私も同じ・・・
6月23日に歩いた、化野念仏寺。この谷間に、ながれている「空気」は今も昔も同じです。
ヨロヨロ・ヨボヨボの私も、忘れかけていた、共生のための「こころ」に引き戻されました。
西行・「誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露」・・・
私の勝手な解釈・・・人間は、~は生きたい・~をしたい・~が欲しい、みんな同じです。(私も同じ)
しかし、「生」は限りがあります。草の葉にクッツイテいる「露」と同じです。
これは、日常の「断捨離」です・・・ 「こころ」の清掃です・・・
この寺に、集められている墓石や石仏や石塔には「文字」は見当たりません。
庶民は「文字」を書くことも読むことも出来ませんでした。
しかし、人間が「こころ」で発する素朴な願いや祈りは、「時」の流れには関係ありません。
日常社会に存在する、「声なき声」・見せることが出来ない「なみだ」に
「目」と「こころ」を向けることが一番大切なことのように思います。
6月23日に歩いた、化野念仏寺。この谷間に、ながれている「空気」は今も昔も同じです。
ヨロヨロ・ヨボヨボの私も、忘れかけていた、共生のための「こころ」に引き戻されました。
西行・「誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露」・・・
私の勝手な解釈・・・人間は、~は生きたい・~をしたい・~が欲しい、みんな同じです。(私も同じ)
しかし、「生」は限りがあります。草の葉にクッツイテいる「露」と同じです。
これは、日常の「断捨離」です・・・ 「こころ」の清掃です・・・
この寺に、集められている墓石や石仏や石塔には「文字」は見当たりません。
庶民は「文字」を書くことも読むことも出来ませんでした。
しかし、人間が「こころ」で発する素朴な願いや祈りは、「時」の流れには関係ありません。
日常社会に存在する、「声なき声」・見せることが出来ない「なみだ」に
「目」と「こころ」を向けることが一番大切なことのように思います。