碁においての才能とはなんであろうか?
センスということもあるだろうが、
一番大きな要因は繰り返し練習することが出来る能力だと僕は思っている。
最近、僕は小学4年生くらいの子を指導した。その子は4級だと言っていた。
僕はその子が何がわかって、何がわかっていないのか調べるために、
基本の死活を問題として出した。
僕はその後に、その子にこういう話をした。
「君はご飯を食べるときにどっちの手で箸を持つ?」
「右手です」とその子が答える。
僕が、「じゃあ左手で箸を持ってご飯を食べることが出来るかい?」と聞いた。
その子は「出来ません」と答える。
「それが知っている事と出来ることの違いなんだよ。
右手では出来るのだから、
どうすれば左でも箸を持つことが出来るのか知ってはいるはずだよね。
でも出来ない。どうしてこういう違いがあるのか?といえば、
右手は毎日やっているのに、左手は使っていないからだよ。
だから、知っていることを出来るようになるためには、
何も考えなくても(無意識で)出来るようになるまで繰り返し練習しなくてはならない。
何も考えなくても出来るようにならなくては、実戦で役に立たない。
そういうことが本当の力だよ」と教えた。
プロの棋譜を並べて練習するときも同じである。
ここで大事なことは、「感動」である。
良い手を見たときは速やかに感動しなくてはならない。
そして自分もこういう手を打てるようになりたいと念じながら、
繰り返し10回でも100回でも並べるのである。僕の経験上これが効くのである。
人間の性質として、
信念を持ってそのように練習すれば、必ずその人間に近づいていくものだと思う。
このように練習すれば、誰でも、かなりのレベルまで行くはずである。
ただし、この作業は好きでなくては、あるいは好きにならなくては、続けるのは難しい。
だから、才能というのは、結局のところ、昔からよく言われる、
「好きこそ物の上手なれ」というのが正体なのではないかと思う。
センスということもあるだろうが、
一番大きな要因は繰り返し練習することが出来る能力だと僕は思っている。
最近、僕は小学4年生くらいの子を指導した。その子は4級だと言っていた。
僕はその子が何がわかって、何がわかっていないのか調べるために、
基本の死活を問題として出した。
僕はその後に、その子にこういう話をした。
「君はご飯を食べるときにどっちの手で箸を持つ?」
「右手です」とその子が答える。
僕が、「じゃあ左手で箸を持ってご飯を食べることが出来るかい?」と聞いた。
その子は「出来ません」と答える。
「それが知っている事と出来ることの違いなんだよ。
右手では出来るのだから、
どうすれば左でも箸を持つことが出来るのか知ってはいるはずだよね。
でも出来ない。どうしてこういう違いがあるのか?といえば、
右手は毎日やっているのに、左手は使っていないからだよ。
だから、知っていることを出来るようになるためには、
何も考えなくても(無意識で)出来るようになるまで繰り返し練習しなくてはならない。
何も考えなくても出来るようにならなくては、実戦で役に立たない。
そういうことが本当の力だよ」と教えた。
プロの棋譜を並べて練習するときも同じである。
ここで大事なことは、「感動」である。
良い手を見たときは速やかに感動しなくてはならない。
そして自分もこういう手を打てるようになりたいと念じながら、
繰り返し10回でも100回でも並べるのである。僕の経験上これが効くのである。
人間の性質として、
信念を持ってそのように練習すれば、必ずその人間に近づいていくものだと思う。
このように練習すれば、誰でも、かなりのレベルまで行くはずである。
ただし、この作業は好きでなくては、あるいは好きにならなくては、続けるのは難しい。
だから、才能というのは、結局のところ、昔からよく言われる、
「好きこそ物の上手なれ」というのが正体なのではないかと思う。










