いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

楠(タブノキ)物語10、乾隆帝『神木謡碑』の行方

2017年04月19日 09時21分26秒 | 楠(タブノキ)物語
ところで神木とセットになっていた乾隆帝の『神木謡碑』は、どうなったか。

新中国成立時には、ほとんど地下に埋もれていたが、
掘り出され、工場の敷地内に置かれていたことは、前述のとおりである。

神木の本体が朽ち果てるのを見かねてテーブルに加工された後も、石碑はそのまま安置されていた。
 

そのうちに文革が始まる。
文物への批判が日々高まるのを感じ、当時工場の党委員会書記だった宋治安氏は、
工場の社員食堂の白菜倉庫の中に石碑を運び入れ、埋めて保護した。


八十年代以前の華北以北では、冬の野菜保存には地下倉庫の利用が一般的だった。
 
東北出身の三十歳以上の人に聞けば、住まいが庭付きの一軒家でなくてもアパートであっても、
アパートの横の敷地に各家庭に地下野菜倉庫のための土地が割り当てられたという。

冬の食事は、ひたすら白菜、大根、にんじん、じゃがいもなどの長期保存が可能な野菜を食べるからである。
冬の始めに支給を受けてから、一冬かけて食べる。

地下倉庫の造りはごく原始的、地面を掘り、
中を杭などで支え、落盤しないようにした四平方メートルから十平方メートル程度の空間である。

高さは人が立って活動できる程度、つまりは二メートル程度、
地表からの深さは、凍結しないように半メートル程度である。

入り口からはしごで真下に直角に出入りする。

計画経済の時代は大人たちが夫婦それぞれの職場から数十キロから百キロを越える白菜を支給されるだけでなく、
小学生の分は子供自身が小学校で支給を受ける。

それらをすべて地下の野菜貯蔵倉庫に入れ、一冬かけて食べたのだという。

つまり地下倉庫の壁、天井、床に至るまで土の地がそのまま露出している状態である。
雨の少ない華北ならではだ。
 

工場の社員食堂用の地下倉庫であれば、家庭用に比べ、かなり大規模なものであったろう。
足元は地面が露出しているため、神木謡碑を埋めることは簡単だったはずである。
 
その後、革命派がピアノ工場に石碑を求めて突入してきた。
石碑をどこへやった、と工場中に聞きまわったが、誰一人としてありかを教えた人はいなかった。

――神木と石碑は、工場の宝だから。
と、当時を振り返って人々はいう。

工場の創立当時からともに歩んできた神木と石碑に人々は愛着を感じていた。
 
石碑が再び日の目を見たのは一九八五年になってからである。
星海ピアノ工場と名前を改めていた工場では、新たな設備投資のために作業場を立て替えることになり、
基礎工事のために石碑も掘り起こされた。

二千年には、石碑の保護のため、工場では三万元をかけて碑亭を建てるとともに、
ガラスで覆い、保護した。





古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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