よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2017年10月オールジャパンカップ達成。





東海道道草ウオーキング№23(新居宿~浜松宿)

2017-05-05 13:53:31 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/9 宿泊した浜松のホテルから電車で昨日ゴール地「新居町駅」に移動。

新居町駅からスタートします。新居関所は、慶長5年(1600)に設置されました。大津波の影響で現在地に至るまで2回変わっています。

最初に設けられたのが、今切渡しの近くです。ここは、慶長5年(1600)~元禄14年(1701)まで。現在は、「大元屋敷跡」の案内板があるのみです。(下記写真①)

次が、新居高校の近くで、元禄14年(1701)~宝永4年(1707)までです。(下記写真②)ここには、「中屋敷」がありました。

現在地に移ったのが、宝永5年(1708)~です。(下記写真③)

 

  

井上通女の歌碑がありました。通女は、江戸時代中期の歌人で讃岐丸亀の生まれ、幼少から和漢の学に通じ、多くの文人と交わり文名を高めました。著書に「東海紀行」「江戸日記」「帰家日記」などがあります。

              旅衣 あら井の関を越かねて 袖によるなみ身をうらみつつ  

この歌は、今切関所で手形に「小女」と記すべきところを「女」とだけあったため、通行を拒否された時の心境を詠んだ歌です。「東海紀行」に収められています。

     

街道に合流します。

西浜名橋を越えると浜松市に入ります。

  

中浜名橋から弁天島に立ち寄ります。このあたりは、弁天島海浜公園になっており、春先には、潮干狩りが楽しめます。

また、海浜公園の前には、マンション、ホテルなど建ち並んでいます。

  

 

【弁天島と天女】

昔、弁天島のこのあたりは、砂州が新居の橋本廻りまで続き、白砂青松「天の橋立」のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。

村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。

それから長い年月がたち、この辺り一帯は、大きな災害にみまわれ、、洲崎の一部であった弁天は、湖に取り残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間は、渡船で行き来するようになりましたが、

江戸時代、宝永6年(1709)、今切渡船安全の為、この島に辨天神社が建てられました。人々は、天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしていきました。御祭神は、「市杵島姫命」です。

  

舞阪宿に入りました。舞阪宿は、家数541軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒、人口2475人。(1843年資料より)

舞阪宿に入ると、「北雁木(きたがんけ)」があります。ここは、今切渡しの舞阪宿側の渡船場跡で、明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。

雁木(がんけ)とは、階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では、「がんけ」と昔から言っています。この北雁木は、主に大名や幕府公用役人が利用した所です。

    

本雁木跡:ここは、旅人が一番多く利用した船着場です。

  

舞阪宿には、本陣2軒(宮崎伝左衛門本陣、徳右衛門本陣)がありました。本陣跡は、現在駐車場になっていて石碑のみが残っていました。

その向かい側には、脇本陣があります。江戸時代、東海道舞坂宿は江戸から30番目の宿場にあたり、東西交通を結ぶ今切渡しの渡船場でした。今日、当時をしのぶ町並みは失われてしまいましたが、

天保9年(1838)建築の旧脇本陣「茗荷屋」の上段の間があった書院棟が残されていました。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構です。この貴重な脇本陣を後世に伝えようと、建物を復元しました。

明治時代は、村役場としても利用されたそうです。

  

広重の浮世絵「舞阪宿」ですが、奥の方の岩山は「舘山寺」の方では、ないでしょうか?、また富士山もこの位置からは見ることができません。

 

舞阪は、江戸時代から海苔の養殖が盛んで、街中を歩くと干物屋さんの看板が多く目にします。生しらす丼なんか美味しいでしょうね。

街道は、新町交差点より国道1号線と交わり、ここは、東海道松並木の方に行きます。

  

340本の松並木は、700m続きます。途中には東海道53次各宿場のイラストが掲げられています。

【浪小僧】

昔、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていた。魚が獲れない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり、小僧を殺そうとすると、

小僧は、「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助け下さい。その代り、御恩返しに海が荒れたり、風が強くなったりするときは、海の底で太鼓を叩いてお知らせします。」というので

海に戻してやりました。それ以来、天気が変わる時、海の音が聞こえるようになったと伝えられています。

  

街道は、浜松。馬郡の町に入ります。春日神社の先に「本徳寺」が東本徳寺、西本徳寺と分かれています。本徳寺時代の泉光坊が、東本徳寺、大泉坊が西本徳寺になったそうです。

また、この西本徳寺には、こんな話があります。

歌舞伎「白波五人男」のモデルにもなった盗人日本左衛門(歌舞伎では、日本駄右衛門)がこの寺の釈迦像を盗み、浜松方向に逃げたのですが、かなりの距離を走ったにもかかわらず、

寺の門前だったと言い伝えがあります。

  

馬郡観音】 かってここに馬郡観音堂が建っていて、安置されていた観音像は定朝作と伝わる。戦後に廃堂になり、観音像は近くの如意寺に移されているという。

往古、東海道を上り下りした旅人の信仰をうけ、人々はこの堂の前を通るときには必ず手を合わせたといわれてます。

    

このあたり、神社・仏閣が多いですね。

   

  

そろそろお腹もすいてきました。JR高塚駅近くを歩いていると、浜松のファミレス「さわやか」があります。ここの「げんこつハンバーグ」が有名ですので入ってみました。

さすが、テレビでも紹介されているお店です。美味しかった。

  

お腹も一杯になり、再び歩き出します。

麦飯長者跡

昔、高塚の村に一軒の裕福な家があり、五郎兵衛という男の家族が住んでいた。五郎兵衛は馬を引いて人や荷物を運ぶ、馬子を生業としていた。

ある日、浜松の宿場から舞坂の宿場まで一人の旅僧を送り届けると、馬の鞍に風呂敷包みがくくりつけたままだった。手にとって見ると、ずっしりと重く、家に入って中を見てみると、

そこには観音経一巻と大量の小判が入っていた。急いで返そうと思い、舞坂の町まで馬を走らせ、旅僧の姿を捜すが見つからなかった。

そして、旅僧が現れるのを待って30年ほど過ぎたある日、捜し求めていた旅僧が立派な格式の高い僧(白隠禅師)として、街道を通るのを見つけた。五郎兵衛は大金を返そうとするが、

誠実さに感動した高僧は受け取らなかった。 そこで、五郎兵衛は困った人のために使おうと、街道を行き交う人々に湯茶を接待したり、空腹の人には麦飯を食べさせてあげたり、

怪我をした人を手当してやったりした。こうした五郎兵衛の善行によって、後に小野田という姓が与えられ、村役人や庄屋にまでなることができた。(浜松情報BOOKより)

     

二輪・四輪メーカーのスズキは、この辺りに本社があります。バス停にもスズキ入口がありました。

   

浜松領界石】 江戸時代高塚が堀江領となり、ここに境界を示す標示石が立てられました。堀江領は、舘山寺を居城とした名門大沢氏が納めていました。

先に行くと、右側に松並木があります。

  

【二つ御堂】 奥州平泉の当主、藤原秀衡が京で病に倒れ、彼の元へ駆けつけようとした側室がこの地で死報を受け取り、悲しみの中北側に御堂を建てて亡くなりました。

それは、誤報で、病が治り、奥州への帰途の途中、この話を聞いた秀衡は、南側の御堂を建てたといいます。明治15年(1882)頃まで側室の遺体を埋めた場所に秀衡が植えた、周囲6mの

「秀衡の松」があったといわれています。

   

ここには、馬頭観音、高札場跡もありました。

  

今、歩いているのは、国道257号線。浜松の市街地も近くなりました。

鎧橋】 平安時代末、鴨江寺では、比叡山延暦寺の本山には、無断で戒壇(出家者には、正式な僧・尼として認めること)を行っていました。そのことで延暦寺側の兵が攻めてきたため、

鴨江寺もこの橋で鎧を着て迎えうちました。2日間の戦いで双方1000人を超える戦死者があったそうです。鎧橋の北に戦死者を葬った場所は、千塚または血塚と言われていました。

   

新幹線のガードを潜り、西浅田から東海道本線の下を通ります。しばらく歩くと、「堀留ポッポ道」があります。

東海道線の浜松工場への引込線の後を、緑の散策路として、昭和60年(1985)に整備しています。ここには、大正時代に造られた、初期の国産蒸気機関車が展示されています。

この小型機関車は、「ケ91タンク機関車」で大日本鉄道会社が製造し、東農鉄道(岐阜県美濃太田~多治見間)を走っていました。

   

五社神社】 家康公は、城内にあった神社を2代将軍秀忠の産神様として天正8年(1580)現在地に社殿を建立しました。社名は、太玉命、武富命、斎主命、天児屋根命、姫大神の5柱を祭神として

祀っていることに由来します。戦災で焼失しましたが、昭和57年(1982)、京都の平安神宮を思わせる優美な神殿が再建され、特に子守、子育ての神として信仰されました。

浜松復興記念館】 戦時中、軍施設や軍需工場があった浜松市は太平洋戦争において艦砲射撃を含め、実に27回に及ぶ激しい空襲を受け、市街地の大部分が焦土と化した。

戦後いち早く着手した復興土地区画整理事業が1983(昭和58)年に終了。この事業の完成を記念し、1988(昭和63)年4月に開館。

  

浜松宿は、家数1622軒、本陣6軒、脇本陣0軒、旅籠94軒、人口5964人(1843年資料より)

浜松宿は、箱根宿と並ぶ6軒の本陣がありましたが、戦災で焼失し、現在碑が所在を示しています。

三菱UFJ銀行の所には、川口本陣跡、緑屋の前に、佐藤本陣跡、静岡信用金庫の所に杉浦本陣跡、トイザレスの前に梅屋本陣跡がありました。

この中で最も古いのが、杉浦本陣です。

  

  

街道は、蓮尺の交差点で「姫街道」と交差しています。今回は、ここまでにします。

 

 

旅の楽しみは、温泉と食べ物。浜松と言えば、「餃子」ですね。美味しかったです。

  

 

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