理してみたい。
 現段階で分かっていることを踏まえて、ざっと私見をまとめておく。

1)何が起こったのか?
 分かり易く要点を云えば、Nature に掲載された、いわゆる STAP 細胞の作成と、その細胞が分化して組織を形成する能力があることを示す論文2報に、各種の不正行為疑惑が発覚したということだ。
 問題の論文はこの2つ。

Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency
Obokata H. et. al
Nature vol.505 pp641~647(こちらから入手可能)

Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency
Obokata H., er. al
Nature vol.505 pp676~680 (こちらから入手可能)

 また、上記2論文に対する疑義の提示に続いて、上記論文の筆頭著者・小保方晴子氏が早大理工学研究科に提出した博士論文や、それと関連した投稿論文のデータにも各種の不正疑惑が発覚している。
 更に、今回の業績に関連して、特許の出願に用いた書類にも不正の疑惑があり、また更に加えて、利益相反の問題も俎上に昇った。

 具体的に何がどう問題なのか?という話は、匿名ブロガー・11 次元氏による一連のブログ記事に詳しいので、ここでは屋上屋を重ねず、本質的な要点のみ後述する。
 その後の理研や早大などの対応は、11 次元氏による各種の告発のほぼ後追いになっており、またその告発に、意識の高い善意の個人が独自調査や発言などで続いているという推移をたどっている。

 一連の案件が絡む論点は極めて多岐にわたるが、これも後ほど整理しよう。

2)STAP って一体何?
 そもそも、今回話題になった「STAP」 とは何なのか。公表された内容と、私見とに分けて述べる。

 まずは公表内容から。
 「STAP」は、細胞に関するある現象を表す概念として、今回の論文で提唱されたもののようだ。「STAP」とは“Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency”の各語の頭文字4つを取ったもので、訳すと(公式の訳語で云えば)「刺激惹起性多能性獲得」という意味になる。
 要は、細胞外刺激により、分化の進んだ体細胞が多能性を取り戻し、未分化の状態に戻ることを云う。今回の論文では酸性の液体に体細胞を浸すと、それが細胞外刺激となって“多能性の獲得に至る”ということだ。
 共同研究者の C.A. バカンティ氏(ハーバード大医学部教授)のグループの研究では、細い管を通して細胞を機械的に刺激することでも、それが細胞外刺激となって“多能性の獲得に至る”ことが分かっているらしい。

 次いで私見を少し。
 上記で何ヶ所かに“多能性の獲得に至る”のように引用符を付けて記したが、これは要するに「細胞の運命付け」たる「分化」の逆向き、即ち「脱分化」と事実上ほぼ全く同義である。
 植物細胞では脱分化が起こることは以前から良く知られており、インドール酢酸やオーキシンなどの植物ホルモンの働きでカルス形成が起こるなどのことは、植物生理学の教科書に普通に書かれている。また、動物細胞でもリゾホスファチジン酸の働きで血管平滑筋の脱分化が起こるという話(こちらを参照)がある。
 そして、先般のノーベル賞受賞で話題になった iPS 細胞(人工多能性幹細胞)も、人工的な遺伝子導入で細胞の脱分化を起こさせることにより作成されており、その意味で...やや無理矢理っぽいが...細胞外刺激により脱分化を引き起こすという枠組みは一緒である。
 以上の意味で、現象としての STAP は以前からその存在を知られた概念であり、以前から脱分化として知られていたものに別の名称を冠したに過ぎないと言える。

3)学位を取るまでの通常の推移
 さて、話の構成の都合上、大学院生が学位を取得するまでに、どのような経過をたどるのかに関して、簡単にまとめておこう。今回の問題の背景を理解する上で、役に立つはずである。
 尤も、ほぼ当たり前と思うような感じの話にはなろう。

 大学院博士課程に入学後、普通は何らかの形で自分が取り組む研究テーマを定める。これは学部4年の卒業研究でも、大学院修士課程の修士論文に向けた研究でも、基本的には同じ。自分で決めた通りに出来る場合もあれば、教員が選択肢を提示したり、教員から指示されたりする場合もある。
 そして、例えば、こちらの本こちらの本にあるようないろいろの推移を経て、決まったテーマに添って、問題意識を大なり小なり定め、実験や計算、野外調査などによるデータの収集、得られたデータの分析、必要に応じて分析法の開発や探索、及びそれらの元になる基礎理論の構築、各種の結果やデータ解析における再現性の確認や結果の妥当性のチェックを経て、研究室内でのゼミや指導者、先輩院生やポスドクなどとの議論及び共同作業を重ねていく。
 その際に、適切なデータの取り方、データの分析の仕方、データ取得やその準備を行った記録の取り方などを実地で学んでいくことが多い。通常の理系の大学生や院生の場合は、学部1~3年までの各種の実習や演習の段階で、そうした記録の取り方を学ぶことが多い。
 データや分析結果などがある程度まとまった段階で、改めて問題意識を整理して、学会発表や論文投稿として研究成果をまとめる。その際には、いわゆる IMRAD 型(序論、素材と手法、結果、議論の4段階から成る形式;後述)で話を組むことが多く、シミュレーションなどの理論系にせよ、実験系やメタ解析にせよ、自然科学系の論文の圧倒的大半はこの形式を採る。
 論文執筆や学会発表の様式の詳細に関しては後述するが、それらの成果を積み重ねることで、一連の研究の蓄積が出来る。それを更にまとめて一つの流れを持つ論文に仕上げたものが、いわゆる学位論文である。

 基本的な流れは、学部、修士、博士の全てで概ね共通ではあるが、私見では、3者には以下の意味で違いがあると考える。
 平たく言えば、学部卒業の要件は「自分で問いを発見し、適切な指導の下に、自力で調べて解決する」こと、修士の場合は「自分で発見した問いを学問的に位置付けて、自力で調べて解決し、その成果を世に問うことが出来る」こと、博士の場合は「自分で発見した問いを学問的に位置付け、自力で調べて解決し、その成果を体系的にまとめて、成果と学問的位置づけを世に問うことが出来る」ことに、それぞれなるだろう。

 勿論、研究を進めていく各々の段階で、結果の妥当性や手続きの正当性、科学的見地からのデータや分析結果などの位置づけなどは、批判的に検討される。ここで「批判」とは、日常会話の領域で誤用定着的に云われる“悪口”とは全く異なり、予め設定された問題意識に基づいて、生データや分析結果、及びそれらに基づく議論、それらの背景となる先行研究の適否や位置づけ、問いの立て方などを評価することを云う。
 その手続きを必ず経てから、一つ一つの段階を進むことが普通である。

4)研究を論文にする通常の手順
 やや屋上屋を重ねる部分はあるが、学会発表や論文投稿の大まかな流れに関しても、簡単にまとめておこう。これも、今回の問題の背景を理解する上で、役に立つはずである。

 3)でのデータや分析結果などがまとまった段階から、準備がスタートする。論文の書き方や発表の仕方などに関しては、各種の書籍や個人の Web ページなどで数多く取り扱われており、列挙すると膨大な量になる。それらの詳細に興味や必要性のある方は、それらのうちお気に入りの任意の媒体をご参照下さい。

 上記で、論文投稿や学会発表の通常の形式が IMRAD 型であると述べた。その概要を紹介する。
 序論(Introduction)の部で、問題意識を明示し、その背景となる先行研究群を整理して、既知及び未知の事項を明らかにする。その上で、その問題意識が学術的にどのような意義があるかを述べて、問いの形に整理する。その問いを解くことが自ずと研究の目的になる。
 素材と手法(Materials and Methods)の部で、どのような素材をどのような手法で取り扱うのかを述べる。実験の場合は実験材料とその出自、実験法の原理と手順を述べる。分析法の場合は、その原理と手続きの概要を述べる。計算の場合は、どのような公式や方程式、計算手法を用いて実施したかを述べる。メタ解析の場合は、解析手法の他に、その素となった文献群とデータ抽出法について述べる。野外調査や理論構築の場合に関してどうするかに関しては、実際の事例をご覧になるか、読者にお考えいただこう。何れにせよ、第3者がそれを基に検証可能な必要最小限以上の内容を書く必要がある。
 結果(Results)の部で、得られたデータとその分析結果を述べる。物質や生物試料を用いた実験、計算機実験、野外調査、メタ解析の何れにせよ、グラフや写真、表や概念図などが挿入されることが多い。それらに対する注釈は、図や表、写真などを説明するものであり、本論とリンクした内容である必要がある。データや分析結果の並べ方は、研究の目的に添って定めた各々の問いに対する答えを提示し、結論に向かわしめるものでなければならない。
 議論(Discussion)の部で、結果の部において記述された内容を整理し、問いに対する答えが得られていることを論証する。また、必要に応じて先行研究における結果と自前の結果とを比較し、自前の結果の優位性や新規制、意義などを述べる。投稿論文の場合は、最後に明確な結論がある場合が多い。
 以上の他に、論文の題名、著者名や各人の所属、責任のある著者の連絡先、論文の要旨、先行研究などを示す引用文献の一覧、謝辞などが含まれる。オンラインジャーナルの場合は、追加のデータや分析、図面などが付録として添えられることもある。

 その形で書かれた文章を、著者全体の間で共有した上で、個々の内容の正当性及び妥当性、全体の流れ、体裁などを批判的にチェックした上で、いよいよ投稿論文の形が出来る。

 それを、適切な論文誌に指定の書式で送付して、いよいよ査読に入る。
 査読の形式は、ピアレビュー(同僚評価)により行われることが圧倒的に多い。ピアレビューは、その論文誌の編集部が依頼したその分野の専門家や隣接分野の同業者による論文の内容のチェックのことをいう。評者が自らの学識に添って、論文の内容にあるデータや分析結果、それらに基づく議論、序論にある問題意識とその背景群の整理、議論における論証の成否、結果や手法の新規性などを批判的に検討する。大抵は、その評者になった人が真面目なら、引用された各種文献の内容を全て踏まえた上で一連のことを行うので、査読対象となる論文の他に、引用文献も全て入手して読むことになり、評者の負担は並大抵ではない。
 査読を行う評者は、論文1本当たり複数であることが多く、誰かの独断により不当な過度の低評価や高評価を避ける工夫が編集部側により為されている。査読の結果に基づき、「このまま掲載」「内容は良いが論旨や表記に問題があるので、それを修正すれば掲載」「内容に問題があり、それを補遺すれば掲載を再度検討」「不採用」の評価が下される。
 「修正すれば掲載」という判断になったら、論文の文面や体裁、論旨などを修正して、再度投稿先に送付する。
 「内容を補えば掲載を再検討」という判断になったら、投稿者の責任で反論するか、追加の実験や計算、調査などを行うかの何れかになる。大抵は追加の研究作業を行うことになる。再度の修正を何度も繰り返しても、最終的に受理される場合と、されない場合がある。
 めでたく掲載という判断になれば、論文は受理され、やっと世に出る。

 ただ、受理され掲載された後も、その論文は業績としては確立するが、科学的な知としては、幅広い第3者の批判的な目に晒され、その当否が厳しく問われる(勿論、それを評価する者の評価基準=『見る目』も逆に問われる)。研究成果が論文として世に出ることは、その業績が科学的な知として社会の中で共有されていくための、スタートラインに過ぎない。

5)結局、何が問題だったのか?
 実際に通った Nature の論文2報には、各種の不正疑惑があり、一部は明確に不正である可能性が極めて高い。
 そうした論文が通ってしまったからには、上記 3)、4)で述べた各々の段階を全部すり抜けてしまったと云うことだ。また、そうした論文が出来てしまう研究拠点や研究者自身にも、問題があったと言うことになる。
 では、それは具体的には何なのか。私見であるという条件下で、以下に列挙してみる。

 まず以て、不正と取られかねないデータを掲載した論文を書いた執筆者、それをきちんと内部チェックで見抜けなかった共著者には、いずれも大なり小なり責任がある。自分の仕事として、自分の名前で成果を世に問うのだから、自分の仕事には責任を持たないといけない。
 ただ、全ての著者が全うに責任を果たしうる条件にあったかどうかに関しては、別途検証の余地があるだろう。一部の著者に関しては、降ってきた厄難だった可能性もあるだろう。
 なお、Nature の論文ではないが、小保方さんの博士論文の元ネタになる Tissue Eng. 誌のデータや、肝心の博士論文にもかなり大量の剽窃や改竄があるようで、そのうち一部はほぼクロ確定といえそうだ。そうした論文を通してしまった雑誌出版元や早稲田大学理工学研究科の責任は小さくないだろう。

 そうした論文が通ってしまったことに関しては、Nature 側の査読の体制に関する問題や、掲載判断をした編集部の責任も当然ながらある。査読者の責任もあるとは思われるが、不正を見抜くのは実際にはなかなか原理的に難しいだろう。
 ピアレビューの制度の限界に関しては、以前から多くの人が言及している。屋上屋を重ねるが、査読者は、査読対象となっている論文を、普通は“全て正しい手続きのもとで作成されたもの”とみなして読む。その前提の下で、その内容の当否や成否を批判的に検証する。いの一番に、剽窃(盗用)や捏造、改竄、著者名義の不正などを疑って読むことは、通常はない(中にはそうする人もいるかも知れないが)。経験を積んだ評者なら、読み進めていくうちに「これは怪しいな...」と思って、色々と探りを入れることはあるかも知れない。ただ、それはそれなりの見識と経験がなければなかなか出来ないし、あっても難しいだろう。
 私見になるが、不正を見抜く手続きをサボってはいけないとは思う。ただ、告発者の権利擁護や、告発が冤罪だった場合の対処法、剽窃や改竄等の判断論拠など、考えるべきところは少なからずある。

 理研側の広報体制に関しても、色々と検討すべきところがあろう。
 道義的な守秘義務もあって詳しくは明かせないが、あの衝撃的な記者会見や、ムーミンの絵の描かれた実験装置、割烹着で実験する姿などの演出は、理研 CDB の広報担当者の制御下にはなかったらしい。通常の理研の広報では考えられないことだったという話は、各方面から聞いている。
 誰がどんな権限を行使して、あの記者会見を実施したのか。この点に関しては、今後の研究機関や研究室のガバナンス、アウトリーチのあるべき姿を考える上でも、しっかり明らかにしておく必要があるだろう。

 そして、情報の受け手である一般の方々やマスメディアの側の問題に関しても、考えないわけにはいかない。
 マスメディアは販促のためにキャッチーな話題に飛びつき勝ちなところは、当然ながらある。その中で、紙数制限の都合などはあろうが、情報の象徴的な一部だけを切り取って伝える傾向もある。今回の記者会見で述べられた内容の科学的側面に関して真面目に論評したマスメディア関係者は、果たしてどれだけ居ただろうか?
 情報の受け手である一般の方々にしても、理科教育の影響などもあるせいか、いわゆる「役立つ論」の観点から科学的な知を捉え、最先端の科学的な知に内在するある種の不確かさに関しては、認識の浅いことが多い。そのことを一概に批判することも出来ないだろうが、最先端の不確かな科学的知見に対して、批判的な目を向けることの科学的、社会的な意味を、社会の中でどうやって共有していくか?に関しては、誰かが真摯に考える必要があるだろう。

 責任問題に関して云えば、著者と研究機関に多くがあるだろうとは思われるが、その問題を大きくする土壌が研究者業界にも、社会の側にもあることに関しては、よく考えないといけないだろうと僕は思う。
 では、その「土壌」とは何だろうか?

6)背景にある問題群
 研究者業界側の問題と、社会の側の問題とに分けて、私見を述べる。

 研究者業界の側としては、少なくとも大きく3つの論点があり得るだろう。
 第1に、科学研究を担う若手研究者の置かれた過酷な状況がある。
 大学院重点化やポスドク1万人計画の時期に、ちょうど第2時ベビーブームの世代の人生がのっかっている。しかし、大学や国研側の研究職としてのポストはなかなか増えず、研究者育成を志向したこれまでの大学院の在り方はそのままに、個々の大学院生が受けるべき教育を適切に受けられず、研究の成果だけはしっかり求められる状況が生まれてきた。博士修了者のキャリアパス多様化といった話も、この文脈で後付け的に出てきたものだが、大学院教育の大きな変革期の前兆にあって、研究成果や学位取得、終了後のポストの席取り等に関して、分野によってはかなりの過当競争が生じている。生命科学はその典型で、個々の分野による多少の差異はあるものの、総じて供給過剰気味だったりする。
 第2に、生命科学の研究者業界に巣喰う、ある種の知的不誠実がある。
 上記で述べた過当競争は、研究室を運営する教授陣や、その傘下にある准教授、助手、ポスドクたちにもある。研究室の研究費獲得競争は熾烈であり(後述)、そのためには一定水準以上の成果を出し続けなければいけない。准教授以下の若手の研究者たちも同様で、自前の研究費を確保するためにはそれなりの成果が実績として必要になる。そうした中で、研究成果至上主義的な状況が生まれ、必要な教育が後回し乃至なおざりになってしまい、それらが教育の一環として研究を行うという大学院の本来の社会的役割がきちんと果たされないことの遠因に成りかねない...という構図が、現実にある。
 それが極限まで歪んでしまうと、“身分が下”の若手研究者(院生、ポスドク等)はデータを効率よく出すべきと云うだけの存在となり、自前で研究をデザインしてデータを取得し、それらをまとめるという主体的な営みが出来ないまま留め置かれることに成りかねない。そんな中では、論文の序論や議論、考察などがおざなりにされる危険も生まれようというものだ。また、そうしたノリでなまじっか学位取得して早々に出世してしまうと、指導力がないまま研究の世界の指導者になったりして、後世の人材育成やその後の科学コミュニティにとって迷惑な存在になったりする場合もあるだろう(実際、そうと思しき事例を少なからず僕は見聞している;固有名詞こそ出さないけどね)。
 第3に、科学技術政策における研究費配分と業績の連関の問題がある。
 上記で、研究費獲得競争が熾烈ということを軽く述べた。現在、大学の運営交付金削減と、研究予算のプロジェクト型競争資金への移行が進んでおり、その財源はほぼ国民の税金だったりする。文科省や日本学術振興会などのいわゆる科研費しかり、JST の戦略的創造研究推進事業しかり、各省庁からの研究予算しかり。国公私立の大学や国公立の研究機関における研究費の財源として、民間企業からの基金や大学及び研究機関の独自財源に由来するものの割合は、現在極めて低い。
 そうした限られた財源を奪い合う状況では、互いが他に対する優位をどのように確保するか?というのを、どうしても考えるようになるだろう。ましてや、以前から問題になっている予算の単年度制の名残や、研究が思うように成就しなかった場合の再挑戦可能性の低さなど、身分の高低を問わず現場の研究者にとっての心理的圧迫となる要因は少なからずあると言える。

 それらが研究不正や研究費不正に結びつく道程のどこかに効いていることは、大なり小なりあり得るだろう。ここで成果を出さなければ次がない...。ちょっとくらい怪しいデータでも、加工して話を通してしまえば、次があるかも知れない...。全体としては間違いない研究の展開なんだから、怪しいデータがあっても良いだろう...。科学の論文はデータが全てで、序論や議論なんてどうでも良い。どこかに書いたのを再利用したり、どっかから拝借して済ませてしまえばよい...。そんな誘惑に駆られる向きは、ごく一部だろうが、あるかも知れない。
 実際、一部の生命科学の研究者の間では、日々是実験、データ至上主義と思しき風潮は実際にある。

 社会の側の問題としては、少なくとも以下の2点がある。
 第1に、科学の不確かさに対する理解の低さの問題がある。
 重ねて述べるが、それ自体が一概に悪いというわけではない。ただ、大人の科学離れや、一部で言われる“科学者の科学離れ”(科学の専門家が自分の専門外のことに目配せ等できないこと)が、最先端の科学研究における細分化と相まって、個々の最先端の知を学術的に適切に位置付けられるような、俯瞰的なものの見方を養うことを難しくする遠因になっている側面はあるだろう。
 専門家や科学コミュニケータ、マスメディアなどが最先端の知識を正しく伝えて、一般の方々の見識が広まり深まれば万事解決という単純な話でもないのだが、ものの見方に関する最低限の見識のレベルで、学問的な知の社会的共有を進める試みが成り立たなくなっている、又は成り立たせるのが難しい場面は、まぁ少なからずあるだろう。
 そんな中では、ある科学的なネタに関して、その中の何が確実な知で、何が不確実な知で、それらの間の関係は何なのかを整理して理解することも、なかなか難しいかも知れない。
 第2に、科学の不確かさを生む制度的要因の問題である。
 科学の不確かさに関する社会的な理解が進まない要因としては、理科教育をはじめとする学校教育の功罪もあるかもしれない。高校入試や大学入試などの通過を目標にした中学や高校の教育では、用意された問題に対して、想定される正解は一つあって一つに限るという場合が多い。中学や高校を卒業した方々は、その枠組みの認識を持ったまま社会に出るため、最先端の科学的な知に不確かさが内在することを理解できないのではないか...という話は以前からある。
 他方で、研究の世界でも、自ら設定した問いに対する答えは、場合分けによる条件分岐を考慮に入れても、何らかの意味で問いに対する答えが一つあって一つに限るという認識は支配的であると思われる。しかし、その問いに対する答えが、学術雑誌に書かれた論文の形で世に出て間もないものであるとき、同じ問いに対する答えが論文著者と、論文の読者である他の研究者(や科学コミュニケータ、研究者とは限らない市井の一般読者等)の間で異なる場合はしばしばあり、それゆえに批判的な検証や議論が発生する。その際、誰がその答えを発したのかが何らかの事情で未整理だったりする場合には、あたかもその科学の最先端にあるその「問いに対する答えが一つあって一つに限」らないように、一部の方々には見えてしまうことがある。

 それらが、最先端の研究における間違いと不正行為の違いの判別困難や、最先端の研究成果に対する過度の期待に結びつくことはあるだろう。そのうち後者が、例えば難病の治療可能性を切り拓くものであったり、教科書にある基本的な知見を大きく書き換える可能性のあるものだったりする場合には、それが正しいと認識されている間には大きな騒ぎになる一方で、不正が発覚した暁(?)には、期待を裏切った反動で苛烈なまでのバッシングに発展したりする場合もあるかも知れない。

7)小保方さんはどうすべき?
 上記では触れなかったが、いわゆる3大行為(捏造、改竄、盗用=剽窃)の他にも、利益相反問題の発生している案件もあったりなど、一連の騒動が内包する問題は非常に多岐にわたるものになりつつある。
 加えて、あの激しいバッシングで、一時期の過干渉的なフィーバーから反転しての渦中にあっては、この状況で表に堂々と出て何かを言うことは、並大抵のことではないだろう。

 不正疑惑発覚以前のフィーバーでも心労はあろうと思われ、しかも前途のあるまだ若い方である。
 ここは少し状況が落ち着くまで、静かになさっているのがよいのかなと、個人的には思う。

 ただ、ことの大きさに関しては、遅かれ早かれ、良く認識していただく必要があるだろう。
 恐らく、大学院で受けてきた教育や、理研就職後に受けてきた指導及び共同研究の手続きにおいて、色々と問題があったのではないかと推察される。それらと虚心坦懐に向き合っていただき、いつかどこかで対外的な意志表示をしなければならない日が来るだろう。

 そこまでは、少し時間がかかると思われる。

 残念ながら、博士号の学位取消は、避けられないだろう。
 あの博士論文の序論の大量剽窃だけでも、その案件を満たしてしまっていると云うべきだ。

 ただ、その行為が犯罪かというと、それはちょっと違うかなと。
 もっと悪質な研究不正は、他にもいくつか同時進行で幾つか起こっている。
 論文投稿の不正という点からすれば、もっと沢山の論文で不正行為をやらかした者だって何人もいる。東邦大学医学部の麻酔科医の研究不正で、172 本の論文に捏造や改竄があったという話だってある。
 小保方さんをストーキングする暇があったら、マスメディアや在野関係者はそっちの方をこそ色々追求して欲しいかなと、僕は思う。

 まぁ、しばらくは様子見かな。

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