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「見てろよ、世界」

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“革命”と、良く生きるということ

2015-05-08 16:55:59 | 日記
 ここ一週間ほど、上海に帰省している。一昨日、父の講演について行ってみた。講演のテーマは、中国における村上春樹の文学についてだったのだが、その中で文化大革命(文革)の頃、父が小学校5年生の時に初めて『水滸伝』を読んだ時についてのエピソードがあった。それが私にとって改めて、少し衝撃的な話で、そこから色々と考えさせられたので、こうして文章にして残しておきたいと思う。

 私の解釈でざっくり書くと、文革は当時、毛沢東を中心に推し進められ、知識人やブルジョワ層を悪とみなし、農民や労働者こそが理想の同志のあり方だと考える価値観の上に成り立っていた。そのため、それまで中国がまさに四千年の歴史の中で培ってきた豊富な文化・文学や、多くの海外の書物などは全て葬り去ろうと、焚書を行ったり、知識人・以前の共産党幹部などは捕らえられたりした。「統一思想、統一歩伐、統一指揮、統一行動」(統一された思想、足並み、指導、行動)。このスローガンに表される事こそが、文革の全てだったのではないかと思う。

 私の親世代は、大まかに言って小学校~高校の時期を、その時期に過ごした。
「当時は何も読むものがなくて、本当に活字に飢えていた。だから道端に落ちているちらしのようなものでも、とにかく文字が書かれているものならすぐに拾って、何が書かれているのかを読んだ。」と父は話した。
 だから、小学校の端で拾った、表紙も付いていない何だかわからない本を見つけた時、子供だった父は大喜びして、教室の窓の下に座り込んで、壁に寄りかかってずっと読んでいた。もちろん表紙も何もないから、それが焚書の対象、「香花毒草」(美しく芳しいが害のあるもの)の一つとされていた『水滸伝』だとは知らずに。しかも特に悪影響を及ぼすと思われていた最初と最後の部分は、ページ丸ごと切られていたらしい(もちろんそれも後から知ったのだが)。だから父が読んだのは、途中の部分だけだった。それでもとにかく夢中で読んだ。
 しかし突然、手の中からその貴重な本が消えた。上を見ると、窓から紅衛兵(文革に扇動されていた学生達)に取り上げられていた。当時は、紅衛兵たちが見回りをして、“革命”に反するようなことを見つけては取り締まったらしい。父は彼らの部屋に呼ばれ、厳重な注意を受けた。そしてその本はもちろん、父の手には返ってこなかった。
 特に文革の後期は、このように焚書の対象となっていた本が、地下で出回っていたらしい。その後も父は、友達が、その友達のまた友達か、又貸しの又貸しの又貸し・・ともはや出所のわからない貴重な本を借りては読み、そしてまた次の友達に貸したと言う。

 父が、あの本が『水滸伝』だったと知り、そして完全版を読んだのは、それから数年後、文革も少しずつ緩和されてきて、毛沢東が『水滸伝』を焚書の対象から外してからだった。


 こうして書くとけっこう面白いエピソードのように読めるが、私は話を聞いた時、けっこう衝撃を受けた。自分が無知だったのだが、しかし自分の親の世代がそんなにも知識というものに飢えて少年時代を過ごしたとは、なんだか今の現実とはあまりにかけ離れているように感じるからだ。だがそういう時代は、遠くない昔に、確かに存在していた。
では今は?自分はこれまで、そんなに知識に飢えたことがあるか?というか、何かにかくも飢えたことがあるのか?

 加えて、あの時期の中国には、言論の自由というものが本当になかったのだ(今もどれくらいあるのかはわからないが、少なくとも当時よりはだいぶマシだろう)。そういう中で物事を考えて人生を過ごすことは、何たる閉塞感か。私は文革に関する知識は全然ないけれど、話を聞いたり映画を見たりすると、それは“革命”という美しい言葉を使った欺瞞と狂気だったように感じざるを得ない。そしてこれは、行き過ぎた過剰な“革命”には、少なからず当てはまることなのかもしれない。

 その後文革は終わり、父は再開した最初の大学受験を経て、上海に出てきた。そして日本にも来た。中国はどんどん変化を遂げた。時代はどんどん流れた。

 父が講演の後の質疑応答の中でさり気なく言った言葉に、私は重みを感じる。
「あらゆる良い文学、良い作品というのは、開放性がある。読む人がそれぞれ様々な解釈ができる、その余地を許し残している。それこそが良いものだと思う」

 素晴らしい作品・素晴らしい物事に、歪曲した一つの解釈しか許さなかった文革の時期に生きたからこそ、身に沁みて切実に感じることなのだと察する。


 でももちろん、あらゆる“革命”がそうであるように、中国で共産党が勃興しはじめた頃の若き革命家たちは、理想に燃えていた。情熱と良心を持った知識ある若者たちが、母国を変えよう、社会をより良くしようと、命を賭していた。
 1900年代前半、私の母方の祖父もそんな若者の一人だったらしい。医学を学びに大学に入ったが、これでは国は良くならないと思い、大学を中退して共産党に入った。そして“知識分子”“革命分子”として、変革を推し進めた。

 でもその数十年後には、かくも理想に燃えていた中国共産党は、文革という血迷ったことをしてしまう。“知識分子”にして“革命分子”だった元幹部や知識人達は弾圧の対象となり、私の祖父も例外ではなかった。強制労働に行かされ、何年も帰って来られなかった。
そうして色々な現実に目の当たりにしながら、文革が、共産党が掲げていた理想とその言葉に、人々は幻滅していったのではないか。

 幾年も過ぎ、父が母と結婚し、祖父が病気になって入院していた時、父が祖父のお見舞いに行った。その時、父は祖父に、今の中国共産党をどう思うか聞いたことがあるらしい。祖父はその堕落ぶりを本当に嘆いていたと言う。人の世は本当にわからないし、理想を受け継ぐというのは、その単位が大きければ大きいほど、本当に難しいことなのだと痛感せざるを得ない。

 父は多くを語らないし、祖父はだいぶ前に亡くなってしまったが、彼らの話を聞くと、彼らは時代に翻弄されながら、その只中を懸命に生き抜いてきたのだと感じる。だからこそ、例えば一つの文学作品、一つの物事に対しても、考え感じるもの、そしてその言動に、その人自身の一本筋の通った哲学があるのではないか。そしてそれは、彼らが実際に生きてきた道筋から、形作られたものなのだと感じる。
何が「良い」のかは本当にわからないし、私はその答えを一つに定めることに、いつも躊躇いを覚えながら日々を過ごしている。でも懸命に生きてきた人にとっては、その「良い」というものは、身を持って体得した自明のものがあるように感じる。でもそれをただ他人に押し付けることは決してなく、寛容でもある。

 彼らが生きた時代は、ある意味わかりやすい“革命”の時代だった。国とか、それくらい大きな単位で“革命”を起こすしかなかった。でも今は?今は違う。インターネットや色々なテクノロジーがどんどん発達し、多様な生き方が可能になり、そしてそれは許され賞賛される。それに伴い、だからこそ“革命”の形も大小様々で、ある意味わかりにくい。祖父や父の世代のように、ある意味でくっきりとした鮮明な生き方が、何だか見えづらいかもしれない。私も度々迷う。彼らの生き様を束の間でも目の当たりにすると、自問せざるを得ない。
でも少なくとも、良く生きたい。それは、情熱と良識、そして良心ある寛容な人間でありたい、ということだと思う。


 新緑の季節の中、時間がゆったり流れると、何も考えていないような、でも、深くではないけれど、何かにふと気づいたり何となく考えたりするような、そんな感覚に陥る。私にとって上海で過ごす刻は、そういうちょっと不思議な、少し浮世離れしたような時間だ。
そんな中で、せっかく自分には“革命分子”の血が流れているらしいのだから、まずは今関わらせて頂けている仕事を通じて、そして文章や言葉に対する自分の関心を通じて、今の時代の新たな“革命”の形を探求しよう、と改めて思いました。
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対外的ブランディングとしての食べ物

2013-08-04 16:46:06 | 日記
 私は、食べ物にはあまりこだわりがない。出かける時に何を食べるかについては、周りの人にいくらでも合わせることができるし、1人で食べる時はいつも適当に済ませてしまう。
 だから、逆に食べ物に対してこだわりがある人はすごいなと思う。美味しいお店をたくさん知っている人、用途に合った的確なお店をすぐにリストアップできる人、健康的な食材に気をつけている人、等々、皆この現代社会を生き抜く上で非常に役立つ能力を磨いていらっしゃって、私にはあまりできそうにない。
 しかし今、食べ物は、それ自体だけで正当に評価されることがだんだん少なくなってきているのではないかと感じる。例えば多くの場合、食べ物はそれらが出されるレストランの一部と見なされる。女性に人気のあるレストランは、もちろん出される料理も美味しいのだろうが、その評価軸は料理の美味しさだけではない。お店の雰囲気、店員の態度、ロケーション、そして、世間の評価、等々。料理の美味しさや食材の高級さは、数ある評価軸の内の一つとしかならないことが多いのではないか。そうして多様な軸が掛け合わさって、「お料理も雰囲気もオシャレなレストラン」「ヘルシーな食材でお腹いっぱい食べても平気!」などのブランディングがなされてゆく。
さらにそのようなブランディングは、「こんなオシャレなお店で食事をしているステイタスある私」「健康に気をつけながらも楽しむことも忘れていない素敵女子な私」というように、個人にも適用されるようになった。人々の自意識を満たし、対外的ブランディングの一つとして、食べ物が含まれるようになったのだ。
 しかし思えば、人間にとって食べ物は、単に生きるために必要な栄養を取るためのものだけではなく、食事という形にして、家族や友人、恋人などと一緒に楽しむものとしても存在し続けてきた。自分を中心に対外的な輪を広げていく手段の一つに、常に食事は重要な役割を果たしてきたのであって、そう考えると、食べ物が対外的ブランディングの一つに利用されるのも、自然なことなのかもしれない。
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故郷、という旅の目的地

2013-08-04 15:05:45 | 日記
いろんな理由で、私たちは旅に出る。夏休みだから、失恋した、リフレッシュしたいな、などと考え、思い立って旅の計画を立てたり、または計画も立てずにふらりと出かけたりする。また、その形も様々である。一人旅、友達や恋人との旅行、家族旅行、はたまた仕事での出張、などなど。
旅、と言うと、私たちは遠くへ行こうとする。普段はなかなか行けないところ、普段はなかなか触れることのできない何かに触れられるところ、普段はなかなか出会えない何かに出会えるところ。つまり私たちは、何か異文化なものを求めて、旅に出る。地理的に、そして心理的に、どこか遠くに行ってしまいたくて、私たちは旅に出る。そういう意味では、旅、すなわち非日常、とも言える。
 しかし、初めて訪れる遠い場所ばかりが、非日常的な場所とは限らない。小さい頃から私にとっては、故郷である上海が、どこよりも非日常的な場所と感じられるのだ。
 6歳の時に来日してから、上海にはほぼ毎年帰っている。夏休みになるとすぐに両親と上海に帰り、夏休みのほとんどをそこで過ごしたものだ。社会人になってからも、仕事で長期滞在したり、年末年始には帰省したりと、折を見つけては上海に帰っている。だから、上海のあの喧騒、たまに垣間見える上海人のおおらかさ、おおらかさ故の適当さなどには、すぐに馴染んでしまう。
 それでも、上海に生まれながらも人生の多くを日本で過ごしてきた私にとっては、毎回上海に帰ると感じる様々な違和感がある。日本で生きている社会とは違っている感じ、上海の人々と自分が抱いている価値観の違い、そしてそこから感じるいろんなもやもや。そのような小さな違和感の集積が、故郷である上海を、私にとって特別な異文化の地に仕立て上げてしまう。そこで、私は普段の自分を内省し、物思いに耽ける。故郷である上海は、私にとってアイデンティティの地であると同時に、内省の旅の目的地でもある。
 たまに切なくもなるが、こういう故郷のあり方も味わい深いのかもしれない。皆さんにとっての故郷は、どのような地なんだろう?
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大きな歴史に生きながらも、自分で自分の人生を決定するという切実さ

2013-03-25 22:51:32 | 日記
この週末に、ちょっと中国に帰る用事があったので、一時帰国してきた。
今朝の飛行機で日本に帰ってきたのだが、旅立つ前夜の会話の中で、とてもハッとさせられたものがあった。
自分にとって、これからの選択と日々へのけじめのような意味もあって、文章にしておきたいので書く。

会話は、母親と、両親と同じ大学で教えているある先生とのもの。
父親は、今日の授業の予習がまだ終らない、と仕事をしていたので、3人で話していた。(というか、私は主に聞いていただけだが)
話の流れで、父の昔の話になった。

私の父親は、日本文学、特に近代文学が専門の学者で、今は上海の大学で教えている。
なので当然、大学から日本語学科で、上海の大学を卒業後、母校の大学でそのまま日本語を数年間教えた後、
早稲田に留学し、日本文学を研究し続けた。そして、そのまま学者の道を歩んできた。

でも、父は大学受験の1ヶ月前まで、ずっと理系だった。

私が言うのもなんなのだが、父は話を聞けば聞くほど、とにかく秀才らしい。
安徽省の合肥に生まれ育ち、高校卒業まで、勉強で一番にならなかったことは一度もなかった。
特に理系と英語が得意だったらしく、高校時代は、他のクラスメイトと同じ授業を受けるのが不可能なくらいだったらしい。(どういうこっちゃ!?という感じだが・・)
学校の先生に出張などが入ると、先生は代わりに父に授業を託したとのこと。
そんなわけだから、父はずっと理系の道を志していたし、
学校の先生は「お前は絶対に北京大学か清華大学に入れる」と父に言っていた。

しかし、私の両親が子どもの頃は、文化大革命真っ只中だった。
私の母方の祖父も、その影響で労働所のような所で長い間働かされていたし、
母親も、上海から農村に疎開のようなことをさせられたことがある。
そして、父親が高校を卒業する頃は大学受験はまだ再開されておらず、
父もまた、政府から農村での労働を数年間命じられた。

そうして、父は高校卒業後、3年間ほど農村で働いた。
でも、将来は絶対に農村を出たかった。
だから夜は必ず、持ち込み禁止の英語のラジオをこっそり聴いていたらしい。
それを見て、周りの人たちは「お前は絶対農村に長くはおれんな~!」と笑った。

そして文化大革命は終了し、数年ぶりに大学受験が再開されることになった。
父ももちろん大学を目指し、合肥に帰って勉強した。

数年ぶりに再開する大学受験だったので、その間に受験できなかった学生たちは、
皆その年の受験を目指した。
彼らは皆高校に集まって、再び補講のようなものを受けていたらしく、父もその一人だった。
そのような環境で勉強しながら、父親はだんだん怖くなってきた。
何しろ、何年間も受験できなかったものすごい数の学生たちが、
当時は中国国内の上位3%しか行けなかった大学を、皆して争っているのだ。
しかも、父が目指していたのは中国トップの北京大学。
父は何がなんでも都市部に行って、自分の未来を切り開きたかった。
だからこそ、「もしも失敗したらどうしよう・・」と怖くなってしまったらしい。

それまでは自信があった父だったが、確実に勝てる道を選ぼうと考えた。
そこで、受験1ヶ月前に北京大学の理系の志望を取り下げ、
上海の復旦大学の外国語学部に志望を変更した。
英語なら、絶対に誰にも負けない自信があったからだ。
しかし当時、復旦大学が安徽省から学生を募集していたのは日本語学科のみで、人数も2人だけ。
できれば英語学科がよかったけど、そうも言っていられない、
とにかく英語で試験が受けられるし、合格すれば大都会の上海に行ける。日本語もそんなに悪くないだろう。
絶対にこれなら勝てるから、これに賭けよう、と1ヶ月間、得意の英語をさらに猛勉強した。
先生たちは「なんで!?絶対に北京大学に受かるのに!」と驚き怒ったらしいが、
父はとにかく聞かずに、勉強し続けた。

そして、安徽省1位の成績で復旦大学の日本語学科に進学し、今に至る、というわけらしい。


母はこの話を聞いた時、「もう1年待てばよかったじゃない。そうすれば、絶対に北京大学の理系にも合格したでしょう?」と言ったらしい。
すると、父はこう答えた。

「あの大学受験まで、僕は人の命令に従って生きるしかなかった。
でもあの大学受験は、僕が人生で初めて、自分で自分の人生を決定できるチャンスだったんだ。
だから絶対ものにしたかった。だから、絶対に勝てる道を選んだんだ」

母は納得もしたが、もしも父があの時理系に進んでいたら、
絶対に優秀な科学者になっていただろうと思う、だから少しもったいなかったかもしれないわね、と言った。

そこで、その話を聞いていた先生は、母親に「運命論を信じるか?」と聞いた。
そしてこう言った。

「それは、もったいないこと、とかではない。それは歴史なんだ。僕達は歴史に生きている。
あの時、僕たちは文化大革命という歴史に生きていたし、今も何かの歴史に生きている。
歴史は僕達の力だけではどうにもできないことも多い。
彼が日本語と日本文学の道を選び、理系の道に進まなかったのは、自分ではコントロールできない運命だったのかもしれない」


私は父親が発したという言葉とその先生の言葉、両方に心を打たれた。


今は、色々と問題も山積みでいわゆる閉塞感が漂うと言われる世の中かもしれないが、
文化大革命や戦争のように、人によって人の運命が翻弄される歴史的事件が全国的に起きているわけでもない。
(が、原発の問題などはそうかもしれないし、世界に目を向ければ、そのようなことはたくさん起きている・・)
とはいえ、両親やそれより上くらいの世代からは「たくさんのチャンスに恵まれている」と言われながらも、
それを実感しきれなかったり、却って選択肢が多すぎたりして戸惑いもする。
だから、そうやって言う大人とは価値観が合わないなぁ、と思う若者も多いかもしれない。
そして、もしかしたら今の世の中では、色んなサクセス・ストーリーなどで言われすぎてしまった
「自分で自分の人生を決定するチャンスをつかむ」というフレーズは、
もはや陳腐にしか聞こえなくなることも多いように感じるかもしれない。

でも私は、
自分の力だけではコントロールできない大きな歴史に生きながら、
自分の人生を自分で決定する強い意思を持ち、自らチャンスを掴んで生きる、
という、ある種本で読むようような話を、かくも本当に生き、実践してきた大人がこんなにも身近に、というか家族にいることに、
なんだかハッとさせられてしまった。

あまり上手く言葉にできないが、そうなんだよなぁ、と・・
もちろん、日々接している方々の多くがそうなのだが・・

それは、文化大革命や、数年ぶりに再開した大学受験など、
時代、まさしく歴史に翻弄され得ることだからこそ、
「人生で初めて、自分で自分の人生を決定する」ということが切実に浮き彫りにされるのだろう。

でも、自由で何でも選択できるであろう今という時代とバックグラウンドに生まれた私だって、
いや、もしかしたらそうだからこそ、
当然ながら、今この瞬間も、日々のどんな瞬間だって、そのチャンスと切実さの中に生きているのではないか。
生きている歴史や時代は違えど、その切実さは真実なのではないか?

今では西田敏行似で、穏やかに見える父も、
生々しく生きてきたんだよなぁ。
いや、切実に生々しく生きてきたからこそ、今穏やかに見えるのかもしれない。
でも、普段は穏やかに見えても、仕事などでは吠える瞬間もあるのかな・・というのが気になるので、
しばらく父親に弟子入りしてみようかと思う。
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超越

2012-12-09 13:05:37 | 日記
ものっすっごく久しぶりのブログだけど、この週末はもう色々やばすぎて書くしかないから、たぶん支離滅裂で超つれづれになると思うけど、書きます。


FAME当時のmixiアカウントを削除したことを本気で後悔しています笑 
勢いで当時のみんなの日記読んだら、もう完全にノックアウトされた涙 
みんなの日記への自分のコメントも、「あー自分こんなこと書いてたんだ」って思うし、ぐっと来たりもして。
人が語る言葉の力って、本当にすごいなぁ・・過去に自分や人が書いた文章を読んで、こんなにもやられることがあるのか、と人が文章で記録していく気持ちが、身に沁みてよくわかった気がします。
だから、自分が当時書いてた文章を見れなくなっちゃったのは、本当に悔しい。こんなの初めてだ。だから、今書く。
もうツイッター140字とかじゃ絶対無理だからブログに書きます!さっきまで色んな人に色んな形でぶちまけてたことも全部ここにまとめます!笑

みんなの当時の日記を読んだり、昨日の帰り道にみんなが言っていたこと、同窓会の途中に話していたこと、その後のメールとかネット上とかのやり取り、昨夜からの勢いで読み返してしまったみんなからの寄せ書きで、
当時自分が考えたり書いてたりしていたことを、久しぶりにまた思い出したりもしました。
それはものすごく尊いものなので、もう忘れたくないから、メモ

このプロジェクトを始めたことを、後悔も反省もしないって言ったこと(多分mixiの日記にも書いた気がする・・)
本番前に、スタッフからキャストに手紙を書いたこと
11/23か24あたりに、1日ダンスだけ練習する日があって、その後に飲み会をやって、それがものすごくよかったこと
終わった後の打ち上げの、長ーーーーーーーい乾杯。そして全部終わってmixiの日記を書いた時、「打ち上げでの長い乾杯が最高だった」と自分が書いたこと
当時の自分やみんなの感情、パッション、愛
不毛の中にも毛はある
毎日のメーリス、練習後の集まり
色々無謀なプロジェクトだったっていうこと。でもそれをみんなでやり遂げて、やり遂げた後、みんな心の底から深い満足感と達成感、愛、超越、本当に色んなものを感じていたこと
「総じて」と自分がよく言っていたこと

忘れちゃってることもいっぱいある。人は忘れる生き物だからしょうがない。
でも、忘れたくないって思うことはいっぱいあるから

昨日、サイゼの帰り道にみんなが話していたことから、今日に至るこのFAME壮絶大振り返り祭りが始まっています!笑

ディランが「FAMEをやっていなかったら、早稲田を好きになっていなかったと思う」って言ったこと
あべくんが「僕の人生、FAME前・FAME後なんですよ。会社で『ミュージカルやってたんですよ』って話して、『セリフひとつしかなかったんですけど』って言って、何だったのって聞かれて、『唇だよこのバカっ!です』って話したりします」って言ったこと

あー、ディランは5年前も同じことを言ってたな、って覚えてるし、
あべくんは今も会社の人にもミュージカルの話するんかいっ!!涙涙って思ったし、
もう色々感慨深すぎて、帰り道家まで歩きながら一人で号泣しちゃって、そしてその号泣は今まで続いています笑

みなみやこのみんやっかいだったんだよな~笑と改めて思い出したり笑、
づめおってなんだかんだいって愛に溢れてるんだよなーーーーーーって改めて思い出したり涙、
もう色々やばい
一気にみんなへの愛と愛おしさがFAME当時に再燃していてやばい!!

思えば5年間も会ってなかったのかと思うと、びっくりするな。もっと会ってる感じだった。Facebookやツイッターで写真とか見れるからかな。
なんだかエネルギー値が高くて、全然久しぶりな感じもあんまりしなくて
5年経ってもつながれてるって本当にすごいな。やっぱり、何かを一緒に創り上げてそれを一緒にやり遂げた仲間のあいだには、愛が溢れてるんだ。

みんなけっこう過去の日記を読み返したりして、文章が若くて恥ずかしいと思ったり、感慨にふけったりしているのもやり取りしてて、
でも全然恥ずかしいって思うことないよ!!って思った。だって本当に尊いから!!
5年も経てばみんなそれぞれ色んな苦楽を経験して、大人になって、だからこそ今振り返ると「若いな」って思うこともいっぱいあるんだよね。私もです笑
でも、あの時の想いやエネルギーや愛や輝きなどなど・・全てがとっても尊いと思う。だから恥ずかしがらずに、まるごとそのまま抱きしめてしまえ!!と思う

思えば、私もきちんとFAMEのことを振り返るのは久しぶりです。
今まで人生悶々してきたり色々考えたりしてきたけど(もちろん今も・・)、けっこう大学3年の時にやった無国籍キャンプの方に注目してたことが多い。
あれが大学時代の私の本当に集大成だと思ってたし、今も思ってる
だから、いかに無国籍キャンプを昇華させる形があるか、というのを主に模索してきたと思う

でも、昨日から改めて、その無国籍キャンプの原点はFAMEじゃん、と改めて気づいた。
自分のあり方も、FAMEが原点だ
昨日、れいこママやあべくんが言ってくれたようなFAMEの時の自分では、今の自分はもうなくなってしまったのかな、とも思って、それもまた泣けた
でも、自分でそう思っちゃう理由や原因も、自分でももうだいたいわかってるんだ。
だってやっぱりFAMEは、自分発のものだったから。自分で感じた問題意識から、形作っていったものだったから。そして、一緒に創り上げていったみんなを本当に本当に大好きだったから。
FAMEには、みんなの愛が溢れていたから。黒字に金色の文字で背中に「超越」って行書体で書いたTシャツを、みんなで着ちゃう感じだから。

今の自分と当時の自分の違いは、もうだいたいわかってます。
だから、周りの人や世間の「正しさ」にはもう流されずに、自分が、自分にとって正しいと信じる道に進むしかないんだ。
このタイミングでFAME同窓会があって、それがきっかけで色々振り返れたのは、もう神様の思し召しだと思っています。destinyや!!本当におかげ様で、覚悟と踏ん切りが付いた気がする。本当に、本当にありがとうございました。


でもね、それはこの5年間の間にあったことや変わったことを否定するものではないし、今の自分を否定したりダメだと思うことでもないと思うんだ。(もちろん100%はまだまだ難しいけど・・)
この3年間くらい、私は自分が本当に行きたい方向性の周辺ばかりをつついてきた気が自分でしていて、
FAME当時の自分からは想像できなかったような挫折をしたり、色々苦しんだり悩んだりして、あまり元気がなくて不安定な時期もあったし、社会人になる前に自分で思い描いていたような、そして周りの人も想い描いていたであろう自分には、到底なれていない
でも、これは結果論だけど、そういう紆余曲折がなかったら、自分は今よりもっと浅はかな人間になっていたのでは、と思う
今も全っ然人間的深みはないし未熟極まりないけど、FAME当時の自分よりは、そして順風満帆な社会人生活を送っていたであろう自分よりは、少しは深くなったんではないか、と思う。本当に少しだけど
これらはあくまでも結果論だし、一見順風満帆に行っているように見える人たちも、実は見えないところで人それぞれの痛みを抱えていたり、計り知れない努力をしているはずだ。だから、どっちがいいとか悪いとかの話ではない
でも、この5年間で、当時の自分にはない何かを知ったり学んだり経験したり、考えたり悩んだりしたと思う。
それらによって、当時のエネルギーや勢い、情熱がなくなってしまったようにも思えて、それはとてもとても怖いことだ
でも、徳ちゃんが言ってくれたように、現れる形や頻度は違えど、心の奥底にあるパッションの源は同じように持っていて、決して何かを失っているわけではないということ
わかちゃんが1年ちょっと前に言ってくれたように、今はエネルギーがない、なくなってしまったと思っても、そういう生命力は失われてしまったのだというわけではないんだということ
本当にあり続けたい自分とはどんな自分なのか
自分に起きた出来事や自分が考えたこと、自分が選択したこと、全部を内省して、本当にあり続けたい自分、好きな自分、FAME当時の自分を、この5年間の経験や蓄積とmixtureして、これからまた自分が自分にとって正しいと信じた道を進む。これが、今の自分に出来る一つの超越なんじゃないか

今のありのままの自分を自分で受け容れてあげること
自分で自分を許してあげること

周りの人や世間、そして時にそれらに過度に影響を受けたり比べてしまったり振り回されてしまう自分に流されないこと
100%できることはまだまだ難しいし、それは一生できないのかもしれないけど、前よりは少しはできるようになったかな
それもまた、ひとつの超越だ

昨日は隈前に行って、最後は円陣組んで、「超越ーーーーーー!!」ってみんなで叫んだな
「超越」我ながらいいこと言ったやん
もっと超越してかなきゃ
今まで自分が言ってきた言葉って、結局ずーっと自分の奥底で大切にしてきたことなんだよね。だって自分から生まれてるものなんだからさ
もっと意識して、大事にしていこう
大小様々な超越が、また明日から始まる日常にはいっぱいあるはずだし、日々自分が起こしているはずなんだ


そしてfamers!!昨日をきっかけに、私はもうみんなへの愛が再燃してしまったよ~~!!
みんなに会いたい病がFAME終了後みたいに再燃しております笑
なので、本当にまたわりとすぐ会おうね!!笑 うちにも遊びに来てね~~本当に~~!!

今までずっとパジャマにしてきたFAME Tシャツ、もっと大事にして着よっと。(大事だからこそパジャマにしてるんだけどね!!WIFもNo Borderも、大事なTシャツは全部パジャマにしてるんです!!笑)
あー金色の文字の鮮やかさを取り戻したい・・もう一度作りたい・・!!


そしてやっぱり、何よりも愛が一番大事だと思った!!愛の上に全てが成り立つんだよね、超越も!
love u guys always
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