花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

ボクのこだわり

2017-04-08 | 日記・エッセイ


朝から霧雨が降り続く中、飼い犬まるを連れて散歩に出た。尾籠な話になるが、例によって草地でぐるぐると場所捜しが始まった。何度も渦を描いては此処にするのかと思いきや、また唐突に歩き出しては新たな場所を嗅ぎ出す。五回以上の探索の後、遂に満足がゆく地に至り腰を落ち着けて事が終了した。
 それを片付けながら却下となった幾つかの叢を振り返った。それぞれの何処が気に入らなかったのか、飼い主の眼には全く判然としない。二つ向こうの候補に上がった叢には小さな蒲公英が咲いていた。少なくとも其処は上にするのを憚って避けた、という筈がない。始末を付けて立ち上がると、本人ならぬ本犬は、早く行こうと言わんばかりの満ち足りた顔で当方を見上げている。例の場所の採択基準が一体何処に力点を置いて構成されているのか、この四月で九年の付き合いになるが未だに何も見えてこない。
 さて人間の世界に立ち返り、「わたしのこだわり」などとというものは他人(ひと)から見ればこのような類いなのかもしれない。どや顔で最良の選択だと悦に入るのも、そうではないものを掴んだと消沈するのも、本人が執着する程には端から眺めたら左程の違いはないのである。

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下剋上の翳

2017-04-07 | 日記・エッセイ


NHK日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ 等伯」(2月5日、NHK Eテレ放映)の京都智積院の長谷川等伯「楓図」と狩野永徳「檜図屏風」の障壁画の比較において、漫画家、おかざき真理(敬称略)が述べておられた見解が実に興味深い。御発言の概要は以下の通りである。
-------絢爛豪華な中で寂しく繊細な感じがする等伯画は共感性で読者を掴む《少女漫画》であり、狩野派は読むと元気になる《少年漫画》である。狩野派の「檜図屏風」はその前に戦国武将が似合う空間であり、等伯の「楓図」は寂しい気持ちを抱えた人間にここに居ていいよと言ってくれる空間である。-------

番組の中で、己一代で頂点まで登り詰めた等伯を評する「下剋上絵師」という言葉が出た。「下剋上」には限りない上昇志向を是とする陽性の駆動力がある。だが物極必反(物事は行き着けば必ず反対方向に転化する)であり、成り極まる過程において既に相反するものが台頭する序曲が始まっている。医学界に話を戻せば、かつて医学界の構造的問題を追求した社会派小説として一世を風靡した長編小説、山崎豊子著『白い巨塔』の財前五郎は「下剋上医師」である。野心と能力、重ねた努力ともに人並以上である新進気鋭の「下剋上医師」の栄光と蹉跌、物極必反の人生が余すところなく描かれ、主人公が終生携えてゆくルサンチマンの低音が小説に深い陰影をもたらしていた。ところで昨今の医療ドラマでは、スーパードクターが膠着した病態(個人および組織の)を打ち破り、一発大逆転の勝ちいくさにするといった描き方がやたら溢れている感がある。先の御見解をお借りするならば、観れば元気になる「狩野派」のプロットである。一般の方々が御覧になる場合はひたすら頼もしく映るからであろうか。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」は平家物語の有名な冒頭の一節である。本来、物極必反と同様に、諸行無常には滅びゆくものへの嫋嫋たる感傷や哀惜はない。あるのは森羅万象の消長平衡を俯瞰する、無情ならぬ非情の眼である。

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漢方方剤の風景・第二章┃黄葉先生

2017-03-19 | 漢方方剤の風景


黄葉がこの地で黄葉医院を開業して四十有余年、開業の年に生まれた雄二は地方病院勤務を辞してクリニックを新設した。一緒にやろうという雄二の提案を黄葉は断ったのである。
 雄二のクリニックが完成した時、黄葉は白亜の正面玄関をくぐるなり、揃いのベビーピンクの制服をまとってずらりと並んだスタッフ一同に「大先生、おはようございます。」と一斉に呼びかけられた。院内には真新しい医療器械が所狭しと並び、電子カルテがどうのこうのと説明してくれた代物を始め、黄葉の眼にはどれもが御大層な玩具に見えた。道具に使われやがってと思わず独りごちたが、得意満面な新院長の耳には届かない。
 定時にはきっかり診療終了となる黄葉医院に対し、向こうは門前市をなす盛業ぶりだと聞く。これはこれで第一ラウンド終了というべきか。もし反対の状況ならば、それはそれで親として心配に違いない。先輩医として言ってやりたいことは幾つもあるが、所詮代わりに歩いてやることも、また反対に歩いてもらうことも出来ない道である。車輪を削る技の伝授にあたり、子に喩すこと能わず、また子も受くること能わず。あれは誰の言葉であったか。

さて黄葉医院の受付であるが、何十年にもわたり医療事務兼看護助手を担当してくれているのが、黄葉より六歳年下のヨネさんである。院長がすっかりくたびれた爺さんになったように、向こうも負けじ劣らず、まぎれもない婆さんになった。雄二との親子喧嘩の時も心得たもので、聞いているのかいないのか、肩がこったと言わんばかりにぶんぶんと右腕をわざと振り回してみせる。このところ年々腰痛が酷くなり、退職をほのめかされてはや五年である。治療の傍らもう一年と勤め続けてくれたが、他に家庭の事情もあり今年がもう限界なのだろう。
 その様な訳ではるか以前、医院の門脇に求人のプレートをぶらさげたのである。今やすっかり失念していたプレートを見てと、とある昼下がり、千賀子という名の一人の女性が履歴書を携えて黄葉医院にやって来た。長い付き合いの中で同性を終ぞ褒めたことのないヨネさんである。本採用を決めた後も大いに気を揉んだのだが、黄葉の心配は全く杞憂に終わった。何処がうまくいったのか、ヨネさんの仏頂面が次第に和んできた。
「まったく何とやらに鶴だね。つくづく物好きだ。」
 黄葉と同い年の平さんが診察室のベッドで腹を晒したまま声を挙げると、間髪入れず聞きなれたどら声が返って来た。
「こちとらすっかり羽が抜けた老け鶴で悪うござんしたね。」
 平素は柔らかくへこむ平さんの臍下の腹壁もいつになく弾力のある硬さを示し、関元に置いた黄葉の腹診の掌を押し返してくるのである。

そうしてしばらく老若の鶴に守られていた黄葉医院であったが、ついにヨネさんが翔び立つ日が来た。一段と秋めいて来た日の夕暮れ、黄葉、ヨネさんと千賀子の三人でささやかな餞の宴を設けた。持病があった連れ合いの入院時には子守までしてもらった雄二にも声をかけていたが、診療が終わらない、くれぐれも宜しく伝えてくれと終宴間際に連絡が入った。
 沿線の駅まで見送り、体を大切になあ、長い間今まで本当に有難うと述べた時、ヨネさんは黄葉や千賀子の手を何度も何度も確かめるように握り返した。
「老鶴はただ消え去るのみ。」
そして最後の笑顔を見せて改札口に消えていった。

千賀子が一人で担当する様になり二ヶ月経過した頃である。
「今お時間宜しいですか。」 
山の様な書類を前に、どれから片付けようかと頭をひねっていた日の午後、黄葉の背に向かって千賀子が声をかけてきた。
「申し上げたいことがあります。」
振り返った黄葉は黙って千賀子の次の言葉を待った。
「わたし、女性ではありません。」
俯いた肩口にはらりと切りそろえた髪が揺れた。

それから一ヶ月後の医院の休診日、いくつもの器械や端末、様々なパーツを車に積み込んで凱旋してきた千賀子は、ただちに黄葉医院におけるIT化に向けての整備を開始した。診療室の一隅から見やる眼に映った遺漏のない果断な一連の手際には、自分とはまた異なる世界で「きちんと飯を喰ってきた」匂いがした。
 XX年Y月、黄葉医院の様な小さな医院にも、診療報酬請求明細書、いわゆるレセプトのオンラインでの完全提出が義務付けられる日が来る。共に厳しい時代を生き抜いてきた旧友の中には、それを機に勇退すると心に決めている者がいる。
 北窓を開ければ、はるか昔、このように見上げた時と同じ色に澄んだ、雨過天晴の天空が広がっていた。ふいに眼前を横切って一羽の鳥が彼方へと飛び去った。
「鳥空を飛ぶに、飛ぶといえども空の際なし、か。」
黄葉は振り返り、一息いれようやと新たな一人の僚友に呼び掛けた。

(医療施設の規模により段階的に推し進められてきた電子レセプト請求(オンラインまたは電子媒体による請求)の猶予措置は平成27年3月31日で終了した。同年4月診療分以降の請求は電子レセプト請求が原則義務化となっている。)



六味地黄丸:熟地黄、山薬、山茱萸の三補薬と、沢瀉、茯苓、牡丹皮の三瀉薬から構成される。腎陰不足に対する基本方剤であるが、加えすぎず減じすぎず、切れ味が特別に優れるという方剤ではない。何を聞かれても、はい、よろしいですねと答えるような人の様だという意味で「好好先生」と称すると、かつて方剤学の講義で伺った。むしろこのような方剤の方が処方医の手並みを静かに見ているのである。

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国立国会図書館関西館に行く

2017-03-10 | 日記・エッセイ


今週、午前診療が定時に終了した日、関西文化学術研究都市、精華・西木津地区にある国立国会図書館関西館に伺った。当院よりは近鉄電車と奈良交通バスを乗りついで30分足らずの精華台の静かな高台にあり、何時訪れても広い館内の隅々まで静謐で厳粛な空間が広がっている。此処では各種のデジタル資料や蔵書の検索・閲覧は勿論の事、中国学術雑誌全文データベース(CAJ; 中国の学術雑誌約9,600余誌に掲載の論文が収録されている)を利用して、その場で中医学関係の原著論文を検索、閲覧、プリントアウトすることが出来る。久しぶりの館内の端末や検索システムはすっかり更新されていて、中文入力の切替から論文の全文閲覧と出力まで、自分なりに端末と格闘したが全く前に進まない。結局、係りの御方四人のお手を煩わせした挙句、目的の文献を無事に手に入れることができた。本年6月には名古屋で第68回日本東洋医学会総会・学術講演会が開催される。演題申込が採択されたなら今年も口演発表予定である。

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廓文章の伊左衛門│當る酉年「吉例顔見世興行」

2017-02-26 | アート・文化


京都師走恒例の吉例顔見世興行は、改修工事による南座休館にともない先斗町の舞踊公演「鴨川をどり」の会場である先斗町歌舞練場で開催された。第二部、第二が「廓文章」で、主人公の藤屋伊左衛門(片岡仁左衛門、敬称略、以下同文)は最後に勘当を許されて、身請した扇屋夕霧(中村雀右衛門)と晴れて夫婦となり大団円を迎える。原作は近松門左衛門作『夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)』である。上之巻、吉田屋の場を上方和事狂言に仕立てたのが「廓文章」で、原作はさらに登場人物が多くて込み入った筋立てである。このたびの劇中では、後見人の片岡仁左衛門の襲名披露口上から始まり、芝雀改め六代目中村雀右衛門襲名挨拶が行われた。

「廓文章」の伊左衛門は紛れもなく、上質の近世上方文化が手塩にかけて育み育て上げた「ええしのぼん」である。一見、蕩尽した挙句に尾羽打ち枯らすもその自覚がなく浮ついたままの「あほぼん」に映る。今や境遇の内実はどん冷えで、中医学の言葉を借りれば「陰盛格陽」(真寒仮熱:体内の陰寒が盛んになり陽気が外方に押しやられる為に、体内は真寒であるのに体表に熱証の症候が出現すること)であろうか、かなり切羽詰まった状況にあるのだが、彼には何ら臆する処がなければ僻みもない。
 大和未生流の須山御家元は『風に立つ花 向かう花』の「芸の伝承継承」の章において、上方歌舞伎の和事芸について伊左衛門が体現する魅力を次の様に語っておられる。
「その名残を色濃く残す『廓文章』「吉田屋」では、豪商の身である伊左衛門が、遊女夕霧に夢中となり通い詰め挙句の果てに勘当され落魄の身となり、哀れな姿となって寒中夕霧に逢いに行くという何の分別もない男である。しかし彼は何一つ後悔もしていない、反省などまるでない、その魅力は遊女故に零落しても決して恥じる事のないその生き方にある。
 社会的に敗北者となりながらも、その生き方の中で彼だけが得た大切なものがある。こんな人物を演じるには発声も身のこなしも、台詞まわし、間のとり方も独特の演技方式を必要とする。そして何よりもそこに大阪町人独特の香しい気品がなくてはならない。それが和事芸の魅力なのである。」
(『風に立つ花 向かう花』, p171)

劇中、揚屋吉田屋主人、喜左衛門があまりのいたわしさに、「藤屋の伊左衛門様にこの吉田屋の喜左衛門が着せまする小袖、たとへ蜀江の錦でも頂いて召しませうか」と涙をこぼすのに対し、当の本人は悠然と曰く、
「いや、喜左。この紙子の仕合せ、さらさら無念と存ぜぬ。総じて重たい俵物、材木でも、牛馬が負うは珍しからぬ、犬か猫が負うたらば、これはと人が手を打たう。我らもそのとほり、紙子の袷一枚で、七百貫目の借銭負うて、ぎくともせぬは、恐らく藤屋の伊左衛門、日本に一人の男、この身が銀(かね)じゃ、それで冷えてたまらぬ。」(『近松門左衛門集一』, p406)
 伊左衛門は紙子の袷一枚の姿で七百貫目の借金を背負うとも、この体が金の藤屋の伊左衛門、何を恐れようか、だから冷えるのだと洒落のめして莞爾として笑ってみせる。赤子の様な天真爛漫さ、はんなりとした優男の外観の中に仕込まれているのは、「この身が銀(かね)」と言い切る翳りのない不撓の気甲斐性(きがいしょ)である。しかも、それをもろに曝け出さないのが育ちの良さ、品の良さである。片岡仁左衛門が演じる伊左衛門はこの辺りの硬軟綯い交ぜの風姿がまこと絶妙である。
 負債が増えただけ「その身が資本」も増えて、おのれは銀(かね)と喜左衛門に水を向けて「餅搗きに大きな金がおいでなさった」と阿吽の呼吸を引き出し、双方良しで帳尻を合わせてみせるのも商売人の感性であろう。豪商に生をうけた若旦那として周りの物事がどう見えるのか、どのように見定めなければならないのか、並の男ならば疾うに枯れて萎むに終わる状況にあるとも、彼がその眼を痩せ細らせることはない。
 山崎豊子著『ぼんち』に、「喜久ぼん、気根性(きこんじょう)のあるぼんちになってや、ぼんぼんはあかん」の言葉がある。藤屋伊左衛門は決してやわな「ぼんぼん」ではない。

参考資料:
新編日本古典文学全集74『近松門左衛門集一』, 小学館, 1997
『風に立つ花 向かう花 花と舞台の日本的美』, 須山章信著, おうふう, 2017
新潮文庫『ぼんち』, 山崎豊子著, 新潮社, 1961



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漢方方剤の風景・第一章┃招き猫

2017-02-24 | 漢方方剤の風景


終わったなという感慨は時とともに薄らぐ。去年までは高校生、いまや浪人という立場の違いはあるが、後ろを振り返る暇などない喧騒の日々が容赦なく始まっていた。
 この四月から山瀬は予備校生である。午前はここまでという講師の言葉を聞きながら、今日は何を食うかとテキストを閉じた。
 そしていつもの定食屋の自動ドアの黒いマットを踏むと、店内は昼時にもかかわらず閑散としていた。初老の男が一人、隅のテーブルで大きく新聞を広げている。食券販売機を前にして数秒迷うも結局大盛り天丼にした。手っ取り早く腹を満たすには丼が良い。 
 午後からは模試である。暑い夏を迎えたこの時期、さらにワンランクは上の点数が確実に取れないと来期も厳しい状況であることは、誰に言われなくとも判っていた。ふとその時、今月に入ってあいつを見かけないと何時も伏し目がちの顔を思い出した。同じ高校に通っていたとはつゆ知らず、偶然に今の予備校で出会ったのが一か月前である。勿論、いまだにありふれた挨拶をかわす程度の仲に過ぎない。
 そう言えば、この店には昼飯を食いに一度だけ一緒に来たことがあった。いつもの変身が起き始めた時、どうせわからないだろうと山瀬はたかをくくって席に着いた。ところがテーブルの向こうから、大きく見開かれた眼が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「おまえ、もしかしたら。」
彼女は微笑んで深く頷いた。

空腹になると招き猫になる現象がはじまったのは、幼稚園の年長クラスの頃だったと思う。何故自分だけがこういう具合になるのか、今に至っても全く納得できない。ましてや子供がその事態を受け入れられる筈がなく、食事時になると決まってぐずりだす小さな山瀬に両親はすっかり手を焼いていた。というのも、招き猫に変わりゆく姿は本人自身にしか見えなかったからである。その事実にようやく気付いた山瀬は、変身をもてあましながらも成長してゆき、いつしか心に止めずにやり過ごす術を覚えていった。いまや元気に育ってくれたと安堵している両親は未だに何も解ってはいない。
 さて招き猫への変身であるが、まず初めに後頚部に小さな魚が蠢く様な感触が起こる。次いで頭上から踵へと背中に熱い電流の如きものが流れ落ちる。山瀬は知らないのだが、これは経絡における太陽膀胱経の走行にほぼ一致する。その後は四肢を含む全身の皮膚に産毛が逆立つ感覚が生じ、次第に全身が真白の和毛で覆われてゆくのである。最後に変身の総仕上げとして、僅かな痒みとともに頭頂部に一掴みの茶色の毛が生えて完成である。
 周りの状況が劇的に動き始めるのはこの辺りからだ。本日も定食屋の中に座り往来を眺めれば、無造作に行き来する人達が三々五々、吸い寄せられたように次から次へと店に近付いてきた。自動ドアが開いては閉まり、慌ただしく閉まっては開く。腹がへったなと笑い合う勤め人や学生が食券販売機の前に長い列を作り始める。
 相席宜しいですかの声に、先程の新聞を広げていた男は気の良さそうな笑みを浮かべて、隣の席を占拠していた荷物を引き寄せていた。番号を呼ばれて食事をもらいに行く人、飲み水をセルフで取りにゆく人、席がまだ空かないかと見回しながら入り口で待っている人。店内はいまや所狭しでごった返している。自分達をまさしく此処に引き寄せた張本人、すっかり招き猫と化した山瀬には、誰一人として気づいている者はいないのである。
 昼飯が終わると、先程とは逆の過程を経て元の山瀬に戻ったのだが、これも毎回のことである。予備校に戻ってから一階の事務所で彼女の事を尋ねると、予想もしない返事が返ってきた。
「彼女やめちゃったよ。理由は聞いたけど教えてくれなかった。」
 その気配を微塵も見せず、彼女は僅か数カ月で予備校を去っていた。学部は違えども同じ大学志望であり、来年こそともに突破だと独りよがりに仲間意識を抱いていた、呑気な脳天をぱちんと叩かれた気がした。特別に何の約束があった訳ではない。だが乗り込む直前に扉が閉められた車両を、ホームでひとり見送る時に似た気持ちだけが残った。

敢えて課題に追われる毎日に身を置いて数日が過ぎた頃、息抜きに遊びに来いよ、ごちそうしてやるぞと、実家から遠く離れた地の関連病院に赴任中の兄が連絡をくれた。山瀬とはひと回り以上の年の開きがある。週末にバックパックを背負い、東海道新幹線沿線のとある駅に降り立った山瀬は、照り付ける太陽の下、数キロは距離がある兄の住まいまで歩くことにした。
 中央口を出ると、駅前広場の彼方に何やら人だかりした白いステージが見えた。ステージ上には原色のコスチュームをまとった女性が一人、よどみなく語りかけながら大きく皆に手を振っている。人混みを掻き分けながら山瀬はゆっくりとステージに近付いて行った。突然、右へ左へと愛嬌を振りまいていた顔がこちらに向けられた。彼女は確かに山瀬の姿を認めた。一瞬時が止まり、薄い影を帯びた顔に其処だけ赤く浮かんだ唇が素早く動いた。溢れかえる群衆の中でそれを見届けたのは山瀬だけだったに違いない。すぐにくるりと踵をかえした彼女は、再び何もなかったかのように変わらない笑顔を周りに振りまいていた。
 その時にあの現象が自分以外の人の身に起こる事を、生まれて初めて山瀬は見た。彼女の頭のあたりに突如顕れた薄いピンク色の靄は次第に広がり行き、やがて全身が白く輝くしなやかな毛で覆われた。頭上には二つの小さな耳が屹立していた。

山瀬は知ったのである。招き猫になる人間にだけ仲間の変身が見えるのだ。腹が減るたびに招き猫になる人間、別れを告げる時に招き猫となる人間。もしかしたらこの世には、それぞれの運命を背負った色々な招き猫が居るのかもしれない。
 猫は最後の姿を人には見せずに去ってゆくと聞いたことがある。彼女が立つステージと山瀬の間を埋め尽くす人々の数はますます増え続けてゆく。人波にもまれてどんどんと押し流されてゆきながら、離されまいと山瀬は必死に抗った。本当の彼女が見えるのは俺だけだと何度も体を反らして伸びあがり、届けとばかりに彼女の名前を連呼した。



消風散(しょうふうさん):風邪を消し散らす働きのために消風散と名付けられた。疏風養血、清熱利湿の四種の効能を兼ね備えて、風邪を発散し、熱邪と湿邪を取り除き、体内の陰血を養う方剤である。皮膚の赤味、痒みや滲出物、出現したり消退したりする発疹や湿疹などの各種の皮膚疾患に広く使われる。

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日常診療にて

2017-02-23 | 日記・エッセイ


現状から目を逸らせて患者さんにならないのも、取り越し苦労して患者さんになりすぎるのも病気の回復には支障が出る。予期せぬ病気に遭遇した方々は巷に溢れる医学知識や一般情報をあれこれと集めて、ともすれば自らのこれからを先取りなさって一喜一憂する。往々にして病気を得た患者さんは疾病の軽重に拘らず夫々不安なものである。医療者の心すべきことの一つは、如何に患者さんに不安を降ろして希望を持って頂けるかということであるが、決してそれは単純で容易な事ではない。やるべきことを行なって感謝して戴けるゴールに至ることがあれば、御一緒に歩を進めていたつもりが何も解ってもらえないとお叱りを受けることもある。磊落に受け止めておられた方の心の奥底に人知れず渦巻いていた、病気に対する悶々を遥か後になって知り、私はその時一体何を、何処を見ていたのだろうと思うこともある。

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漢方方剤の風景について

2017-02-18 | 漢方方剤の風景


《傷んだ林檎┃気虚と陽虚のメタファー》(2015/1/15)の記事の中で、改めて形式知と暗黙知の概念を振り返ったことがある。その中で、「方証相対」という全身の症候を総合した証を適応方剤に直結させる考え方があるが、ある方剤が有効であると考えられる身体像のイメージもまたメタファーであり、言葉でつたえきれない理解があることを知るが故であると記した。臨床経験を積んでゆく中で、漢方医は共通の認識を越えて各自独特の展開を見せる方剤のイメージを少しずつ育ててゆく。ひとつの方剤を念頭に置いた時、現在の私の頭の中に白昼夢のように浮かんでくる情景を描いてゆこうと思いたったのが、今回追加したカテゴリー「漢方方剤の風景」である。
 東洋医学、西洋医学に限らず、私が今佇んでいる場所は通過点に過ぎない。まだまだ学ばねばならないことは山ほどある。まさに「終わりなき修練の道」であることを年経るごとにますます痛感するこの頃である。

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報恩ということ

2017-01-28 | 日記・エッセイ
『禅文化』243号の特集は《遠諱報恩大摂心からの一歩》である。巻頭の「臨済禅師1150年・白隠禅師250年 大遠諱雲衲報恩大摂心を終えて」(円覚寺管長、円覚僧堂師家、横田南嶺著、敬称略、以下同文)では、昨年三月、全国の道場から京都に集まった約230名の若き雲水が予定の日程を終えて、ふたたび帰りゆく雨降る最終日の光景を以下の様に記しておられた。その御人柄がゆかしく偲ばれる文である。

 「若い彼らが、これから僧侶として生きてゆくのは、この冷たい雨よりももっと厳しい道になることでしょう。寺離れや寺院消滅の危機などと言われる中を旅たたねばならないのです。
 私は山門を出てゆく雲水一人ひとりに合掌しながら、ずっとその雨に濡れた草履を見つめていました。
 そして「どうか、この冷たい雨の中を、草履を履いて歩いたこの日のことを終生忘れないで欲しい。辛い時、苦しい時には、この日のことを思いだして欲しい。大勢の管長や、老師方が、手を合わせて見送ってくれたこの日のことを忘れないで欲しい」と念じるうちに、涙がにじんできました。
 二百三十余名の若い「一無位の真人」達の旅立ちを見送ったのです。」

(季刊『禅文化』第243号, p15, 禅文化研究所, 2017)

本号には上記の大遠諱雲衲報恩大摂心写真展(平成28年3月5日~9日、於東福寺、撮影者:平林克己、田原等弘、西村惠弘)として、雲衲到着から出立までの厳しい修行の一挙一動を捉えた四十一葉の写真が掲載されている。行雲流水と記された頁の最終の写真は、街路に一列に黒い雨合羽姿で連なり遠ざかり行く列において、最後尾の雲水が来た道を振り返り深々と網代笠の頭を下げている写真であった。





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鶴女房症候群とスタンバイ症候群

2017-01-24 | 日記・エッセイ

『團扇畫譜』収載画

己を振り返って《おばさん症候群》の三徴候(トリアス、trias)というものを考えたことがある。ちなみに医学的な「症候群」とは、明確な原因は不明ながら一群の共通した症状や所見を呈する病態群を称する。例えば内耳の内リンパ水腫を本態とする「メニエール病」という名前は、1867年にアダム・ポリッツァーがめまい、耳鳴、難聴の三主徴症状が揃った疾患で提唱した《メニエール症候群》に由来する。これに先んじた1861年、プロスペル・メニエールがめまい症状を示した患者の剖検で三半規管に出血を確認して内耳性めまいを報告したことを踏まえての命名である。なおめまいや耳鳴、難聴の症状があれば即メニエール病の診断が下せるかと申せばそうではない。メニエール病の診断基準にはバラニー学会における国際診断基準、本邦の厚労省前庭研究班、日本めまい平衡神経学会から発表されたものがあり、up to dateの研究成果に基づいて診断基準が更新されている。

さて冒頭の《おばさん症候群》に戻るが、「ため息」、「掛け声」、「独り言」が三大徴候である。「あああ、疲れたなあ。よっしゃあ、もうひと頑張りするで。」などと声に出した行動が観察されれば確実例の確定診断が下る。さらに提唱したい症候群として、自分の心身を犠牲にして羽を全て抜いてでも家族の為に美しい反物を織るという《鶴女房症候群》、また日夜たえず家族の為に行動できるように気を配り準備状態にある《スタンバイ症候群》が挙げられる。両症候群に共通する発症要因は、「なんとかしてあげたい」(私に出来ることはしてあげたい-----基本的に心優しいのである)、また「私がしなければならない」(誰が替わってしてくれるというの?!-----ここには諦めと怒りが込められている)という心情や事情である。これらを症候群として病的に捉えるには批判もあろうが、外来診療で問診票をもとにお話を伺っていると、多くの女性の患者さんの疾病経過や生活養生に少なからず影響を及ぼしているのではないかと考えさせられる心習い(心についた習慣、性癖)なのである。

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