いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

和[王申]少年物語36、和[王申]を婿に

2017年01月02日 10時25分57秒 | 和珅少年物語
満州女性の風習に話がそれたが、話を本題の和珅に戻す。
 
満州族を中心とする八旗社会のエリート校、咸安宮官学で勉学に励む和珅、和琳兄弟であったが、
これをひそかに見守っている人物がいた。
 
内務府大臣の英廉(えいれん)である。
これまで見てきたように咸安宮官学は、後にこそ満州族子弟のためのエリート校として発展したが、
発足当初は内務府「包衣」子弟しか対象としなかった。

「包衣」、満州語の「ボーイアハ」、家の奴僕を指す。
多くは遠い昔、満州族が北京入りする前、満州の地で漢人の戦争捕虜や普通の農民を奴隷にした者たちである。

彼らはそのまま代々仕え、「内務府包衣」は、その中でも皇帝一家に仕える人々をいう。
英廉自身も包衣出身であり、先祖は漢人、その末裔に当たる。

皇帝一家の生活こもごも、暮らし向きに関するあらゆる雑用をこなす機関「内務府」は、
この代々の「内輪の人間」である包衣を中心に運営されていた。

内務府大臣は、必ず包衣出身者しかならないというわけでもない。
皇族、皇子(乾隆帝の息子も内務府大臣を務めている)、寵臣(のちに和珅も内務府大臣になる)などが務めることもあるが、
無難な人材がいないときには、とりあえず包衣の中から選ぶことが多く、英廉はそんな事情で内務府大臣を務めていた。

しかして咸安宮官学は、最初包衣子弟のための学校とした発足されたという経緯のために、
最初から内務府の管轄下に入っていた。

その後、満州族や八旗全体に開放されてもその管轄はそのまま内務府に属したままだったのである。

内務府大臣として、英廉は咸安宮官学によく顔を出した。
場所も近かったのである。

内務府の役所は、紫禁城の西華門の辺りに集中しており、咸安宮官学もその界隈にある。
公務の合間に、視察と銘打ってはちょくちょくとのぞきに行った。    

総責任者である大臣が、末端の一機関でしかない学校にわざわざ熱心に視察を重ねる必要はどこにもなかったのだが、
これには下心があった。

--適齢期にある孫娘、馮月謡(ふうげつよう)のために婿がねを物色することだった。

当時の適齢期は十五歳から十七歳前後を言い、
咸安宮官学の学生は十一歳から二十歳過ぎの青年らを中心としていたからちょうどおあつらえ向きだったのである。

野史(民間の伝説)によると、英廉は早くに息子夫婦をなくし、孫娘が唯一の落とし胤だったという。
つまりは、この孫娘に婿をもらい、家を盛り立てて行ってもらわないと、家系が途絶えるということである。

このためこの婿がね選びには、とりわけ気合いが入っていた。
咸安宮官学は八旗社会一番の名門校であり、人材としては申し分ない。

あまたいる学生の中でも、英廉が熱い視線を注いでいたのが、和珅だったらしい。





北京動物園の中にある清の農事試験場跡。


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