たわし日記

スポーツ関係、演劇関係、読書の感想、マンガのことなど。

「どちらかが彼女を殺した」

2011年11月27日 09時24分06秒 | 読書ノート
 東野圭吾氏の作品である。あらすじに関しては、こちらの「冬のある日に…」の記事を参照してもらいたい。
 この作品は、最後まで犯人は明らかにされない。「どちらかが彼女を殺した」というタイトルであるので、犯人はAかBなのだと思う。利き手がポイントになるようだが、なんとなくこっちかな?という程度にしかわからない。文庫本には、西上心太氏の袋とじ解説が掲載されている。私はミステリ通のプライドを捨ててビリビリと袋とじを破いた。読んでみるが、やっぱりはっきりしない。いや、はっきりしているのだろうが、私にはいまひとつ理解しきれない感じだ。2次関数の解の公式の形が分かっても、なぜそうなるのかがわからない感じと似ている。
 東野圭吾氏の作品は、純粋なロジックのみ考えていると面白みが半減する。しかし、彼の作品にはそうではない面白さがギュッとつまっている。若かりし頃の私は、本格派がとにかく好きだった。しかし、本格派ミステリと呼ばれるものは、量を読んでいくと飽きる。目に見えるトリックを文章であらわすとなると限界があるからだろう。さて、東野作品は、暴かれるのは目に見えるトリックではない。トリックは登場人物の心の内にある。それが非常に面白い。
 「どちらかが彼女を殺した」では、被害者の兄の視点で描かれているので、私は兄の気持ちになり、AかBが犯人に違いない、と思って読み進めていく。しかし、私は何度ももしかして自殺なんじゃないかと心が動く。いや、もしかしてCの存在もあったりして?という心の動揺もでてくる。それは、AやBがシラを切っているからではない。AもBも肝心なところでは真実を語っている。本当に犯人に見えなくなるのだ。そこが東野作品の心理トリックである。人の心は複雑で、100人いたら100以上の心理トリックが存在してもおかしくない。そこに私たちも巻き込まれ、「してやられてしまう」のである。
 犯人当てには利き手がポイントと前述したが、それ以外の条件は犯人はAでもBでもおかしくない。でも私は、この利き手がなぜそれほど重要なのかがよくわかっていない。だからどちらが犯人であるといわれても、ピンとこない。ただ、犯人当ての面白さでなく、そこに至るまでの心理トリックの面白さや、そこに振り回される自分の心の動きを堪能することができる作品である。
 もうひとつ、登場する刑事、加賀恭一郎は、ちょっと私好み。こういう、一部の人にとってはいやらしいほどにしつこい要素は、名探偵(名刑事)には必要な要素である。

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どうしようもないけれど。

2011年11月27日 08時28分30秒 | どうということもない話
 先日、職場の健康診断があった。で、この半年で5キロ体重が増えていることが判明した。驚きである。職場の仲間にこれを告白したら、5キロ増の事実よりも、この半年、体重計に乗ることがなかった私の体重管理の甘さに驚かれた。ちなみに私の今年の目標は「心も身体もひきしめる」である。この目標は、職場のごく一部の仲間にも告知してある。そんなわけで、私の今年の目標は達成できないことはほぼ間違いなく、私の言葉の信頼性はモグラのように地に沈み、私の言葉の重みは真綿のように軽いということが証明された。そして反比例するように、私の身体の重みは増すのである。
 基本的に怠け者の私なので、ダイエットのための具体策は挙げたくない。誰か睡眠ダイエットみたいなものをかいはつしてくれないものか。
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「神様のカルテ」感想文 その2

2011年11月20日 04時04分05秒 | 読書ノート
 続きである。
 主人公の職業柄、死という場面が物語の中にでてくる。
 主人公の青年医師・一止(イチト)は、地方病院に勤務しており、超多忙な日々を過ごしている。そんな中イチトはがん末期の患者、安曇さんと出会う。安曇さんは、看護師からも「癒しの安曇さん」と呼ばれているくらい、穏やかで礼儀正しい。彼女(安曇さんは72歳の女性)は、早くに夫とも死別していて子供もいない。大学病院で、余命半年と言われ、イチトのいる地方病院に来る。
 安曇さんは自らの死に立ち向かう中で、「山をもう一度見たい」「文明堂のカステラを食べたい」と、ささやかな望みを口にする。そこで、イチトをはじめとした病棟のスタッフが、その望みをかなえるべく動く。といっても、そうたいしたことではない。安曇さんの誕生日に、病院の屋上に行き遠くの山なみを見てもらう、「文明堂」のカステラを買ってくる、くらいなものだ。しかし安曇さんはお礼を言いながら涙する。
 安曇さんは最期に自分の望みがかなったことに対して喜んだわけではない。それは彼女が亡くなった後に見つかった食べかけのカステラ(すでに食事が摂れない身体状況であった)とイチトあての手紙からよくわかる。彼女は、自分のために行動を起こしてくれる人たちの心に触れ、感動したのである。私はこの食べかけのカステラの存在を知り、安曇さんの心に私の心も共鳴した。
 せっかくの心づくしであるカステラを食べきれなかった彼女の心の内はどうだったのか?―――せっかくのカステラを食べきれなくて申し訳ない想い。でも、どうしようもなくあふれ出てくる感謝の心をどうしたら表せるだろう?―――
 残ったカステラをみたイチトの心の内はどうだったのか?―――こんな程度の量のカステラを食べきることもできなかった安曇さん。それなのに、ものすごくうれしそうに受け取ってくれた。最後の最後まで、気を遣わせてしまったのかもしれない。そして最後の最後まで、お礼を言うことができなかった―――
 文章にならない二人の気持ちを、ひとがひとを思いやる姿を、残されたカステラに私は見つけたのだ。
 
 「クオリティ・オブ・ライフ」という言葉がある。誰もが今よりも質の高い生活を望む権利がある。ただ、この「質」というのが人によって違う。お金や肩書などの物質的なものを求める人もいるし、時間のゆとりという人もいる。仕事のスキルが自らの生活の質を高めるという人もいるだろう。しかし、何を求めている人であっても、そこに人との関係を無視して「クオリティ・オブ・ライフ」を語ることはできない。何のためにお金がほしいのか?家族や大切な人のためではないのか?肩書や仕事のスキルは、人から尊敬されたいためであり、誰かの役に立ちたいと思うからだろう。時間のゆとりは?誰かと大切な時間を共有したいから(あるいは誰かのために使いたい時間があるから)ではないか?人は誰かと共有する思いがあるからこそ、生きる意味がある。そして、一人で生きていても生活の質は何も変わらないということを、「神様のカルテ」は教えてくる。

 上手くは言えないが、私たちは死に向かって生きている。この言い方があまりいい表現とは言えないが、私は今、これ以上の言い方ができない。ただ、もう少しポジティブな言い方ができるとすれば、死を意識して初めて「生きる」ことを知るということか。40を過ぎ、私が感じるようになった感覚だ。自分ではない誰かのために生きる、頑張る。それが結局は自分のために生きるということである。「このひとのために生きてきてよかった」と思うことそのものが、私が生きている価値なのである。 
 この感想文で、なんとなく重い話になってしまいそうであるが、それは私の生真面目な性格(お、こっつさん、今笑いましたね)からくるもので、「神様のカルテ」は、それほど重い感じがなく読める。主人公やその周りにいる人たちのポジティブな生き方と、軽妙な文体のおかげだと思う。さわやかに、未来を信じ、人を信じ生きる糧にできる話である。

 さて、作者はかなり若い方である。なので、少し物言いをつけてもいいだろう。
 物語中盤から、主人公に大学病院へ来ないかという話が持ち上がる。おそらく、この主人公の医師としてのアイデンティティを問う内容を盛り込みたかったのだと思うが、主人公が葛藤するような場面はあまり見受けられない。もともと主人公が、この人々との心の交流と、大学病院での最新医療をはかりにかけるはずがない。そういうキャラクター設定にしか見えない。私が感じ取った主人公の人物像からみると、そこが、少し違和感があった。
 もうちょっと言わせてもらえるなら、看護師は医師にナースステーションでコーヒーを入れることはないと思うが、どうだろう。まあ、「クオリティ・オブ・ライフ」とは違う次元でうらやましいと思うけど…。
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「神様のカルテ」感想文 その1

2011年11月15日 01時35分47秒 | 読書ノート
 友人のお薦めで、「神様のカルテ」を読んだ。さらに感想文を書け、という課題を与えられた。初めは「こんなのチョロイもんよ」と思っていたが30秒ほどパソコンに向かいあったら、なかなか言葉が出てこない。久しぶりの感想文に、ちょっと緊張しているようだ。

 まず、面白いと思ったのは、主人公が夏目漱石が好きだということだ。その好きさ加減が何に現れているかと言うと、語り口調である。妻を細君と言い、同じアパートに住む人たちを、本名でなく愛称で呼ぶ。しかも、「男爵」であったり「学士」であったりだ。上司を心で(敬愛の念を込めて)「大狸」先生とか「古狐」先生と呼ぶ。これは明らかに夏目漱石の『坊ちゃん』を意識しているし、台詞だけでなく、文体も昭和初期をにおわせるものがある。また、少し笑いを含むような内容が盛り込まれているところが、ますます漱石を感じさせる。特に主人公の住んでいる御嶽荘では、度々酒盛りがあるらしい。この集まりが、本当に漱石時代の文士たちの集まりはきっとこうであったろう、と思わせるものなのである。主人公の働く職場の近代的な病院のシーンになると、はっと我に返り、ここが現代社会であることを思い出しあわててしまったりした。
 主人公は、29歳の青年医師だ。医者の年齢にしては、非常に若い印象である。なぜかと思ったら、作者も非常に若かった。それでこの設定に納得した。さて、主人公は非常に好感のもてる青年医師である。しかし、それだけではパンチがない。その個性をどうやって表現するかを考えたとき、夏目漱石好きの、何となくしゃべり方が古風な青年という設定になったのではないか。そしてその設定は確かに成功している。
 この作品は、病に苦しむ人の救済の話ではない。医師の倫理を問う話でもない。「社会の中で私らしく生きる」ということの面白さや大変さを語りたいのではないかと思う(これもまさしく漱石の世界のような気がする)。そういう意味で、私は第2章の話が好きだ。この中で、主人公は友人に語る。(この友人は、偽りの人生を歩んできたためにうけたしっぺ返しに嘆き苦しんでいた)「学問を行うのに必要なものは、気概であって学歴ではない。〜略〜あなたの八畳間はまぎれもなく哲学の間であった〜略〜笑う者あらば笑うがいい。貴君は常に前進してきたのだ。我々がその証人だ」このセリフは、漱石好きな主人公ならではのものだと感じる。星新一や東野圭吾が好きな青年では、なかなか説得力がない。この主人公の熱い心に共鳴し、嗚咽した自分がいる。大切なのは、「今の私」の存在と、そこに共感する人の存在である。

もう少し長くなりそうなので、続きは次回ということで。
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地球の自転に感銘を受ける

2011年11月14日 02時48分44秒 | どうということもない話
 私の職場近辺はどちらかというと田舎な感じ。お茶や大根、キャベツなど、広大とは言えないが畑もそれなりに残っている。ちなみに有名なのはジャガイモである。しかし、ジャガイモ以上に自慢できるものがある。夕焼けだ。とくに秋から冬にかけての夕日は見事である。裏道で帰ると、畑の向こうに沈む夕日が大きく茜色に見える。なかなか日の入りの時刻を気にしながら退社できないのが辛いところだが、ドンピシャのときは、しばらく車を止め、その景色に見入る。茜色の太陽と、太陽の光を反射した雲の色(金色にも、薄いピンクにもなる)と、空の色がなんとも言えず美しい。そして、その命は短い。太陽は、あっという間に地平線(正確に言うと、遠くの家並みだが)にその姿を隠す。少しでも目を離している間に空の色は刻々と変化する。
 太陽は自らが動いているわけではない。地球が動いているのだ。ここにもう一つの感動がある。この大きな大地がそんなにも速く動くことを感じるのは、朝焼けと夕焼けの時間帯くらいだろう。でも私は私のいまいる大地が動いていることを感じない。私はわずかな時間、夕焼けの美しさを名残惜しく感じると同時に、地球の自転の不思議さを思う。
 夕焼けにしろ朝焼けにしろ、あっという間にその美しさは消えてなくなる。しかし、またその命は翌日吹き返す。まるで火の鳥のようではないか。そうしてまた私たちに感動を与えてくれるのだ。
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面倒くさいけど放置できない複雑な心情について

2011年11月13日 04時59分59秒 | どうということもない話
 いままでのブログの記事を整理したい。整理と言っても大したことではない。このブログの右下のほうにカテゴリーという見出しがあるはずだ。「たわし」はだらだらと思うままのことを書いているので、こういうカテゴリー別にできたらいいな、とずっと思っていた。しかし、この機能がついたのが1年半くらい前。その前の記事は、すべて「Weblog」のカテゴリーに入っている。それ以前の記事をどうにかカテゴリー別にしようと奮戦している。
 大したことではないと、初めは思っていたが意外と大変であることに気付いた。カテゴリーは自分で作れるので、自分の記事に合わせてカテゴリー化する。まあ、「バスケ・アメフト」「読書ノート」、これは私の基本スタンス。しかし、意外と仕事のことや家族のことも多い。じゃあ、と思い「仕事」「家族」を入れる。しかしあまりカテゴリーは増やしたくない。「あとは、どうということもない話」にしてしまえ。そう思っていたのにいや、政治の話などは「どうということもない話」にしたらまずいだろう。そう思ったら「社会情勢」が加わった。
 さて、と記事を初めからさらいながらカテゴリーに分けていく。すぐに壁に突き当たった。映画や芝居の記事はどうしよう。DVDも。「読書ノート」じゃないよな。いっそのことすべてひっくるめて「感想文」にしてしまおうか。いや、そうすると「たわし」全体が様々な場面での感想文なのでよくないな。まあ、妥当に「芝居・映画」というカテゴリーを追加しようと思ったとき、気がついた。バスケやアメフトに関係するDVDはどうしよう。「芝居・映画」ではなく「バスケ・アメフト」ではないのか?しかし、それは映画でもある。
 そうやって思い悩んでいるうちに時は過ぎ、いまだに整理しきれない状況なのである。
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トムリンソンという選手

2011年11月06日 05時16分40秒 | バスケ・アメフト
 さてさて、NFLシーズンも中盤戦だ。今年は、ニューヨーク「ジェッツ」とニューオーリンズ「セインツ」を応援している。この2チームはリーグが違うので、スーパーボウルで闘うことも可能である。そうそううまくいくわけがない、と思いながらこの2チームが勝ち残ることを祈っている。ジェッツを応援するのは、私の好きな選手ランニングバックのトムリンソンがいるからで、セインツは、ヘッドコーチが何となくブルース・ウィリスに似ているから。あと、セインツのクォーターバック、ブリーズもいい。トムリンソンもブリーズももともとはサンディエゴ「チャージャーズ」の選手で、私は1昨年のシーズンまで、チャージャーズファンであった。しかし、昨シーズン、トムリンソンがジェッツに移籍したのをきっかけに私も応援チームを鞍替えした。

 私のアメフト好きはマンガの「アイシールド21」に始まる。しかし、NFLにこれほどはまったのはトムリンソンの影響が大きい。2006年シーズン、彼はタッチダウン量産機と言われるくらいの活躍だった。しかもアイシールドつきのヘルメット。私が注目しないはずはない。しかし、残念ながら2008年シーズン、けがに泣き、2010年シーズンにチャージャーズを解雇される。悔しいことだが、アメリカのプロスポーツは厳しい。特に、アメフトのランニングバックの寿命は短い。それだけ消耗が激しいのだ。しかしトムリンソンは今、ジェッツで必要とされている限り走り続ける。かつてのスター選手が控えに甘んじることはさぞかし悔しいことだろう。それでも、必要とされていることを感じる限り彼は走り続ける。その姿に感銘を受けた。

 さて、ランニングバックというポジションは、ボールをもって速く、そして力強く走り抜ける役割をもつ。しかし、それだけではない。パス攻撃のときは、自らがクォーターバックの盾になり、クォーターバックがレシーバーに安心してボールを投げれるようなブロッカーの役割も持つ。トムリンソンは、それほど大きい体をもつわけではない。しかし、いいブロックをする場面をたびたびみる。ボールをもって走るときも、ブロッカーがあけてくれた穴を見つけて抜けたり、ブロッカーが盾になっているその横をするすると走る。チームで進むという印象が強い。そして、ファンブルをしない。ボールはボールをもっている人のものではない。それはチームのものなのだ。そういう姿勢を感じさせてくれる。球技はボールをもつと花形選手になる。しかし、真のアメリカンフットボウラーは、そうではないことをよく知っている。トムリンソンもその一人だと思う。
 彼がどこまで選手でいられるのかはわからないが、1試合に1回でも走るのである限り、応援したいと思う。
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まだまだだね

2011年11月05日 05時48分55秒 | 家族
 一応、私も休みの日には買い物なんぞにもでかける。私の仕事の日には、ほとんど母に夕食の支度をお願いしてしまっているので、せめて休みの日くらいは、料理の本でも見て、美味しいものを家族に提供したいと思うわけである。先日、必要なものをメモに書いていた。料理のレシピをみて、すずきをつかった料理もいいと思った。その日の買い物リストは次の内容になった。
   みそ
   ねぎ
  (だいこん)おろしのたれ
   すずき
   たまご
   とうふ
   菜っ葉ものの野菜、いくつか  
   じゃがいも
メモを書いている私の手元を、夫がのぞきこんだ(夫も休みの日だった)。
「なにか他にほしいものある?」めずらしく私も親切に夫の意見を聞いた。夫もまたこれも珍しいことであるが「いや、特になにも(いらない)」と答えた。通常はプリンがほしいとか、ジュースは買わないのかとうるさいのだが、まあ、その時はなにも希望はないようだった。
 
 メモを書いたのは昼前。そして昼食後。買い物に出かけ、書いておいたメモでほしいものの確認をする。
 まずは野菜コーナー。菜っ葉…ほうれん草も水菜もまだ高い。じゃあ、にらにするか?いくつか迷ってレタスのみにした。あとねぎとジャガイモ。次は豆腐。次は魚コーナーだ。ええと、たしか「すずき」と書いたはず―――と思ってメモに目を落とす。
   みそ
   ねぎ
  (だいこん)おろしのたれ
   すずき  たなか  わたなべ
   たまご…
   とうふ…

えっ?!「すずき  たなか  わたなべ…   え〜っ!!」
「すずき」は私の字だ。でも、「たなか」「わたなべ」は夫の字である。―――そうか、やつはこれを狙ってたか。私は不覚にも夫のこのジョークに笑ってしまった。しかも魚コーナーの前。タラやマグロの切り身の前で声を出して笑う人間はそうないだろう。マグロにも魚屋売り場の担当さんにも、失礼なことをした。

 職場でこの話をしたら、先輩に言われた「そういう時は旦那さんに『あなた、冷蔵庫に「たなか」が入ってるわよ。「わたなべ」は品切れだったの。ごめんね』っていわないと」と、指導された。なるほど。
 そのあと息子にもこのエピソードを説明したら、息子はこう言った。「おれだったら『ちっ。「わたなべ」、1050円もしやがって』ってお父さんの前で舌打ちをするね」う〜ん、みんななかなかやるなぁ。
 まだまだ私の人生経験は甘い。
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どんな色が好き?

2011年11月04日 04時39分08秒 | どうということもない話
 以前、色が好きというような記事を載せたことがある。「色が好き」というのはどういう意味か、説明が難しいが、とにかく好きなのだ。例えば色鉛筆。すでに100色の色鉛筆をもっているにもかかわらず、最近また90色のクーピーを買ってしまった。24色の色鉛筆も12色の色鉛筆も何セットかあるし、水彩色鉛筆も、ポスターカラーも、スタンプも、アクリル絵具もたくさん持っている。でも何かを描くわけでもない。いや、描く(塗る)こともあるが、描くことが楽しいわけではない。私は収集癖もあるが、色鉛筆は未使用のままとっておきたいわけではない。どんな色なのか、とりあえず試し塗りをする。そしてその試し塗りがすごくワクワクする。
 色が好きなら、カラフルなのがいいかと言うと、そうでもない。モノトーンも好きだし、一面セピア色も好きだ。家具などは、カラフルなものよりモノトーンのデザインを選ぶ。しかし、色鉛筆の並びのグラデーションをみると、ワクワクする。髪の色を七色に染めたいと思う私の嗜好もこういうところからきている。


 最近の色鉛筆は、カタカナで色の表記をされることが多い。色の名を聞いただけでは、どんな色かわからないこともしばしばだ。「モーブ」という色がある。薄いというか鈍い赤紫に見える色である。日本語の表記にするとどんな感じか。曇りの日のアヤメの色か、遠くから見たラベンダー畑の色…いや、もう少しだけ赤みがあるかもしれない。だけど、「モーブ」より日本語を駆使して表現したほうが私は好きだ(まあ、日本人だから当たり前かもしれないけど)。
 色を相手に伝えるのは面白い。色の説明をしていると、自分の生活体験や色から想起するものがわき出てくる。きっと、相手も自分の体験から感じられるものと結びつけながらイメージするに違いない。そういうやり取りも含めて、私は色が好きなのかもしれない。
 どんな色が好きか、なかなかひとつふたつに絞れるものではない。その日の気分によっても違うし、彩るモノによっても違う。時の流れで好みも流行も変わる。だから、私はなかなか好みの色を絞れない。だから「色が好き」と言う。ちなみに私のイメージカラーは紫らしい。なぜかというと、髪の毛が紫だから。もちろん髪の毛全部ではない。私はヘアマニキュアで染めているので、白髪だけ色がつく。薄い赤に染めていたのだが、色あせて今は紫に見える。紫も好きだが、次はもう少し濃いオレンジに近い赤にしてみたい。
 余談だが、実はネイルケアも一度してみたいと思っている。しかし、仕事の関係上できないし、しようとしても、私の爪は横に長く(正方形みたい)短いのでとても小さい。色やキラキラをつけても「ゴミが付いてるよ」と言われかねないので、断念した。
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最期の時の過ごし方

2011年11月03日 05時43分24秒 | 家族
 私が、ブログの更新をさぼっていた時の話である。
 夫が「親せきが亡くなったので、お通夜に行く」と言った。私は全く知らない方だったので、夫に任せた。
 亡くなった方は、夫よりも5歳くらい年長の方で、子供のころ、遊んでもらった記憶があるくらいの関係だったようだ。しかし、夫より5歳年長なら、まだ50歳代前半である。お子さんはそれぞれ自立していて、経済的な不安はないらしい。もともと腎臓を患っていて、過去何度も生死の境をさまようこともあったということだ。夫は、そういう事情は全く知らなかったみたいだが、通夜の席で、奥さんと話をしてそのような情報を入手した。夫が入手したことはそれだけではない。私はこの話を聞いて、他人を無警戒にさせる夫の風貌に感心したものである。
 夫の言葉をできるだけそのまま再現する。
 
 『なんか…奥さんからすごい話を聞いてきたよ。旦那さんはもともと腎臓が悪くって、これまでにも何度も危機を乗り越えてきたみたいだよ。今回も、もう駄目だと思った時、親族を呼ぶかどうかの話になって、ふたりで決めたんだって。どう決めたかっていうと「ここまで夫婦で頑張ってきたんだから、もういいよ。ふたりで過ごそう。子供たちはわかってくれるよ」。だからあえて、誰も呼ばなかったんだって。で、最期の時を二人で迎えたとき、彼(旦那さんのほう)はこう言ったって「ああ…やっぱりもう少し生きたかったなあ…」…奥さんはつらそうだったけど、本当に覚悟してたんだよね。泣き崩れることなく、気丈に話してくれた。子供たちも納得してたみたいだよ』

 私は、夫のこの報告を聞き、思わず涙した。夫婦の愛情が冷めていたわけではないようだ。お互い愛称で呼んでいたようなので。最期の言葉を発した彼の気持ちと、それを聞いた奥さんの気持ち、どうだったの?
 奥さんは割り切ったように言っていたらしいが、そんな言葉を聞いてしまったが最後、私の心は割り切れるものではない。でも夫婦二人で決めたのだ、こういう最期をむかえようって。夫も私も何も言う筋合いはない。ただ、本人にも奥さんにも子供たちにもすごい心の強さを感じた。はたからはわからない、その葛藤を心に刻み、生きていこうという家族の思いを感じ、自らの無力を感じた。しかし、それは私が何かをできるという前提に立った思いあがりである。様々な意味で、夫の貴重な体験に感謝した。
 
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