花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

厚朴(こうぼく)

2017-06-29 | 漢方の世界
「厚朴(こうぼく)」はモクレン科モクレン属、カラホオ(Magnolia officinalis Rehder et Wilson)およびその変種の樹皮、根皮からえられる生薬である。日本産の「和厚朴」はホオノキ(Magnolia obovata Thunberg)の樹皮を用いる。「厚朴」は芳香化湿薬(主として中焦脾胃に停滞した湿邪を取り除く薬物)に分類される。有形之実満(便秘があるような場合の膨満感)を下し、無形之湿満(湿邪の停滞による膨満感)を散じることも出来る、脹満の要薬である。
 薬性は苦、辛、温、経絡は脾、胃、肺、大腸経に属する。効能は燥湿消痰、下気除満、平喘(気を降ろし巡らせて脾胃の気滞、寒湿や食積を取り除いて胸腹部の脹満感や脹痛を改善する。肺の痰湿を除いて咳嗽、呼吸困難を改善し呼吸を整える。)である。改めて薬性を鑑みれば、苦は降ろす、辛は散じる、温は燥湿(cold-wetな病態において余剰の湿を乾燥させる。---なおこれは心不全病態分類のNohria-Stevenson分類とは無関係。)の作用となる。また「厚朴花」は花蕾から得られる生薬で、薬性や薬効は「厚朴」と似るが働きは弱い。

ホオノキは別名、朴柏(ホオガシワ)、モクレン科モクレン属の落葉高木で、5~6月頃に香気を放つ大きな白色の花を咲かせる。ちなみに「朴の花(ほほのはな)」、「厚朴の花(ほほのはな)」、「朴散華(ほほさんげ)」は夏の季語で、朴落葉(ほほおちば)は冬の季語である。一昨日、京北町に育ったホオノキの葉を沢山頂戴したのだが、倒卵状の葉は実に大きく青々として瑞々しい。野趣そのままに殆ど手を加えず、庭の矢筈芒を取り合わせて信楽の大壺に投入れた。大壺の中の落としに溜めた水は僅か半日で吸い上げられて見る間に減ってゆき、「厚朴」の気を動かし水をさばいてゆくダイナミズム、改めてその優れた効能を如実に見せつけられた思いがした。

朴散華すなはち知れぬ行方かな   川端茅舎




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心中を滅し得れば火も自ら涼し

2017-06-25 | アート・文化


晩唐の杜荀鶴に《夏日題悟空上人院》という詩がある。転結句は、織田軍の焼き討ちにて三門楼閣上で門下の僧とともに火定にお入りになった際、甲斐恵林寺、快川紹喜禅師がお唱えになった遺偈、「安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」として知られる。はるか以前にこれもまた学会旅行にて恵林寺を参拝した折、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」が記された風林火山の小さな旗印とともに、国師の遺偈が揮毫された色紙を求めて大事にしてきた。ところが不覚にも駅前再開発の移転に伴う転居の時に色紙を紛失して今は手元にない。

夏日題悟空上人院  杜荀鶴
三伏閉門披一衲、兼無松竹蔭房廊。 
安禪不必須山水、滅得心中火自涼。

夏日、悟空上人の院に題す 
三伏門を閉じて一衲(いちのう)を披(はお)る。
兼ねて松竹の房廊を蔭(おお)う無し。
安禪必ずしも山水を須(もち)いず。
心中を滅し得れば火も自ら涼し。
(川合康三編訳:岩波文庫『中国名詩選』下, p213-214, 岩波書店, 2016)

本年、京都、北村美術館、春季茶道具取合展の御題は「薫風」で、文宗皇帝が詠じた「人皆苦炎熱、我愛夏日長」に、柳公権が「薫風自南来 殿閣生微涼」と受けて詠じた詩中の句を踏まえた御題との事である。季語分類で「薫風」、「風薫る」は夏に属し初夏の南風を意味する。『和漢朗詠集』夏・納涼には、中唐の白居易(白楽天)の《苦熱題恆寂師禪室》を出典とする「是禅房に熱の到ること無きにはあらず ただ能く心静かなれば即ち身も凉し」の詩句が選ばれている。「薫風」に関連し、重ねて白居易の「薫風自南至」の詩句を含んだ《首夏南池独酌》とともに下に掲げた。一陣の薫風を知る「薫風自南来 殿閣生微涼」は、「心中を滅し得れば火も自ら凉し」、「心静なれば即ち身も涼し」と詠じた何にも捉われぬ境地に繋がるものである。

苦熱題恆寂師禪室  白居易
人人避暑走如狂、獨有禪師不出房。
可是禅房無熱到、但能心靜即身涼。

熱に苦しみ、恆寂師の禪室に題す
人人暑を避け走りて狂するが如し、獨り禅師の房を出でざる有り。
可(はた)して是れ禅房に熱の到ること無けんや、但だ能く心静なれば即ち身も涼し。
(岡村繁著:新釈漢文大系 第99巻『白氏文集』三, 巻十五 律詩三, p272, 明治書院, 1988)

首夏南池独酌 白居易
春盡雜英歇、夏初芳草深。 
薫風自南至、吹我池上林。 
綠蘋散還合、頳鯉跳復沈  
新葉有佳色、殘鶯猶好音。 
依然謝家物、池酌對風琴。  
慙無康樂作、秉筆思沈吟。
境勝才思劣、詩成不稱心。

首夏、南池に独酌す
春盡きて雜英歇(つ)き、夏初芳草深し。
薰風南より至り、我が池上の林を吹く。
綠蘋(りょくひん)散じて還た合ひ、頳鯉(ていり)跳りて復た沈む。
新葉佳色有り、殘鶯(ざんあう) 猶ほ好音。
依然たり謝家の物、池に酌んで風琴に對す。
康樂の作無きを慙ぢ、筆を秉(と)りて思ひ沈吟す。
境勝りて才思劣り、詩成れども心に稱(かな)はず
(岡村繁著:新釈漢文大系 第108巻『白氏文集』十二上, 巻六十九 半格詩 律詩附, p248-249, 明治書院, 2010)

本年度、水無月の日本東洋医学会・学術講演会の演題発表において、「南風(南薫)を求めんとすれば, 須らく北牖(北窗)を開くべし」に取り組む機会があり、まさに「薫風」の時宜を得た発表となった。この古くから言い継がれてきた箴言は、身体を家屋に譬えて如何に体内の<通風>を図るかという治療上の工夫を示唆している。昔から遅筆だけは人後に落ちる気がしないが、このたびは珍しく感慨が褪せぬうちにと学会発表内容を論文に仕上げるべく鋭意努力中である。これも一つの機縁なのであろう。

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盛岡の桜は石を割って咲く│『壬生義士伝』

2017-06-18 | アート・文化


先の「木瓜の詩」の記事において、学会の学術講演会や研究会に出張する機会を得たお蔭で国内の津々浦々を訪問することが出来たと書いた。そのような動機がなければ生来出不精な私があちこちを旅する事はなかったに違いない。そして各地の土地ならではの自然や風俗、訪れた季節の風趣が、その折に拝聴した講演や発表した演題などの記憶と相まって折に触れて今もなつかしく思い出されるのである。

昨今専門医制度が大きく変化を遂げてから、ますます増大する各地からの参加者の便宜をはかる為に、中央から離れた地方での開催が減った感がある。会場へのアクセスが容易で多人数を収容できる施設がある新幹線沿線の大都市での開催が多くなり、かつて会場を取り巻いていた地方独自の文化の香りなど、少しも漂ってこない学術講演会や研究会になってゆくのは時代の趨勢なのだろう。何が第一義に求められるかと申せば、会場内での開催内容の充実と遅滞ない進行が本義であることは言うまでもないのだから。

学会と言えば、耳鼻咽喉科の大学医局に入局した際に初めて入会したのが日本耳鼻咽喉科学会である。その後は自分の環境や興味の変遷とともに、途中で入会した学会があれば退会した学会もあった。滲出性中耳炎関連で肺炎球菌を用いた基礎研究に携わっていた頃には日本細菌学会に入会していたが、四月初めに盛岡で総会・学術講演会があり、かの有名な「石割桜」が見られると喜び勇んで出立した。ところが彼の地の桜の開花は畿内より遅いことを全く考えておらず、ようやく辿り着いたら全て蕾のままであった。些か色褪せてきた冒頭の写真が、御縁のなかったその折の未だ桜咲かずの「石割桜」である。
 なお学会参加記念で配られた土産ではなかったと思うのだが、会場内で乾燥わかめの一袋を頂戴して盛岡から帰京した。ひたすら臨床畑を歩いて来た両親がわかめの袋を見るなり、基礎系の学会は飾り気なく質実なのやねえとしみじみと感心していた。

「石割桜」の話は、浅田次郎著の時代小説『壬生義士伝』において、主人公の吉村貫一郎が南部藩、藩校の明義堂で助教を務めていた時、将来を担って立つ藩校の子らに語り聞かせる檄にある。豊かな西国の子らに伍して如何に身をば立て国を保つべきかと教えたその言葉を末尾に掲げた。吉村貫一郎は下級武士ながら碩学、能筆であるとともに北辰一刀流免許皆伝で、やむにやまれぬ事情で脱藩した後に新選組隊士となり、その先々で仁義礼智信の五常を貫いて最期を全うした男である。誰に対峙しても何処にあるとも真直ぐに立ち、石割桜の石を割って見事に咲き散っていった南部の武士(もののふ)である。
「盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、北さ向いても咲ぐのす。んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねぞ。南部の武士ならば、みごと石ば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けて、あっぱれな花こば咲かせてみろ。」
(浅田次郎著:文春文庫『壬生義士伝』上, p401-402, 文藝春秋, 2002)



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木瓜の詩│『詩経』

2017-06-17 | アート・文化


月刊Will(WAC)巻頭の「朝四暮三」(加地伸行博士著)に、7月号では『詩経』衛風篇、《木瓜》第三章の詩句が掲載されていた。《木瓜》の全文は以下の通りである。

投我以木瓜 報之以瓊琚 匪報也 永以為好也
投我以木桃 報之以瓊瑶 匪報也 永以為好也
投我以木李 報之以瓊玖 匪報也 永以為好也
 
我に投ずるに木瓜(ぼくくわ)を以てす 之に報ゆるに瓊琚(けいきょ)を以てす
匪(か)れ報いたり 永く以て好(よしみ)を為さん
我に投ずるに木桃(もくたう)を以てす 之に報ゆるに瓊瑶(けいえう)を以てす
匪れ報いたり 永く以て好を為さん
我に投ずるに木李(もくり)を以てす 之に報ゆるに瓊玖(けいきう)を以てす
匪れ報いたり 永く以て好を為さん
(新釈漢文大系 第110巻『詩経(上)』, p178-179)

新釈漢文大系『詩経(上)』の通釈では、私に木瓜(ぼけ)の実(あるいは木桃、木梨)を投げてくれたから、美しい瓊琚(あるいは瓊瑶、瓊玖)でこれに答えよう、これできまり、末永く暮らそうという意が記されている。女性が思う男性に果実を投げて求愛し、男性がこれに美玉で答えることにより婚姻が決まるという、古代の投果の習俗を詠んだ男女贈答の詩との説明があった。
 東洋文庫『詩経国風』では、《木瓜》はまさしく「歌垣の歌」であること、「果物は自然の生命力を宿すもので、これを投げ與えることは魂振り的行為であり、その人への厚意を示す。」と記載されている。《木瓜》の詩を初めて知った時、私はつまらぬ扱いを受けても礼を以て返すべしと人を戒めた意味かと考えていた。なかなか捨てがたい思い込みであったが、残念にもそういう意味ではないらしい。
 脱線するが、生薬「木瓜(もっか)」はバラ科ボケまたは同属近縁種の成熟果実からえられる生薬であり、日本産の木瓜は同じくバラ科の落葉高木である花梨(カリン)の成熟果実であり「和木瓜」と称する。漢方の世界の記事(2015-01-21)で記載したので御参照頂きたい。

歌垣(うたがき)と言えば、筑波の嬥歌会(かがひ)に参加した男の立場で呼んだ万葉集にある歌を思い出す。歌垣は土地の男女が決まった日に集簇して、相互に求愛の歌謡をやりとりし終日「はっちゃける」のであるが、元来は豊作を祈る儀礼的意味を持つ行事である。筑波嶺に登りて嬥歌会を為る日に作る歌一首、「鷲の住む筑波の山の」で始まるこの長歌は、「この山をうしはく神の昔より禁(いさ)めぬわざぞ 今日のみはめぐしもな見そ 事もとがむな」(この山におわします御神が昔からお許し下さっている行事であるぞ、天下御免の本日は何事も目をつぶり咎めるでない)の過激な結びで終わり、その反歌は「男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや」(男神の嶺に雲が湧き上がりびしょびしょになっても誰が帰るかい)と高らかに宣言する生命謳歌である。
 さて射止めたい相手の心に響く歌を即興で詠むにあたっては、これまで培ってきた個人の諸々の力量、人間性や感性もが問われる。「誰も教えてくれなかった歌垣で相手の心をつかむ必殺技~衣かたしきにさようなら」などというハウツーものがその当時あったかどうかは知らないが、その場限りの小手先で誤魔化してもすぐに底が割れるだろう。全身全霊で相手の魂に飛び込んで行く他に術がないのは古今東西変わりはない。もっともそれを受け止めてくれるかどうかはあくまでも相手に選択権があり、それもまた今に至るまで同じである。

ところで今の職業について数々の学会総会・学術講演会や研究会、講習会に出席する機会を得たお蔭で、国内ならば北は札幌から南は鹿児島まで、全国津々浦々を訪問することが出来た。筑波もその一つであり、かの歌垣で有名な筑波山に登ろうと決心し、会場を離れてロープウェイ、ケーブルカーを乗り継いで山頂を目指したことがある。ようやく山頂に到達したら一隅には堅い根雪が残っていた。歌垣の御山にひとりで登るという無粋なことをしたのでさぞかし山の神様がお笑いになっているのだろうと思いながら、ひたすら寒い風に吹かれてまた下界に戻ったのであった。

参考資料:
石川忠久著:新釈漢文大系 第110巻『詩経(上)』, 明治書院, 2006
白河静訳注:東洋文庫518『詩経国風』, 平凡社, 2002
青木生子, 井出至, 伊藤博, 清水克彦, 橋本四郎校注:新潮日本古典集成『萬葉集二』, 新潮社, 1978


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「絵画の真生命」│速水御舟の画論を読む

2017-05-17 | アート・文化


「工夫が線路にづらつと並んでやつてゐる。やつてゐる中に唄を謡ひゝ歩調をそろへてくる。それをみてゐると職業も何も忘れてゐるのではないかと思ふ。あの気持ちがすべてを解決する。これは現実を離れた理想的な気持ちかもしれないが少くもあの行動は労働意識から出て来てない。労銀のことも考へなければ、悲観もしていない。作家としてもその時の心の状態に似たものがあります。」 (『絵画の真生命~速水御舟画論』、p213、中央公論美術出版、1996)

本年に読む機会を得た『絵画の真生命~速水御舟画論』の一節である。先に取り組んだ記事《きぬたを巡りて│其の三 子夜呉歌》(2016/12/4)において詩仙、李白の長安の夜の底から湧き上がる砧擣ちの音を歌いあげた詩興に触れた時、両者に一脈も二脈も相通じた境地を感じた。
 ついに上京する機会を逸したが、昨年12月の初めまで山種美術館では開館50周年記念特別展「速水御舟の全貌」が開催されていた。一時代を寡黙に歩み去って行った病弱な天才画家というイメージを勝手に抱いていた為に、本書において饒舌すぎるほどに展開する色濃く熱い画論表明は意外であった。改めて思えば、画家の内奥を一筋に貫き通す強靭な心棒の如きものなしに、これらの優品が産み出され気韻生動の感銘を観る者に与えることが出来ただろうか。
 しかも以下にさらなる語録を記したが、強調されているのは<「時代の感興」に作家が動かされて>である。「藝術は時代意識の現れになるかもしれない」との言葉もあった。画家が呼吸する時代、その時代が限られた者だけに開顕してみせる個々の事物の核心を感受すること、時代の精神を外からではなく内側からつかみ取ることの意義が本書では語られている。御舟が目指したのは、鑑賞者に見せる見られる為だけに汲々とした自己実現の枠に留まった画などではない。その画境は遥かに宏大無辺であった。

「要するに自己の感興を絶対として描ことが偽のない方法であると考へられる。時代の感興に作家が心から動かされ、真に、欲求するものを描くことが時代に即した藝術を作ると云ふべきである。」 p234

「今の人は意識的行動が多すぎる。西洋画の人でも意識してやろうとしてゐる。が絵画としては平凡に来たものが、その時代の心をもってゐるといふ現れ方の方が一番よいやうに思ひますが、あゝいふ意識的な運動は、次のものゝ現はれる前哨戦であって、其処には本当の霊(たまし)ひが稀薄である。」p210

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お母さん、謝らないで下さい

2017-05-14 | 日記・エッセイ


施設により多少の違いがあるが、小児の耳鼻咽喉科診療の際の姿勢は以下の通りである、まずは親御さんに医師の方を向いて深く腰掛けてもらい、膝の上に子供も正面を向かせて座らせる。両方の腕を胸の位置で巻き込む様にして、上体を胸に引き寄せて抱いて頂く。介助者は子供の頭部を両手ではさんで親御さんの胸に押し当てて固定する。足をばたばたとさせる場合は下半身を安定させる為に、親御さんに足を組んで挟んでもらうか、もう一人の介助者が子供の腰から大腿にかけてを固定する。確実に局所に異常がないかの見極めの耳鼻咽喉科診察の為には介助固定が必須である。また当初機嫌がよく聞き訳がよくても不意に動くことがあり、特に器械を用いた処置中に大いに危険であるからである。

その様に子供をホールドして頂きながら診察や処置を完了するのであるが、その間ひたすら「ごめんね。ごめんね。ごめんね。」と言い続けて、子供に謝るお母さんが時におられる。決して痛いことや阿漕なことをする訳ではない。それでも最後まで大人しく抱かれる子供がおれば、始めから泣き出す子供もいる。じっとお膝の上でお座りしておくことの意味を説いて理解してもらえる様な年齢ではない。お母さんはただただ泣き続ける子供が可哀そうで不憫になられるのだろう。しかし親御さんが動揺すれば必ずその不安が子供に伝わり、子供の動揺がさらに増幅する。小児の夜泣き・疳症や神経症から、近年は認知症の周辺症状緩和まで広く用いられる漢方方剤《抑肝散》の原典には、「子母同服(子も母も一緒に服用する)」との服用指導の記載がある。臍の緒がもはや繋がっていなくとも、その後も母親と子供の心身のあり様は深く関連しているのである。そこで子供を抱きしめながら謝るお母さんには是非お伝えしたい。
「お母さんが何も謝ることはありません。どんと構えてしっかり抱っこしていて下さい。大丈夫ですよ。」

子供に「ごめんね。」と謝って頂きたくない理由はもう一つある。いつぞや終始じっと大人しくお座りしていた子供が診察が終わるなり、「ぼく頑張った」と母親のスカートに顔を伏せて小さくつぶやいた時があった。私は生来、頑張る、打ち勝つ、負けないという類の言葉が大の苦手である。だが思わずこの時は「頑張ったね、偉かったね」と声をかけていた。

ずるずるの吸いこむ音が嫌だったけど、でもお鼻がすっきりした。
耳の穴をごそごそやられちゃったけれど、お耳がよく聞こえるよ。
なんだか怖かったけど、どうってことはないや。
ぜんぶ綺麗にお掃除できたもん。

そういう風に力強く乗り越えたこのたびの経験を小さな勲章にして、ささやかな自信を掴んでほしいと切に思うのである。成長なさった暁には、おばはん医者に診察を受けて大泣きしたことなどすっかり忘れているだろうから杞憂かもしれないが、謝られる様な嫌なことを無理やりされて我慢したというネガティブな印象を決して心に刻んでもらいたくはない。そして幼い頃の受診経験を成長過程の一里塚に、この先の人生にたとえ何があろうとも明るく踏み越えていって下さいと老婆心ながら祈る毎日である。
 Bon Voyage!

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作品のにほひ

2017-05-13 | 日記・エッセイ


昨今、作品自体を作り上げるよりも、作る側をアーティストとして造形したい作家をお見かけすることがある。一連の作品は己を演出する小道具であり、とことんこだわっておられるのはこれらの作品を生み出した「あたくし」である。だからどの作品を拝見しても其処からぬるぬると作家が顔を現してくる。芸家に限らない。どの道においても、私臭さを捨てるという事は何処まで行っても難しいものがある。

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月下渓流図屏風┃特別展覧会「海北友松」

2017-05-02 | アート・文化

京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会「海北友松」図録、京都国立博物館, 2017

話題の京都国立博物館開館120周年記念、特別展覧会「海北友松(かいほうゆうしょう)」(会期:2017年4月11日(火)~ 5月21日(日)、於京都国立博物館、平成知新館)に伺った。友松の後裔が記した「海北友松夫妻像」賛の友松伝には、「誤落芸家(誤りて芸家に落つ)」という武家の血脈と精神を有する武人と評されている。さらには時の体制に反旗を翻し友の亡骸を奪取したと語られる武勇譚のくだりも記されているが、絵師などに落ちる筈はなかっただの、血の匂いのする(ちなみに私は医家なので全く抵抗はないが)逸話だの、芸術家としては大いに異端で興味をかき立てられた。賛には多分に脚色や誤伝があるとあったが、真実どのような芸家であったのだろう。
 展示は第一章「絵師・友松---狩野派に学ぶ」から終章までの十章から構成されている。第八章「画龍の名手・友松---海を渡った名声」の照明を極度に抑えた仄暗い展示室に入れば、壁面の雲竜図から巨龍が浮かびあがる。闇に垂れこめた黒雲の中から顕れ出で観る者を殪さんとする龍に見据えられ、逆鱗に触れた覚えもないのに全身が総毛立つようであった。しばし部屋の真ん中で立ち竦むうちに、知る由もない海北友松の本性を垣間見せられたような心地がした。
 花卉図や竹林七賢図などでは描くにあたり逸脱を許さない現世の花や人の輪郭がある。だが現世には棲息しない異形(いぎょう)の霊獣である龍は、いや獣というには畏れ多く、生きものを遥かに超えた想像的景象である。それが故に画家の深層に横たわるイマージュが自由奔放なかたちで表出されて、万物の木地ならぬ画家の木地が顕露する。友松が描いた雲龍図には、乱世の風濤の中に一歩も引かぬという矜持とともに、断じて許さぬという撃滅や憤怒の意思が奔騰していた。

そして展覧会の最後尾に展示されているのが、雲龍図とは対照的な「月下渓流図屏風」である。歴史の彼方に散逸したかもしれない本邦の優れた芸術作品を、現在にいたるまで精魂込めて保存なさってきた海の向こうの関係者の方々に、この画を鑑賞させて頂いた一人として深く敬意を表したい。「月下渓流図屏風」は、茫洋、幽玄な佇まいの墨絵の中に、其処のみ写実的な彩色の椿(つばき)、土筆(つくし)、蒲公英(たんぽぽ)が点在する。月下の冷え寂びの幽境の中に妙に生々しい実に不思議な画である。色が置かれた花の点景を水墨画の中に置いて経営位置してみせた意についての説明はない。散らした扇面や色紙にしたためられている歌の意を汲めないと全景の意味が掴めない、貼交屏風の様な意味が込められているのだろうか。
 以下は図録冒頭で、京都国立博物館、山本英男学芸部長が記しておられる概説「孤高の絵師 海北友松」の一節である。 
「かくも友松の画が愛された理由は何なのだろう。ほかの絵師の画と何が違うのだろう。ひとつ考えられることがあるとすれば、それは彼ら文雅を愛する人々と友松がその思いを共有させていたからではなかったか、ということだ。言い換えれば、彼らの美意識を十分に理解した上で、それを画という形で具現できる良き友。それが友松に対する彼らの認識であり、評価だったのではあるまいか。和歌を詠み、茶も嗜むという教養人・友松であってみれば、ありえないことではないだろう。細川幽斎や中院通勝が彼を支援し続けたのも、智仁親王が彼を重用したのも、そうした信頼感に根差していたがゆえのことであったと思われる。」(図録 p.45)
 まさにこの絵師、ただものではない。作画注文の期待を遥かに超えてみせる力量を十二分に備えた絵師であることは勿論の事、己のセリングポイントと置かれた立場を熟知し、培った上質のネットワークを駆使して「海北友松」を商業ベースに載せている。言うなれば、その時代の風流貴人が属する美意識共同体の御用絵師としての友松が企画制作した、高級サロン文化圏との一連のコラボレーションが「海北友松」の画なのであろう。そして恐らくお仲間の彼等ならば、先の色絵の点景が担う符号の意なども当然のことなのに違いない。
 素人の最後の戯言として、「月下渓流図屏風」は友松晩年の画境におけるまことの到達点だったのか。時代の選良の美意識に塗り固められた閉鎖的なアウタルキーの中で、武人絵師が終生その界に留まり随順に有り得たのか、野次馬的な好奇心が尽きない所以である。

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ボクのこだわり

2017-04-08 | 日記・エッセイ


朝から霧雨が降り続く中、飼い犬まるを連れて散歩に出た。尾籠な話になるが、例によって草地でぐるぐると場所捜しが始まった。何度も渦を描いては此処にするのかと思いきや、また唐突に歩き出しては新たな場所を嗅ぎ出す。五回以上の探索の後、遂に満足がゆく地に至り腰を落ち着けて事が終了した。
 それを片付けながら却下となった幾つかの叢を振り返った。それぞれの何処が気に入らなかったのか、飼い主の眼には全く判然としない。二つ向こうの候補に上がった叢には小さな蒲公英が咲いていた。少なくとも其処は上にするのを憚って避けた、という筈がない。始末を付けて立ち上がると、本人ならぬ本犬は、早く行こうと言わんばかりの満ち足りた顔で当方を見上げている。例の場所の採択基準が一体何処に力点を置いて構成されているのか、この四月で九年の付き合いになるが未だに何も見えてこない。
 さて人間の世界に立ち返り、「わたしのこだわり」などとというものは他人(ひと)から見ればこのような類いなのかもしれない。どや顔で最良の選択だと悦に入るのも、そうではないものを掴んだと消沈するのも、本人が執着する程には端から眺めたら左程の違いはないのである。

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下剋上の翳

2017-04-07 | 日記・エッセイ


NHK日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ 等伯」(2月5日、NHK Eテレ放映)の京都智積院の長谷川等伯「楓図」と狩野永徳「檜図屏風」の障壁画の比較において、漫画家、おかざき真理(敬称略)が述べておられた見解が実に興味深い。御発言の概要は以下の通りである。
-------絢爛豪華な中で寂しく繊細な感じがする等伯画は共感性で読者を掴む《少女漫画》であり、狩野派は読むと元気になる《少年漫画》である。狩野派の「檜図屏風」はその前に戦国武将が似合う空間であり、等伯の「楓図」は寂しい気持ちを抱えた人間にここに居ていいよと言ってくれる空間である。-------

番組の中で、己一代で頂点まで登り詰めた等伯を評する「下剋上絵師」という言葉が出た。「下剋上」には限りない上昇志向を是とする陽性の駆動力がある。だが物極必反(物事は行き着けば必ず反対方向に転化する)であり、成り極まる過程において既に相反するものが台頭する序曲が始まっている。医学界に話を戻せば、かつて医学界の構造的問題を追求した社会派小説として一世を風靡した長編小説、山崎豊子著『白い巨塔』の財前五郎は「下剋上医師」である。野心と能力、重ねた努力ともに人並以上である新進気鋭の「下剋上医師」の栄光と蹉跌、物極必反の人生が余すところなく描かれ、主人公が終生携えてゆくルサンチマンの低音が小説に深い陰影をもたらしていた。ところで昨今の医療ドラマでは、スーパードクターが膠着した病態(個人および組織の)を打ち破り、一発大逆転の勝ちいくさにするといった描き方がやたら溢れている感がある。先の御見解をお借りするならば、観れば元気になる「狩野派」のプロットである。一般の方々が御覧になる場合はひたすら頼もしく映るからであろうか。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」は平家物語の有名な冒頭の一節である。本来、物極必反と同様に、諸行無常には滅びゆくものへの嫋嫋たる感傷や哀惜はない。あるのは森羅万象の消長平衡を俯瞰する、無情ならぬ非情の眼である。

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