落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

元旦礼拝説教「竜年の初めに思うこと」黙示録12章

2012-01-02 14:30:34 | 説教
みなさま
新しい年を迎え嬉しく思います。今年最初のメールをお送りします。これは昨日八幡聖オーガスチン教会で実際に行われた説教の記録です。通常は説教をする前の原稿をお送りしていますが、今回に限り事後記録です。というのは、当初準備していました説教の後半部分を大幅に省略し、その意味では「自由に語る」という形で説教しましたので、そちらの方をお送りします。

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2012.1.1
元旦礼拝説教「竜年の初めに思うこと」黙示録12章

1.聖書における竜のイメージ
旧約聖書においては竜のイメージは曖昧である。それに対して新約聖書のヨハネ黙示録においてはかなり詳細に論じられている部分がある。それがヨハネ黙示録12章である。ここでは竜とは「歳を経た蛇」(12:9)と考えているらしい。ひょっとすると、竜とはエデンの園でエヴァを誘惑したあの蛇が年月を経て竜になったというイメージしていたのかもしれない。いずれにせよ、神話的な存在である。
ところで話は変わるが、ヨハネ黙示録は一つ一つの単語が何かしら隠語あるいは業界用語のようで、仲間内ではすぐに分かるが外の人間には何を意味しているのか分からない。しかも全体が謎に包まれていて、非常に具体的なことを述べているようでもあり、遠い将来のことについての預言のようにも思える。その意味では解釈者が自分勝手に解釈しやすい文書でもある。例えば、オウム真理教などで有名になった「ハルマゲドン」なんていう世界最終戦争といわれる言葉も黙示録に一度だけ出てくる言葉である(黙示録16:16)。その意味ではいわゆる「異端」と呼ばれるような宗教団体の教理の温床でもある。従ってヨハネ黙示録にだけ書かれていることを基本にして神学的な議論を展開することは非常に危険でもある。面白いことに、カトリック教会では本日登場する「女」をマリアであると解釈し、マリアの昇天論の根拠としている。
とにかく、めったに読まない書であるので、今日は竜の年に免じて一読しておこう。聖書の中にはこういう文書もあるという見本のようなものである。

<ヨハネ黙示録第12章を読む。>
どうです。変な文書でしょう。一読しただけでは全く理解できません。こういう文書を読む場合には一つ一つの文章の主語と動詞から修飾語(形容詞や副詞)を取り払い裸にして、単純化して文章の中心点を明確にすることです。そのようにして読んだ結果が次のような意味になる。

2.黙示録12章のメッセージ
(1) 一人の身ごもった女が現れた。彼女は産みの苦しみをしていた。そこに竜が登場する。竜は彼女の出産を阻み、もし産まれたら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。男の子は神のもとへ引き上げられ、女は荒れ野へ逃げ込む。この女は荒れ野で1260日間保護される。(1〜6)
(2) さて、天ではミカエルと竜との間で戦いがあり、竜は破れ、天から地上に落とされた。この巨大な竜こそ「年を経た蛇」であり、「悪魔とかサタンとか呼ばれるもの」、「全人類を惑わす者」である。(7〜9)
(3) その時、わたし(黙示録の著者)は神の声を聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」この言葉がここでの著者のメッセージである。(10〜12)
(4) さて、ここからが現実である。地に落とされた竜は男の子を産んだ女を恨み、復讐するために追いかける。しかし神は女を守るために「二つの大きな鷲の翼」を与え、荒れ野に逃す。女は荒れ野で1260日間保護される。しかし荒れ野も女にとって決して安全な場所ではない。竜はなおも執拗に女をせめる。竜は「水攻め」という秘術を使って女を攻めるが、(神は大地に命じて)竜がはき出す水を全て飲み尽くし女を助ける。つまり荒れ野で戦っているのは神と悪魔との戦いである。女はそれを(はらはらしながら)見ているだけである。その戦いは今も続いている。(13〜18)
さて、この部分を理解するための鍵となる言葉は「1260日間」と「一年、その後二年、またその後半年の間」である。これらは共に「3年半」という期間を示している。それは全歴史を象徴する7年間の半分、つまり全人類史の後半、つまり現在を意味しており、荒れ野で3年半の間「養われることになっていた」(14節)女とは教会である。ここでの「養われることになっていた」という言葉は鍵である。同時に教会が保護される場所とは「荒れ野」である。神は教会を花園で保護するのではない。
このように見てくると、(1)の部分は(4)の現実の部分と重なっていることが明らかである。そして(2)の部分は竜の実体とそれが現実の世界に存在していることの理由としての過去の出来事(神話)が述べられている。そして(3)の部分は当時のキリスト者たちに対して悪魔の真相を内容とする慰めの言葉である。

3.教会が置かれている現実
教会が置かれている場所、そこは神と悪魔とが激しく戦う場所である。言い換えると、神の保護と悪魔の攻めとが衝突している場所、それがキリスト者が生きる現実の場である。キリスト者の目の前で、神と悪魔との戦いは続けられている。
この場面を想像するに、私は水戸黄門のドラマを思い浮かべる。善良な人々が悪代官にひどい目にされているが、それを黄門さんは知って善良な人々を助けようと、いろいろと作戦を練っている。初めから、その地方の殿様の所に行って問題を解決したらいいのに水戸のご老公さまはそうしない。身を隠して、いろいろ裏で画策している。そして、最後の場面でチャンチャンバラバラが始まる。善良な人は、助さんや格さんに守られながら逃げ惑う。そして最後の最後に「控えおろう。この印籠が目に入らぬか」ということで勝負は決まる。

4.今年のメッセージ
黙示録が描く「女と竜」とのイメージは、まさに教会が置かれている「荒れ野」という現実である。しかしその現実は永遠ではない。3年半で終わる。必ず終わる。それは人類の歴史の最後のステージである、と同時にそれは神と悪魔との戦いの最後のステージもある。その中で人間はただ「逃げ惑う存在」にすぎないであろう。しかし決して安全地帯において高みの見物をしている存在ではない。
教会暦において、今年はマルコ福音書を読んでいる。マルコ福音書における「荒れ野」とはイエスが悪魔からの挑戦を受けた場所であり、同時に野獣と天使とが共存する場所である(マルコ1:13)。
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