mixi からの移設ブログ
mixi の体裁悪化により、暫定的に日記機能を移設しました。これを機に、会員外の方々とも積極的に交わりたいと思います。
 



 大変遅ればせながら、ワークショップの開催報告です。
. 先日(11/2)、サイエンスアゴラ 2009 にて、NPO 法人サイエンス・コミュニケーション(以下サイコム)の主催で、ワークショップ「本音で語る“大学とは何か”」を開催しました。
. 当日は連休谷間の平日にもかかわらず、終わってみれば延べ 20 人余りの方々にお越し頂き、盛り上げていただきました。当日の講演者の方々、お越しいただき議論に加わっていただいた方々に感謝いたします。
. また、当日は初の試みとして、会員制ネットワーキングチャット twitter にてインターネット生中継を行いました。相応に大きな反響を頂き、主催者としては有難い限りです。この生中継(twitter 用語で「tsudaる」と言うそうですが)に関しては、こちらの方にご協力をいただきました。記して感謝します。

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. 当日の模様を簡単に以下報告させていただきます。
. 生中継した実際の内容は、こちらをご覧下さい。

<前半・トークセッション>
・大隅典子先生(東北大医) 「大学・知の府として今あるべき姿は」
. 大学人の立場からお話をいただきました。「周囲が大学人なので、普段つい忘れがちなことも多い」とのことでしたが、大学の在りように関する問題意識に関しては普段から活発にご自身のブログでご発言なさっています。下記に当日頂いた話の概要を記しておきます(文責は筆者)。

. 大学と大学院が抱える教育人口は、高校以下に比べてわずか。民主党政権の云う「子供手当て」は高校生以下に対する話。大学人がそれを忘れて「大学は大事」とだけ言っていても、世間には通用しないのではないか。
. 現在、大学のグローバル化、フラット化が進み、大学が行うべき人材育成の内容は変革を余儀なくされている。組織の上に行くジェネラリスト(何でも屋)からスペシャリスト(特定分野の専門家)のネットワークへと、シフトしつつある。そのネットワークは、小規模のグループで会ったり個人間のつながりであったりするが、リテラシーも細分化している。
. コミュニケーションは重要だ。教養と本人の軸足が重要で、リベラルアーツ(教養課程)は今こそ重要。中学や高校からの文理コース分けは、有害ではないか。
. そして、大学では「次にあなたたちが世の中に出て社会に貢献するのだ」ということを教えないといけない。学部から修士の間は、最初の専門性獲得と、職業人になるための教育を行う。博士ではより高い専門性を求める。博士に行くのは、修士の直後でなくても、育児や就業の後でも良い。日本では、学部→修士→博士の流れが囲い込みシステムになっており、良くない。進学時に別の大学を選ぶのが当たり前のアメリカのようにならないと、大きな人間が育たない。加えて、リーダーシップの育成も重要。

・永山國昭先生(岡崎統合バイオサイエンスセンター) 「知のオデュッセイア・越境のすすめ」
. サイエンスアゴラ実行委員長として、また日本の学問を俯瞰できる立場の方として、お話をいただきました。個人的には、生物物理学会生物物理若手の会でもお世話になっている方です。以下に、当日のお話の概要を記しておきます(文責は筆者)。

. サイエンスアゴラ実行委員長を開始時からやっている。イギリスでは科学を楽しむという文化があり、他方で同時に日本の子供達の理科離れを痛感している。JST としても何かしなければいけないのではないかと考え、様々なイベントを始めた。
. 職歴としては、東大駒場から岡崎に移動。その間、大学の進学率が高まったことについて、日本の大学の中身も重みも変質していると思うが、個人的にはピンとこない。自分の研究に関しては、大学の存在感が大きいと思う。
. 大学の役割は、教育、研究、文化の発信の3つ。研究は人の能力に依存する。リベラルアーツ(教養)はこの数年で堕落してきた感じがある。スキル(技能)を持った社会の歯車を育成する役割もある。学生本人の人格形成に大きく資するのは高校か大学だ。
. しかし、帰っていく場として「大学」が言及されなくなっている。全国の大学でリベラルアーツが消えたこととも関連していると思われる。また、大学は社会性の育成の場でもなくなってきている。自分自身の経験から、人格形成には大学が最も資した。友人達や先生方の影響は大きい。今の学生には、学部や学科を超えた横のつながりが余りない。教養部があって、文学、哲学など多様な分野の学生との交流がないと、自分の持っている経験その他で“周囲と付き合っていける”という部分を持てるかどうか...。
. クラブ活動などの場はあるのだろうが、社会人教育の場としての大学は機能しなくなっているのではないか。専門的なスキルを持って大学を出ると云うことは、労働市場に参加すると云うことだが、今の社会は複雑で変化のスピードが速い。しかし、チームワークとして何をやっていけるかという場面でものを云うのは、専門性ではなくて横の人間関係のつながりの能力ではないかと思う。戦前は地方コミュニティがそうしたものを支えていた。 . 困難な現在の中で、人材には専門性よりも問題を解けることが求められている。どういう話し相手が居て、問題があったときに誰に聞けて(先生、友達、地域の人)、...というのが重要。専門化された大学で、研究か教育かと云うことより、こちらの方が大事。大学の学部+大学院の計9年間でそれをどう行うのか? 日本にはそのモデルがない。どうしても、自分がモデルを求める先はアメリカになる。例えば、ハーバード大学の強力なネットワーク。
. 科学コミュニケーションの持つ意味は、今後益々強くなっていくと思う。大学が本来持っていたであろう“人間を創り上げる場”という能力を、昔の教養という形で復活させるのか、それとも新しいカリキュラムで科学コミュニケーションという形で創り上げていくのか。そこを考えていく必要がある。地方大学の場合は、その大学が存在することで地域が活性化するような、大学と地域のつながりの密接なところが生き残れるのかも知れない。
. 大学は、時空を超えて“帰っていく場”であってこそのもの。ハーバード大学は2兆円、慶應義塾大学は 500 億円が卒業生から来ている。それだけ、“帰っていく場”なのだ。東大では卒業生基金に 100 億円程度しか集まらなかった。それくらい“帰っていく場”ではないということだ。
. 同窓生が帰りたがらない大学は、弱体化していく。

・上田昌文先生(NPO法人・市民科学研究室) 「大学はこうあって欲しい」
. 社会の側で、大学を外から見ている立場からお話を頂きました。科学コミュニケーション界隈では、かなり古くから活動をなさっている方で、筆者にとっても様々な意味での先輩です。今回お話しいただいた内容を、以下にまとめました(文責は筆者)。

. 市民科学研究室という NPO 法人をやっている。大学ではない社会からの提言について試行錯誤を重ねてきて、長年の試行錯誤から大学との接点が生まれた。今日は自分の考える「大学はこうあって欲しい」を話したい。
. 資金をもらって大学と共同研究をしている。現在は、フードナノテクテクノロジーアセスメントに従事。社会と科学との関わりが複雑になってくると、研究者だけでは無理だろう。ただ、研究の中で出くわす専門的な疑問は、書物やネットでは解決できないことが多く、専門家に訊くしかない。例えば、日本の“だし(出汁)”。「合わせると美味しい」に定量的根拠があるのかどうか、実は良く分かっていない。データの評価の仕方や、リスクの評価の仕方は、門外漢には難しいところもある。他方で、専門家から出ない視点が面白がられることもしばしばある。大学の先生の裁量で、院生と議論させてもらっているが、専門的能力が無くても突っ込める。院生は社会的意味合いに興味を持つ場合が多い。それを通じて、自分の持っている専門性の社会的意義が分かるようだ。時には、院生と共に新しい領域にアプローチすることもある。お金をかけずに院生とつきあえるのは、有り難いことだ。
. 自分は、大学の非常勤講師もしている。経験上、その給料はもの凄く悪いと思う。5 ~ 6 ヶ所を掛け持ちしないと、非常勤講師だけでは食えない。この事を大学はどのように考えているのか。
. 大学への要望を述べる。まず第一に、専門情報を公開して欲しい。海外情報へのアクセスなど、大学に籍がない人にとっては大きな壁だ。研究者から得た協力は、研究者本人にとっては社会的評価になるのか? 論文にならないのに?...というのが問題になる。院生が社会と接する機会を増やして欲しい。第二に、理系の素養は身に付けにくいと云うことについて。意欲ある文系の市民が素早く学べる仕組みがあればよいと思う。大学の先生が市民や地域との連携をしやすくなるようにして欲しい。第三に、大学に行きたいのにお金が無くて行けないという人の問題を解決して欲しい。この点に関して、大学の中の人がもっと声をあげて欲しい。高等教育は無償化されるべきである。お金がいらないから「学びたければいくらでも学べる」という動機付けが出来る。そのためには、国費でない公的財務支援(寄付など)の強化が必要だ。
. 現在、大学の先生の仕事は、教育:研究:雑務= 1:1:1 になっている。それはおかしいだろう。研究出来ないではないか。教育:研究の比率を 7:3 か 3:7 にして、雑務の比率はさせないようにしなければいけない。
. 大学生の大半は、研究者にはならない。研究者のためのコースとそれ以外とを分けるべきではないか。そこが中途半端だから、大学に魅力がないのだろう。大学入試は、『何を学びたいか』『そのための基礎学力はあるか』を問うべきである。高校生が『自分は大学で何を学びたいのか』を実感出来るようにすべきである。それをすっとばすから、大学の先生が大学で教えるべきことを教えられないのではないか。
. 地域に支えられた大学の具体的制度に関して、私案を述べる。地方税収の 1 ~ 3 %を大学へ流し込み、その成果は地域に具体的に説明することで社会に還元させる。学生と地域とを交流させ、地域の課題解決に大学が貢献するべきである。苦しんでいる地方大学こそ、発想の転換をすべきだろう。こうした取り組みがあればこそ、大学の研究に地域も評価するだろう。
. 研究者は自立させるべきである。基礎研究の恒常的な支援が必要だ。10 年経ってやっと結果が出る基礎研究を潰してはいけない。専門家同士の評価以外に、周囲の人が分かって支える仕組みが必要だ。ただ、そのためには、研究費を本人、大学、個別研究プロジェクトに適宜分配し、研究者に社会への説明を年に1回はやらせるようにするなど工夫が必要だろう。自分の研究が社会に対して如何に通じないかを実感させるのは良いことだ。 (参考:市民科学研究室の大学アンケート(pdf 形式につき注意)が参考になるので、分量は膨大ですが是非ご覧下さい。)

<後半・討論セッション>
. 後半の討論では、オープンスペーステクノロジー(以下 OST と略記)という手法を採用し、グループ討論を行いました。手法の詳細はリンク先、またはこちらの書籍をご覧下さい(場合によっては、こちらも参照して下さい)。
. 今回は、2つの島が出来ました。討議の内容と共に記します。時間の都合で議論は比較的浅いものになりましたが、それでもグループ討論を行って、小さな成果を出すことが出来ました。

島1) 博士号に期待すること:博士号の問題
. twitter で博士号の問題について発言すると笑われることが多いが、博士号に何が含まれるべきかについて議論したいという言い出しっぺの声を受けて設置。参加者約 6 人(演者の永山先生を含む)。構成員はジャーナリスト、主婦、大学人など多彩。
[島1での討論概要]
. 博士号を持っている人のコミュニケーション能力に問題がある場合が多い。企業の人は問題解決や課題探求を求めているのに、今の(日本の)博士にはそれがない。どうすれば良いか? この論点に対して、永山さんが「科学コミュニケーションをカリキュラムとして義務付けよ」と主張。「企画書を書く」「交渉する」を含めてやらせれば、本人の能力がかなり上がるのではないか...と。他方で、博士号取得者の就職の難しさは、企業一般の“流動性の低さ”と同調しているのではないか...との意見も出た。

島2) 大学は何が出来るのか:教育問題
. 司会が演者の1人(上田先生)にお願いして設置。当該演者の希望によりこのテーマに。参加者約 10 人(演者の大隅先生を含む)。構成員は大学関係者が多数。
[島2での討論概要]
. 大学が教育を軽視している。教育を重視しているのであれば、社会経験のある人を大学教員にしなければいけない。他方で、企業→大学→企業...のはずが企業に戻れないという場合もある。社会の流動性を高めることが必要だ。
. 「学生に調べさせて論文を書かせ、先生は正解を云わない」というカリキュラムが成果を出しているらしい...という話がある。 . 教育と研究は対立するのか? そんなことはない。研究の意味をもっと幅広く捉えるべきである。地位の低い家政学などの分野を再評価するなど、必要なことは沢山ある。

. 最後に、第2回博士ネットワークミーティング@つくばの案内をして、会は終了しました。 . 平日開催と云うこともあり、参加者数のことを危惧していましたが、最終的には約 20 人の方々にお越し頂きました。大変有り難いことです。twitter 上でも反響を頂き、有り難い限りです。



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