古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

ヤマトタケルのお墓と国押人(くにおしひと)大王稜(孝安稜) 2017年1月7日

2017年01月12日 12時31分25秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
ヤマトタケルのお墓
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以前から 地図を見て気になっていた場所があった。ヤマトタケルのお墓である。
私の住む 河内平野の東側に並ぶ 金剛葛城の峰々のすぐ東側の奈良県御所市にある。
天気の良い日に 出かけてみた。
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ヤマトタケルは何時ごろの人だと宮内庁や記紀製作者は言うのだろう。

※この一覧表については 斎木雲集州著「古事記の編集室」、「出雲と大和の曙」、「出雲と蘇我王国」
勝友彦著「親魏和王の都」いずれも大元出版 などをもとに私が作成しました。
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約300年続いた磯城王朝を 九州物部王家のイクメ王が幾多の苦難の末に倒して大和入りします。
晴れて大和の大王となり、石上神社(いそのかみ)で物部王朝を開いたのですが 非常に短命に終わります。
イクメ大王の孫のワカタラシ大王は若くして戦死して 物部王朝は終わります。
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記紀の政策方針の第一は 自分たちが渡来人の子孫だという事を隠す事です。
そのため自分たちの祖先は 天上世界から降りてきた神の子孫だと言ったのです。
秦国人徐福が祖先だとは決して悟られてはなりません。

第二の方針は 血で血を洗う征服戦争なぞ無かった事にして 万世一系を主張して
政権交代など無かったといったのです。出雲王朝は 倒したのではなくて 
国を譲ってくれたというわけです。

そういわないと渡来人の子孫の征服王朝の言う事など 誰も聞きませんよねえ。
そういう編集方針を 持統女帝は藤原不比等に指示したようです。
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それで 磯城王朝などなかったことにしたいのです。
系図を見てもらうと分かりますが、徐福の孫の初代大和大王「天の村雲」は名前が消されて
神武(磐余彦)と言う名前に替えられて しかも存在を出雲王朝の初めまで 引っ張ったものですから
140年くらい長生きした大王(このころはまだ天皇とは言いません)がたくさんいることになっています。

そうしないとつじつまがあいませんからねえ。でも記紀は歴史書ではなく 歴史小説ですからねえ。
そこまでつじつまを合わせなくてもよさそうに思いますが。

政権交代を隠すため 磯城王朝の10代、11代を消して代わりに日向都萬国のイ二エ王を
10代大和の大王にします。九州を一度も離れた事の無いこのお方の お墓まで宮内庁はでっち上げます。
嘘もここまで 真剣につくと あきれますねえ。

※イ二エ王(崇神)稜は「2015年4月1日その2天理市」の記事に載せています。
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大和で物部王朝を打ち立てたといえども その政権基盤はまだ弱く、大和では依然として出雲王家の分家の
登美家、加茂家が大きな力を持っていたといわれます。
イクメ大王の皇子のオシロワケ大王やワカタラシ大王も自ら征服戦争にでかけたといわれます。

大王が自分で征服戦争に出かけるのは さすがに格好悪いと 記紀編集者は思ったのでしょう。
そこでヤマトタケルを思いついたのでしょう。

自ら大王が戦争に出かけたり、自ら大王が支那へ朝献にでかけるのは 格好悪いので
代わりに架空の人物にやらせるのは 記紀の随所に見られます。

ヤマトタケルの行動も オシロワケ大王やワカタラシ大王(景行、成務)の行動だったのです。
ヤマトタケルが若くして戦死したのも ワカタラシが若くして戦死したのと似ています。
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集落の中の狭い路地を歩いて行きます。
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こんな標識が無ければ分かりません。
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突然新しい立派な石段が現れます。
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この右上の森がお墓のようです。
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門にはちゃんと宮内庁の看板もあります。
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説明看板です。嘘をつくなら徹底しないと。
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ご丁寧に石碑まであります。
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この森が古墳です。この地は出雲系豪族の古墳だらけですから、よさそうなのを宮内庁が
「これがいい」と決めたのでしょう。
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この葛城地方は出雲系の豪族が開拓したのです。

紀元前220年ごろ、石見の国五十猛海岸に上陸した徐福は事前に部下の穂日を出雲に遣わして 
上陸の許可を取っていました。穂日の子孫が今の出雲大社の宮司です。

大勢の技術者や海童(青年男女)をひきつれた徐福は出雲王国の王となるべく野望を持っていたと思われます。

言葉巧みに 出雲の主王(役職名は大名持ち、個人名は八千矛で記紀では大国主と書き換えられました)
と副王(役職名は少彦、個人名は八重波津身で記紀では事代主と書き換えられました)を誘い出して
それぞれ 猪の目洞窟と志都の岩屋洞窟に幽閉殺害したのです。
※これらの洞窟の参拝記は2013年3月18日の記事に載せています。

主王副王を同時に殺害された王国は、大打撃を被りますが、八重波津身の皇子鳥鳴海がすぐに
第九代大名持に就任して 王国を立て直したといわれます。王になりそこなった徐福は 一旦秦国へ
引き上げて更なる資金と技術者と 海童を始皇帝に要求して二度目の来日は 佐賀浮杯に
再上陸します。
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東出雲王家富家の副王の后の「沼川姫」は皇子タテミナカタをつれて実家の糸魚川へ帰ります。建御名方はその後
諏訪地方に大勢の出雲人や越の人を連れて移住し 諏訪湖の開拓に成功します。
いくつかある諏訪大社の主祭神は すべてタテミナカタと 御母堂の沼川姫です。 

別の后の活玉依り姫は皇子奇日方(くしひかた)をつれて実家の三島郡にかえり、奇日方は大勢の出雲人と
三島の人を連れて葛城地方に移住し この地を開拓して 登美家を名乗ります。

一方西出雲王家神門臣家の皇子味鋤高彦は葛城南部に移住し開拓に成功して 高鴨家を名乗ります。

つまり 葛城地方は 出雲族により開拓されたのです。その出雲王家の豪族たちの墓を勝手に占領して
立ち入り禁止として、小説の中の主人公のような「ヤマトタケル」の墓である、なんて
でっち上げているのです。程度が低いなあ宮内庁は。

つまり御伽噺の浦島太郎のお墓だといっているようなものです。
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国押人(くにおしひと)大王稜(孝安稜)
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初代大和王朝の系図を 各種資料をまとめてみました。

初代の「天の村雲」は徐福の長男五十猛が自分の腹違いの妹の穂屋姫と結ばれてうまれたのです。
当時としても 自分の妹と子供を作るのはタブーでした。このあたりが 記紀製作を指示した
持統女帝の気に障り 神武の名前に書き換えられたのでしょう。

しかしその後大和王朝は3代続けて出雲王家から后を迎えます。当時の皇子は母親の宮殿で育てられたので
3代目の玉手看から「自分は出雲王家の分家の磯城家だ」と磯城王朝を名乗ります。

今回訪ねる国押人大王は6代目の実在の大王です。
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地図を見て探しますが どうもこの小山のようです。
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この看板があったから 確信が持てました。
さらに歩いて行きますが この道は昔は古墳の周りの堀だったようです。
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しばらく歩くと、入口にはちゃんと駐車場もありました。
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ちゃんと孝安と書いていますが、さきほど架空の皇子のお墓を見てきたばかりなので
あまり全面的には信用できません。
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立派な道がついているので 登ってみます。
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道は続いています。かなり大きな山です。
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神社がありましたが、鍵がかかり本殿はおろか拝殿にも境内にも入れません。
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扁額の字が消えて詠めませんが近くに別の神社もあります。
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少しはなれたところにも 石の鳥居の名も無い神社がありました。
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あちこち探し回ってやっとそれらしいところに出ました。
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フェンスがあり、近寄れません。ここまでです。
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フェンスからは 金剛葛城の峰々が正面に見えていました。

この稜は昔は小山全体が大王稜だったのかもしれません。今は神社が3つも作られていました。
南側の斜面は大きく削られて お寺が出来ていました。
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国押人は西暦107年に後漢の安帝に朝献に行っています。奴隷160人を献上したそうです。
支那の歴史書には 「師升」とかかれているそうです。これは「くにおしひと」の「しひ」だけ
表記して「師飛」と書かれたのを別の役人が 写し間違えて「師升」と書いたと考えられてます。

当時の支那では 支那人以外は みな短縮表記、卑字表記、動物名表記が普通でした。
和国、大和国、姫皇女などを卑字で表記されたのを 2千年も経っているのに いまだに
卑字をありがたがって使い続けている歴史学者がいますねえ。馬鹿としかいいようがないですねえ。

江戸幕府に 朝鮮通商使が来て「和国」を卑字で書いていたので 幕府が激怒して
書き直させたという逸話もあります。

愚かな歴史学者たちも もっと日本人の誇りを持たないと。
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前回の訪問記の高杉神社と孝霊山は この国押人の息子のフトニ大王が 大和を物部に追われ
出雲と伯耆に攻め込んだ「第一次出雲戦争」の跡を見て周りました。

出雲王家としては 親戚と考えていた磯城王朝に突然大軍で 攻め込まれて訳が分からなかったのでしょう。
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次は「島の山古墳と比売久波神社」です。
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