いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

楠(タブノキ)物語14、康熙帝、楠をあきらめる

2017年04月29日 12時15分56秒 | 楠(タブノキ)物語
太平洋戦争の時期におけるマラリア死亡率の壮絶さを見ると、
明代の四川の原生林に分け入った人夫たちが十万人も犠牲になったという数字も
あながち荒唐無稽だとはいえないのである。

楠木の伐採に徴用された成人男子を見送る家族が
「子婦啼哭(女子供が泣いてすがった)」のも、
生きて返ってくる確率があまりにも低いことを土地の人々がよく知っていたためだ。

現地の民謡に「入山一千、出山五百」と謡ったという。
まさに人間の欲望のための壮絶な犠牲に肝も冷える思いがする。
  

このように楠木伐採は、明代ですでにここまで困難になっていた。
切り出しにおけるマラリア感染も然ることながら、
今度は山奥からの運び出しにも莫大な経費と歳月がかかる。

巨木の運搬には舗装された道路がなければ、
丸木の上を転がしつつ移動させていくことができない。

このため山岳地帯での道路建設がまず行われ、
道路が完成してから初めて巨木を降ろすことができるのである。

さらに長江をくだり、大運河から北上、北京に到着するには六年の歳月を要したという。

その費用は莫大なものとなり、天安門城楼の楠の柱は運賃だけで黄金九十万両かかったといわれる。
 

康煕年間、官僚を南に派遣し、楠木の伐採を行ったことがあったが、
前述の如きあまりに困難な作業、民の犠牲が伴ったために
康熙帝はついにこれをあきらめたという経緯がある。

このために康煕年間に建てられた宮殿は満洲黄松で代用し、
外だけ楠木でくるんで面目を保った。
 
康煕年間はまだ建国まもなく、
異民族である満州族統治者が中原の民を疲弊させるのは、危険だったこともあるだろう。

内輪のいじめとよそ者によるいじめは、本質的に違うのだ。



古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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