『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想83    緑の影  白い鯨

2013-07-17 22:18:39 | 本と雑誌

 読書感想83    緑の影  白い鯨<o:p></o:p>



 

著者       レイ・ブラッドベリ<o:p></o:p>

 

生没年      1920年~2012<o:p></o:p>

 

出身地      アメリカ合衆国イリノイ州<o:p></o:p>

 

邦訳出版年    2007<o:p></o:p>

 

出版社      筑摩書房<o:p></o:p>

 

訳者       川本三郎<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

 

感想<o:p></o:p>

 

 本書は著者が1953年に半年ほどアイルランドに住んでいた時の体験をまとめたもの。アイリッシュものと呼ばれて既に発表された短編も少し手直しされて入っているそうだ。著者は映画監督のジョン・ヒューストンに映画「白鯨」の脚本の依頼を受けて、当時ヒューストンが住んでいたアイルランドに行って脚本を書いた。その時アイルランドの人々から受けたカルチャーショックや、ヒューストンやその周りのハリウッド的な奔放さに度肝を抜かれた日々が描かれている。

 アイルランドの人々については20世紀とは思えない振舞、自分の中の感動を何よりも大切にする姿勢、楽しいパブでのおしゃべり。例えば、こんなエピソードが満載だ。アイルランドに着いたそうそう、タクシーが途中で止まってしまい、運転手から自転車を渡され、乗って行けと言われる。IRAの活動で領主の館を焼くことを伝えに行くが、領主がいい人なので取りやめたと言うパブでの話。感動的な歌声を聴いて駆けっこを忘れてしまう人々。10年以上赤ちゃんの演技をし続ける乞食等々。

 ジョン・ヒューストンについてはこうだ。馬に乗ったり狩りをしたり、アメリカから友人を招いて友人の派手な結婚式を開いたり、著者もその遊びの中に引き入れられる。乗馬の練習をさせられたり、あくどい冗談のかもにされたり。 

 アイルランドの人々は信じられないくらい無邪気に生きている。ジョン・ヒューストンも心血を注いで映画作りに励んでいるというより、趣味や冗談で楽しく生きている。プロテスタント的な勤勉さとは異質な雰囲気がある。男らしいマッチョな男で危険な橋もあえて渡ろうとする。そんなジョン・ヒューストンに興味が湧いて、映画が見たくなる。やはり初めに「白鯨」が見たい。

ジョン・ヒューストン

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読書感想78   サンダカンまでー私の生きた道―

2013-06-18 09:24:16 | 本と雑誌

 


読書感想78   サンダカンまでー私の生きた道―<o:p></o:p>

 

著者      山崎朋子<o:p></o:p>

 

生年      1932<o:p></o:p>

 

誕生地     長崎県佐世保市<o:p></o:p>

 

本籍地・故郷  福井県<o:p></o:p>

 

出版年     2001<o:p></o:p>

 

出版社     朝日新聞社<o:p></o:p>

 

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感想<o:p></o:p>

 

 著者はノンフィクション作家で女性史研究家である。歴史の闇に埋もれた、日本とアジアを舞台にした底辺に生きた女性たちの姿を、緻密な取材とフィールドワークでよみがえらせた、からゆきさん三部作「サンダカン八番娼館」(1972年)「サンダカンの墓」「あめゆきさんの歌」が有名である。また、「サンダカン八番娼館」を生みだす契機になった「アジア女性交流史研究会」を主宰し、小雑誌「アジア女性交流史研究」を1967年から1977年まで18号刊行している。<o:p></o:p>

 

 著者の略歴は次のようである。<o:p></o:p>

 

福井県出身の海軍士官の父親と大地主の娘の母親と1歳下の妹の4人家族の長女として育つ。1932年に長崎県佐世保市で生まれ、直ぐに広島県呉市に移り、そこで成長するが、第二次世界大戦中に広島市に移り、敗戦直前に福井県の母親の実家に疎開する。潜水艦館長の父親は1940年の演習中の事故で亡くなる。母親の実家は戦後の農地改革で財産を失い、母親は自活のために華道と茶道を教える。著者は高校時代に演劇を始め女優を目指し上京を望むが、母親の反対で福井大学教育学部2部に進学し小学校の教員になる。夢を諦めない著者は東京の小学校の教員試験に合格し、念願の上京を果す。そして劇団に入り初舞台も踏む。小学校を止めて、朝鮮人の東大院生と知り合い事実婚をするが別れる。その後ストーカーによって顔を切られ、女優の道を断念する。そして児童文化史家の上笙一郎と結婚し、ノンフィクション作家の道を歩む。<o:p></o:p>

 

この自伝の中で対立した母親と娘の生き方が対照的である。母親は海軍大佐の未亡人としての体面を大事にし、安定した職業や学歴のある家柄の良い人との結婚を望む。娘は志だけで飛び出していく。安定した生活から外れることを恐れない。最初は女優になるために。そして女性史を研究するために。選ぶ夫も志のある男で、民族や学歴や貧しさは度外視していく。すごく感心したのは貧しさに対する耐性と乗り越えていく力だ。貧しさに対する強さを培ったのは戦後の貧しさと北陸の風土だと思う。大学に通うために父親の実家に寄宿するが、農家なので朝夕の食事作りという家事労働を担わせられる。あてがわれた部屋は屋根裏部屋で雪が吹きこんでくるような所だ。そしてそのパイオニア精神のたくましさにも驚いた。現にないなら、自分で作って行こうと言う姿勢だ。「アジア女性交流史研究会」がそうである。また、どんな人に対してもまっすぐに向き合うという姿勢にも頭が下がる。これがストーカー被害を受ける一因にもなったが、信頼してくれる人が多い理由だろう。彼女は亡き父親や広島で一瞬のうちに命を奪われたクラスメート、戦争で亡くなった人々に対する想いが深い。その悼む気持ちがたくさんの表現を生んだ。戦争を体験し、無から始まった戦後を駆け抜けた著者は、自ら波乱万丈のドラマを手繰り寄せた時代の子でもある。

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読書感想77  朝陽門外の虹

2013-06-14 13:10:15 | 本と雑誌

 


読書感想77  朝陽門外の虹<o:p></o:p>

 

著者     山崎朋子<o:p></o:p>

 

生年     1932<o:p></o:p>

 

本籍     福井県<o:p></o:p>

 

生まれ    長崎県佐世保市<o:p></o:p>

 

育ち     広島県呉市、広島市<o:p></o:p>

 

出版年    2003<o:p></o:p>

 

出版社    (株)岩波書店<o:p></o:p>

 

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感想<o:p></o:p>

 

 戦前に中国にわたり、北京市のスラム街で女学校を25年間運営した清水安三の物語だ。<o:p></o:p>

 

 清水安三は1891年に滋賀県に生まれて中学時代に英語教師として来日していたウィリアム・メレル・ヴォーリスの感化によりキリスト教の洗礼を受ける。そして同志社大学の神学部に進学し、卒業後は中国での伝道を志す。1917年に中国の奉天(瀋陽)での児童館と日曜学校の活動を経て、1920年北京の朝陽門外のスラム街に無料の「工読女学校」を開校する。目的は10歳前後の少女たちに読み書きと手芸を教えて、貧困ゆえに売春に身を落とす少女たちを救うこと。工読女学校産の刺繍の売れ行きはよく、生徒の家庭でも刺繍をつくり売り出すようになる。八騎兵の裔が多く住む朝陽門外に新しい地場産業が誕生したのだ。1931年に寺子屋風の学校から、芳草地の本格的な校舎を建てた女学校に移転し、その名も「崇貞女学校」に変えて1945年まで続く。1936年には「崇貞学園」に名称を変え、男女共学の小学校を設立し、女学校も従来の各種学校から正規の女学校としての認可を北京市から受ける。更に日本人少女・満州人少女のための「日本人女子中学校」も創設する。中国人日本人朝鮮人の少女たちが一緒に学び、寮生活もするようになる。そして敗戦で清水安三は日本へ帰国。そして現在、北京市の崇貞学園跡地にある陳経倫中学校では創立を工読女学校までさかのぼって記録し、校史陳列室には清水安三の業績や写真を展示している。<o:p></o:p>

 

 また清水安三の活動として忘れてはならないものは北京市のもう一つのスラム街天橋でのセッツルメント(救済事業)「愛隣館」の活動である。その活動は5つの柱からなっている。第一に井戸を掘り、水がなく衛生状態の悪い住民に無料で安全な水を提供すること。多額の費用がかかったが実現し、住民は水を買う必要がなくなったのだ。第二に医療部を作り医師を置き無料で診察すること。第三に授産部を設けること。第四に教育部を設けること。第五に慈商部を作り、不良品を寄付してもらい、バザーで安価に売る。診察を受けにきた患者は眼病のトラコーマと皮膚病にかかっている患者が多い。授産部では娘達を集めて刺繍や浴衣の作り方を教える。教育部では初歩的な読み書き算数を毎日3時間4か月で教えるコースを作る。<o:p></o:p>

 

 こうした清水安三の活動を支えた協力者はたくさんいるが、最大の協力者は二人の妻、美穂と郁子。美穂は草創期の「工読女学校」を支え、亡くなる。郁子はその志を継ぎ「崇貞学園」の発展を支える。<o:p></o:p>

 

 学校運営やセッツルメント活動の上でも困難なことが多いが、ピンチになるといつも奇跡のような助け舟が現れて、乗り越えていく。そしてすることが素早く無駄がない。一番それがよく表れているのが北京から引き揚げてきた時だ。1946316日に天津を出港し、3日後に山口県の仙崎に入港した。それから郁子の郷里の松江にも安三の郷里にも、財政的に大きな支援をしてくれたヴォーリスの近江兄弟社のある近江八幡にも行かずに東京へ向かった。そして323日には旧知の賀川豊彦に会い、農村でキリスト教精神に則った学校の設立の希望を話すと、324日には桜美林学園となる土地に案内されている。直ちに文部省の認可を得て、55日には開校したのだ。清水夫妻の辞書には虚脱とか休息という文字はない。キリスト教の人道支援という輪の中でたくさんの協力者に支えられて大きな夢を中国でも日本でも叶えた人だ。<o:p></o:p>

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読書感想76  秋瑾火焔の人

2013-06-04 19:31:23 | 本と雑誌

 

読書感想76  秋瑾火焔の人<o:p></o:p>

 

生年     1875118日       生誕地   福建省厦門<o:p></o:p>

 

死没年    1907715日       死没地 浙江省紹興<o:p></o:p>

 

所属     中国同盟会

<o:p></o:p><v:stroke joinstyle="miter"><v:formulas><v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"> <v:f eqn="sum @0 1 0"> <v:f eqn="sum 0 0 @1">   <v:f eqn="prod @2 1 2">   <v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth">   <v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight">   <v:f eqn="sum @0 0 1">   <v:f eqn="prod @6 1 2">   <v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth">   <v:f eqn="sum @8 21600 0">   <v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight">   <v:f eqn="sum @10 21600 0"> </v:f></v:f></v:f></v:f></v:f></v:f></v:f></v:f></v:f></v:f></v:f></v:f></v:formulas> <v:path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"> <o:lock v:ext="edit" aspectratio="t"> </o:lock></v:path></v:stroke>


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<v:imagedata o:title="Qiujin" src="file:///C:UsersTANAKA~1AppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image001.gif"> <w:wrap type="square"> </w:wrap></v:imagedata>

</v:shape>

 
著者   山崎厚子<o:p></o:p>

 

生年   1936<o:p></o:p>

 

出身地  東京都<o:p></o:p>

 

出版年  2007<o:p></o:p>

 

出版社  (株)河出書房新社<o:p></o:p>

 

感想<o:p></o:p>

 

 近代中国の女性革命家、秋瑾を主人公にした小説である。アウトラインは史実に基づいて大幅に変更されてはいないと考えられる。それで人間関係の細かいやりとりや感情が著者の創作によるのであろう。<o:p></o:p>

 

 秋瑾は清末の時代に生をうけ、辛亥革命が成功する4年前に武装蜂起の失敗から処刑されている。秋家は代々浙江省紹興を本貫とする科挙を受験する名門であった。祖父が厦門の地方官吏に任命されたため、秋瑾は厦門で生まれた。子供時代から優秀で科挙を目指して学んでいた兄を追い越す神童ぶりだった。乗馬をし剣舞もよくした。そうした活発な秋瑾は纏足を強いられる女性の境遇に強い反発を感じた。結婚は湖南省の富豪の王家の息子としたが、王家が望んだのは頭の良い男の子を生んで育てることだった。太平天国の乱を平定した曾国藩の甥にあたる夫は、科挙に関心も能力もない人だった。曾国藩の一族の名誉は秋瑾の生んだ息子にゆだねられていた。当時の中国では、妻妾同居で女性は教育も受けられず、男の子を生む役割を期待される生活だった。売官によって官職に就いた夫とともに北京に行った秋瑾は、新しい交流関係の中に身を置くようになった。革命派や日本人とも知り合うようになった。そして1904年に単身日本留学を決行した。下田歌子の実践女学校に入学する一方で、武術や弾薬の作り方も習い、孫文の率いる中国同盟会のメンバーになった。清国留学生が革命運動の中心になっていることを危惧した日本政府の取締規定に反発した秋瑾は全員総引き揚げを主張し、1年半の留学生活を終えて1905年に帰国した。帰国後は上海で女学校を作ったり「中国女報」という雑誌を発行したりして女性の啓蒙活動を行った。そしてついに故郷の紹興で武装蜂起の準備に取り掛かった。清朝の新軍(西洋式陸軍)を作る名目で陸軍将校を教育する士官学校を設立した。秋瑾はその「大通師範学堂」の主任(校長)に就任した。しかし革命勢力の連携のまずさやスパイの暗躍で武装蜂起は未遂で終わり秋瑾も捕らえられ処刑された。<o:p></o:p>

 

辞世の句「秋風秋雨、人を愁殺す」<o:p></o:p>

 

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 留学に向かった時から目的が明確だった。その目的に集中して最後の日まで走った。以前の何もできなかった生活の鬱憤を一挙に晴らす勢いだ。新しい時代の風を受けて羽ばたいて高く飛んだ女性だ。たくさん新しい女性はいたのだろう。そうした女性の代表だし、革命運動の未熟さによって死の代償を払わされた時代の申し子でもある。こうした勇気と気概のある人が生きていたと知るだけで、気持ちがよくなる。

 

<o:p> </o:p>

 

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読書感想73  わがふるさと沖縄

2013-05-19 01:50:55 | 本と雑誌

 



 

著者         :  井伊文子<o:p></o:p>

 

生没年        :  1917年~2004<o:p></o:p>

 

出身地        :  東京都<o:p></o:p>

 

出版年        :  2002<o:p></o:p>

 

出版社        :  ()春秋社<o:p></o:p>

 

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感想<o:p></o:p>

 

 著者は琉球王家尚侯爵家の長女として東京で生まれ、東京で育った。沖縄生まれの父親が幼い時に亡くなり、小笠原家出身の母親の下で育ったので沖縄口(沖縄方言)も分からず、しかも戦前沖縄に帰郷したのは4回だけで滞在も短かった。しかし、沖縄を故郷と思う気持ちは沖縄の人々と変わることがない。沖縄戦で尚家が住んでいた中城御殿を始め沖縄のすべてが灰燼に帰したことを知り、著者の知りえた昔の沖縄の様子や沖縄との絆を語っている。10代後半に沖縄に帰郷したときの印象を短歌と随筆で記した「中城さうし」も再録されている。<o:p></o:p>

 

 昔の思い出の中の中城御殿の情景は美しい。御殿の庭には真っ白い珊瑚礫がしきつめられ、庭に埋め込まれた天水甕に夕暮れの茜雲が映る。そして絢爛たる琉球漆器など沖縄が生みだした文化財の数々が身近にある暮らし。<o:p></o:p>

 

 また著者は娘時代に植物学者になる夢をもって、沖縄で植物採集をしていた。そのためか植物についての含蓄が深い。佛桑花(ハイビスカスの1種)とか、琉球松とか。<o:p></o:p>

 

 貧しい沖縄と未来の沖縄のために「佛桑花の会」を結成し、社会福祉への援助と中高生を本土に招待する活動を行ったりもしている。<o:p></o:p>

 

 著者は沖縄が故郷でありながら、外から客観的に沖縄を見る目も持っている。沖縄の良さをよく理解している。戦後は彦根に住んでいて国宝彦根城を間近に見ていて、残っていれば国宝だと言われる中城御殿の灰燼の様と比べていたことだろう。昔のような平和な沖縄を取り戻したいという気持ちが迫ってくるし、沖縄の文化を後世に伝えなければという使命感も感じる。本書を読んだので、沖縄に行っても、以前とは違う目で風物を眺めるようになるだろうし、ぜひ行ってみたい。<o:p></o:p>

 

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