My Tokyo Sight Seeing

小坂やよい

My Sight Seeing in Ireland 2

2007-07-30 15:01:17 | Weblog


私がアイルランドの歴史に惹かれるのは、日本の歴史の中で戦国時代と幕末が好きなの同じテイストかもしれない。激流の時代はとてもドラマテックだ。
アイルランドの場合、大英帝国とアメリカ合衆国が絡んでくるのでよけいに興味深い。
アイルランドを描いた映画は、そこら辺の題材がいっぱいなわけで、
映画を見ているうちに、政治的歴史建造物に出会える。

映画『父の祈りを』は、
1976年に実際に起こった冤罪事件と手記を元にした作品で、監督はダブリン生まれの社会派ジム・シェルダン。
IRAのテロリストと間違われ逮捕された息子と父親が収容されたのが、1795年に革命の闘志たちを収監するために建てられたキルメイナム刑務所。
獄中での15年の歳月で、父は静かなる闘いを貫くも病死、息子が再審判で無罪を勝ち取るまでを描いている。
キルメイナム刑務所は1924年に閉鎖されるまで民族運動の記念碑的建造物で、現在は内部を見学できる。
私が「ここに行きたいのだが」と、宿泊した5Wのメンバーに言うと、彼女は「なぜ行きたいのか」とけげんな顔で聞いた。
刑務所はダブリンの中心からかなり西にあり、バスに乗るとき、年配の乗務員に「キルメイナム刑務所に行くので、停留所に着いたら教えてもらえないか」と頼んだら、またしても「なぜそこに行くのか」と聞かれた。どうやら観光とはまたニュアンスが違う存在らしい。
チャペルから始まる内部見学ツアーは、刑務所内に入ると、この映画に出てくるそのまんま。実際の刑務所を真似てセットが組まれていたのだから当然なのだが、映画とダブって、普通の観光名所を見るときとは全然違ったインパクトがあった。

アイルランド独立の闘志を描いた『マイケル・コリンズ』。
マイケル・コリンズはアイルランドでは坂本竜馬的存在で、志し半ばで暗殺された悲劇の英雄的闘志。
1916年のイースター蜂起から、1922年アイルランド自由国成立後、独立を目指して共に戦いながら、その形を巡って二分し、同じ民族同士が殺し合いをしていく内戦までの期間を描いている。
映画の導入、イースター蜂起のシーンは、オコンネル・ストリートにある中央郵便局が舞台。シーズン中は観光客でごった返すメインストリートのひとつだ。
外部の柱にはそのときの銃撃戦の弾痕が残る。現在も営業がなされていて、内部の壁には蜂起の様子を描いた絵があるのが、いかにもといえる。
他にも、イギリスとの協定反対派の司令部となったフォーコーツ、協定が行なわれるシーンは、イギリスが統治していたダブリン城など、歴史名所が満載だ。

歴史的名所はないが、歴史を如実に理解させてくれるのが『麦の穂をゆらす風』。
第一次大戦が終わり、アイルランド独立を求め武装蜂起する義勇軍と、それを容赦なく弾圧するイギリスが派遣した治安警察。舞台はアイルランド南部のコーク州で、抵抗精神がもっとも強かった地域だという。
「マイケルコリンズ」とは違って、こちらは名もなき普通の人々が独立戦争に加わっていく過程を描いている。
弱者の側に寄り添うように立って、イギリス北部を舞台にした作品が多いイギリス人監督ケン・ローチが、「英国が帝国主義の過去と対峙するための小さな第一歩になれば」と作ったというから、さすが社会派監督。
リアルにもの静かに提示する作風ゆえに、訴える力が余韻として強く残り、私の最も好きな監督だ。
この映画を見るとIRAが起こる過程と、過激に走り市民から遊離していく様がよく納得できる。

他にも、
実在の障害者をモデルにした『マイ・レフトフッド』。
ディングル半島の美しい自然と対比させるかのように、村人を取り囲む宗教や愛を描いた『ライアンの娘』、
U2のエッジが出演していて、ダブリンにソウルバンドを作りたいと奮闘する青春ドラマ『コミットメント』等々、
アイルランドを描いた映画は、その社会や歴史に興味があるせいかどれも興味しんしんで見てしまう。



当ブログは今回にて終了いたします。
アクセスどうもありがとうございました。





My Sight Seeing in Ireland

2007-07-22 11:14:55 | Weblog


アイルランド・イニシュモア島

イニシュモアとはゲール語で「大きな島」という意味。
アイルランドの最西部にある島だ。
ゴールウィイからフェリーで渡ったが、快晴下にもかかわらず、すごい荒波だった。
日本では「アラン島」の名前で知られているが、はるか昔ドキュメント映画「アランの男」で世界的に有名になったからだ。
観光シーズには約900人の島の人口以上の観光客が押し寄せるが、
1日で観光できる規模なので宿泊者は少ない。

アイルランドはケルト民族でカソリックの国。
イギリスの統治でゲール語を禁止され、改宗しないならばと、荒涼とした西へと追いやられた歴史を持つ。端的に言えば日本と韓国の関係に似ている。
貧しさゆえ、アメリカやその他の国へ移住していった人が多く、一時は本国に残っている人口より、世界に散らばっている移住者の方が多かった時期もあったという。
ここからさらに海を隔てた西は、ニューヨーク。
アメリカ合衆国の歴史にとってアイルランド人移住者の果たした役割は大きく、
「go west 」,西へ西へというのはアイルランド人にとって希望を意味したのだろう。
アイルランドの古い歌には、そこらへんの状況を綴った詩が多い。

大ヒットした映画「タイタニック」は、ラブストーリー仕立てだが、
アイリシュ側から描いていたともいえる。
タイタニック最後の出港地がアイルランド南部のコークからで、
三等船室の船底にはアイルランド人移住者が多かった。
救命ボートが定数に満たないのを承知で出港して、
助かったのは三等船室以外の人が多かったのだ。
アイルランドではタイタニックで死亡したアイルランド人だけを集め、
その詳細が書かれた本が出版されていた。

アイルランドの中で最も過酷な自然条件の場所がここアラン島。
風が強く、岩だらけの土地なので、ジャガイモを育てるぐらいが精一杯。
「アイリシュ魂」とは不屈の精神を意味するが、こういう場所では不屈の精神を持たないですぐに諦めていたら、生き延びていけなかっただろうと思える。
アイルランドにアメリカ人観光客が多いのは、彼らの祖父母や曾祖父母の地をおとづれるという意味合いを持つ。
アラン島のB&Bで出会ったアメリカ人一家も、祖父母がアラン島出身なのだと言っていた。
飢えを避けるために出て行ったであろう祖先に比べて、この一家4人は、合計8人分ぐらいのウェートがあろうかと思えるほど、みんな見事な肥満体だった。



竹橋 国立近代美術館

2007-07-15 13:26:06 | Weblog

「アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌」

1908年フランス生まれ、20世紀最高の写真家の一人、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真展が、8月12日までここでやっている。
モノクロの印画紙に現れた世界は、
現実の日常から絶妙の瞬間を切り取ったスナップショットである。
「決定的瞬間」なる言葉を生み出したブレッソンならではの写真の数々。

「決定的瞬間」とは、1952年出版の写真集のタイトルからきているが、
これは英訳で、フランス語タイトルは「逃げ去るイメージ」だったという。
スナップ写真を撮っていて感じることは、まさしく、
うまく撮れたときは、私にとってはそれなりの「決定的瞬間」で、
シャッターを押す一瞬のズレが、「逃げ去るイメージ」だと実感する。
これこそ写真のおもしろさのひとつだ。

ブレッソンの洗練された、完成度の高い気品ある写真が好きで、
スナップを撮りたいと写真を始めたが、人を撮るのは難しい。
ブレッソンは「人の写真を撮るのは恐ろしいことである。何かしらの形で相手を侵害することになる。だから心づかいを欠いては粗野なものになりかねない」と語っているが、
私の場合、自分の勝手な趣味で、通りすがりの見知らぬ人を撮るときに感じる躊躇、弱気は確実に写真に出る。
欠いた心づかいや、感性という名の下の、撮り手の人間性もモロに出るから、
表現するということは常に恥かしさがつきまとう。
加えて最近は肖像権問題があるから、よけいに腰が引ける。
スナップを撮ることに迷いが出て、でも、やっぱり人を撮りたいと思っていて、
そこいらへんの気分の中途半端さも、カメラは写しこむようである。





My Sight Seeing in Hawaii

2007-07-08 12:18:13 | Weblog


旅行好きなのにハワイにはまったく興味がなかった。
だが、ハワイ好きのなんと多いことか。
そのよさを延々と説かれ、そんなにいいのかどうか、試しに行ってみようということになって、2年ほど前に行った。
大阪での高校時代からの友人5人で。
今はそれぞれ、東京3人、奈良、京都住まいながら、
ま、大阪のおばちゃんばっかみたいなもんである。

友人たちとは卒業、結婚、子どもができてとライフスタイルは変わっても、付き合いは途絶えることなく、以前は子連れで海に行ったり、今も各家にお泊りしたりだが、5人一緒での海外旅行は初めて。
しかも全員ハワイは未経験。

思うに、私の世代では、若い頃は1ドルが360円。
海外旅行は夢、中でハワイは‘憧れの’がついた時代だった。
一方で当時ハワイといえば、キャバレーの名前だったり、ウクレレ弾いてのムード歌謡、プレスリーの「ブルーハワイ」、そしてあの常磐ハワイアンセンターという健康ランドっぽいイメージがあったりで、ハワイについて何も知らないのに、日本でのイメージだけで興味を無くしていたのだ。
しかし、いつのまにか時代が変わって、1ドル120円前後、身近なハワイ。
旅番組などで見る現地人の民族舞踊としてのフラダンスは、力強く敬虔な雰囲気があった。
これは‘日本のなよなよとしたフラ関連’とはずいぶん違うではないか。と思った。

ちょっと前に映画『フラガール』を見て、常磐ハワイアンセンター誕生には、炭鉱の町興しの命運がかかっていたと知って驚いた。
テーマパークなってかけらもなかった時代に、しかも北の炭鉱の町にハワイアンセンター設立という発想はすごい!と今なら思う。
ま、そんなこんなで、もしかしたら、みんなが言うように、いいところなのかもしれないと期待しつつ行った。

滞在フリーのパックツアーは満杯だった。
若い女の子のグループが多く、意外やおばちゃんが少ない。
海外旅行しているおばちゃんたちはとっくにハワイは体験済みで、
韓流ブームの今、「おばちゃんはみな韓国へ行ってんねんで」、という見解に達した。

日程もないので、オアフ島ホノルル周辺だけの観光。
着いて翌日、おのぼりさんコースの半日リムジン観光することになったが、
朝から激しい雨で、どこへ連れて行かれても窓から雨を見ているだけ。
雨足が和らいで、唯一垣間見えた観光名所が、故 石原裕次郎邸とは‥‥。
ワイキキビーチはちょっと見ただけ。「ビーチボーイがいてへんがな」と友人。
ハナウマベイに泳ぎに行くが、皆かってよく泳いだ若狭湾ほどは乗り切らず。
最終日は自転車をレンタル。
料金1日設定のところ半日レンタルだからと、大阪のおばちゃんやから当然値切りまんがな。
日本語を操る怪しげな白人の経営者に、「次はママチャリ用意しといてな」と友人。

ワイキキ通りは日本人で溢れ、どこでも日本語が通じるので、海外に来たという緊張感がまるでなかった。
多かった女の子たちの目的は、ブランド物のショッピングだったらしい。
ブランドだからという理由で、皆と同じものをどうしてほしがるのかな、彼女たちはと、ファッションは個性の1つの表れと思っている私には、分からない。
そう、有名になった大阪のおばちゃんのど派手なファッションも、個性の表れではある、――とおもう。

ハワイのよさはオアフ以外の島にいかなきゃ、という通の言葉を体験する時間とお金がなくて、さわりだけのハワイ旅行。
そのよさはやはり分からなかったが、時間をかけて他の島を回ってみたいとは思う。
しかし「友人と一緒の旅行は友情の墓場」といわれる言葉は、無敵のおばちゃん5人には通用せず、久しぶりにメンツが揃って、1年分ぐらい笑いだめした感があった。
ハワイの印象が薄れるのも無理ないか。




羽田 羽田の祭り

2007-07-01 10:47:39 | Weblog


7月最後の土・日曜日に行なわれる羽田神社の夏季大祭、通称「羽田まつり」は
みこしの担ぎ手だけで3千人を超すにぎやかなお祭り。
日曜午後から行なわれる町内神輿連合渡御は、12町会12基の神輿が練り歩く。

毎年この祭りを写真仲間と一緒にモノクロで撮っている。
祭りそのものにはあまり興味はないのだが、
祭りの日の街や人は、羽田ならではのおもしろさで活気づいている。

祭りのみこしは、通称「ヨコタ」という担ぎ方で、
みこしを左右90度に傾け、ローリングしながら進む。
右の担ぎ手が跳ね上がると左の担ぎ手がしゃがむ。これを交互に繰り返す。
ダイナミックで荒っぽくてエネルギッシュな担ぎ方だ。
舟の上のみこしが波に揺れるさまからきているということで、
これはかって羽田が漁師町だったことに由来する。

今は羽田といえば空港。この祭りに行くまで漁師町だと知らなかった。
かって優良な漁場であった羽田浦周辺は、昭和30年から始まる東京湾の埋め立てと航路づくりのため、昭和37年に漁業権の放棄を余技なくされたという歴史があったのだ。

始めてここに写真を取りに来たのは、プリント教室の一環でだ。
教えてもらっていた人がここの祭りに関わっていたからだが、
集まっている人たちやみこしを担いでいる人たちを見て、
「お、すごい迫力」と、毎年訪れるようになった。

祭りとあって、男性はいきいきとしている。
各町内おそろいのカラフルなハッピ姿の女の子たちもみこしを担ぐ。
そこに混じっておばちゃんも。
真摯に担ぐ感動的な顔。
サングラスかけてこわもての男性、取るとめちゃめちゃ人のよさげな目。
あやしい面相。
背中一面クリカラモンモンの人が通りを歩いていることもあった。
もう、被写体だらけ。
「これはおおっぴらに人が撮れる!」。
カメラを向けても誰も何も言わない。むしろVサインに困るぐらいだ。

パレード前には各町内で担ぎ手が集まって飲食しているところへ案内され、ごちそうにあずかった。
みんな気さくな人たちばかり。
東京の下町といっても、浅草や深川、柳橋などとはまたちょっと雰囲気が違う。
育った大阪と似てると、地元の人に言うが、皆一様にノーコメントだったなあ。

2年前、この祭りの写真3人展を目黒のギャラリーで行なった。
そのあと、太田区役所と羽田公民館での展示依頼を受けて地元でも。
羽田の人たちが喜んでくれたことが、何よりうれしかった。
祭りそのものの写真が少なくて、期待とは少し違ったかもしれないが、
「みこし担いでるのはうちの息子の友達で」「この笛を吹いてる子はすぐ近所」と、
被写体となった人に写真を渡せたこともうれしかった。
今年からは宵宮風景に挑戦。


青葉台 團十郎邸 その2

2007-06-24 09:19:31 | Weblog

團十郎邸は都内でもとびきり閑静な住宅地にあった。
玄関脇の日本間に通されて待つこと数分で、稽古場に案内された。
取材はここで行なうとのこと。

稽古場から見通せる庭に目をやっていたとき、
「ここは十一代目が建てた家で」と支配人が言った。
ということは、ここは宮尾登美子が小説『析の音』で描いた、海老蔵の祖父十一代目團十郎が住んでいたということ!
『析の音』は、市川家に奉公に上がった女性が、不出世の名優とうたわれた十一代目に仕えるようになって、その後、妻となった実話をモデルに書かれている。
熱中して読んだその本の舞台の一端がこの家かと、歴史的建造物を見る目になる。

ほどなく、白のTシャツ姿の海老蔵が現れた。
挨拶を終えると、すかさず支配人が海老蔵に「〇〇会の方に入ってられる方で」と、小さな声で私を紹介する。
言葉はないが、ほんの一瞬、「あ、そう」といったようなリアクションが。
私の入っている会は團十郎親子を応援する会で、海老蔵個人のファンクラブとはまた趣きが異なる。
といって、それがこの場合どう作用するのか‥‥。

そして、取材は始まった。
まず、レジメ通り、5月の海老蔵襲名披露公演で感じたことを聞く。
「多すぎて分かんない」。
え?、それだけ。まいったなー。
それでも何かあるのではと、粘る。
「いっぱいあったからねー」。
本題である信長公演についても、
「まだ台本できてないから」。
これが、海老蔵は取材で話さないと言われていることかな、と予想していたとはいえ、
私の中で一気に緊張が増してしまった。
それでもめげてはいられない。

実をいうと私は、能は好きなのだが、歌舞伎は海老蔵ファンになってからなので、詳しいとはいえない。
海老蔵に関する本や演劇評、歌舞伎の本、ビデオなどをさかのぼって漁ってはいたが、じっくり頭に入っているとも言い難い。
取材中に固有名詞や役名など、ちょくちょく間違った。
「微妙に間違うよね」と海老蔵につっこみを入れられる。

しかし、心もとない取材ではあったが、中盤あたりから、彼の持つ信長像を、テレビで演じた武蔵観を、邦楽教育をと、話しだすようになった。
世界に通用する逸材ゆえ、日本の伝統文化の、海老蔵という歌舞伎役者のすばらしさを外国に知らしめてほしいと思っている私の思いに、
「分かってる。負けないって」。
このときはうれしかった。
冒頭で「多すぎて分かんない」と答えた質問にも、「だからこうこう、こういう訳で感じることがいっぱいあって」と、最後のほうでちゃんと説明してくれた。
「ファンになっている」とプランナーに言われながらの取材制限時間がきて、終了したとき、
「今日はよく話しましたよ」と、支配人が私たちのそばに来て言った。

海老蔵は歌舞伎界の市川宗家という恵まれた環境にあっても、すんなりと歌舞伎役者になったわけではない。
多感な思春期には進路について悩み、紆余曲折もあったようだ。
本気で歌舞伎役者を志してからの飛躍は、DNAだけではけっしてないと思う。
よくいわれているのが、鋭い感受性、研究熱心で繊細にして大胆な役作り。
何より、あの目力はハンパじゃない。
「‘歌舞伎界のプリンス’なんてヤワな形容詞はこの人には似つかわしくない」と書いた原稿の部分は、‘歌舞伎界のプリンス’、‘歌舞伎界のプリンス’と言っていたプランナーによって、削られた。




青葉台 市川團十郎邸 その1

2007-06-17 12:42:04 | Weblog

百年に一人の歌舞伎役者といわれる市川海老蔵のファン。
十一代目海老蔵を襲名した年、私に海老蔵取材の仕事が舞い込んだ。
「こんなことってあるのー!」。

取材日まで幾日もなかった。
海老蔵の取材は難しい、という風評があったらしく、
制作会社が歌舞伎に詳しいライターを急ぎ探していた。
後援会に入るほどの海老蔵ファンであることを、周りに触れ回っていたので、
デザイナーの友人が「誰かいませんか」と聞かれて、私を押してくれたのだ。

「受けます、大丈夫です、その日空いてます」と返事した翌日が取材日前日。
制作会社に行き、制作会社担当者、デザイナー、プランナーと打ち合わせ。
プランナーが構成見取り図を説明する。
最後の最後に言われたのは、
「最悪、話をしてくれないようなら、一問一答形式でもいいですから」と。

「海老蔵は取材で話さない」という評判が立っていたようだ。
それは推察できた。
というのは、以前大阪公演の幕後、團十郎、新之助(当時)親子を囲んで、
後援会との食事会に出席したことがあって、そのときの感じからなんとなく。
お父さんは終始にこやかに各テーブル挨拶に回っていたが、
海老蔵は遅れてやってきて、だんまり、固い表情で、早々に引き上げてしまった。

芸能人の取材はけっこう大変である。
いくら宣伝のためとはいえ、取材者は違えども同じことを聞かれたりして、
うんざりしているので、取材対象者がサービス精神旺盛な人柄か、
質問がツボにはまるかしないと、あまり積極的に喋ってくれない。
取材者の技術によるところも大いにあるのだろうが‥‥。

当日、團十郎邸近くのファミレスに関係者が集まった。
クライアントの企業側担当者、請負親会社から2人、子会社のプランナーとその上司、
海老蔵側の窓口として松竹から劇場支配人、私で計7人。
これにカメラマンと助手、制作側を入れるとなんと11人が、この仕事に加わっている勘定。
普段、カメラマンと編集者と3人で仕事、多くてクライアントがはいって4人という形態しかしらないので、
この人数だけでもプレッシャーがかかる。

クライアントから一番下の私のところまでの間に、横に漏れていくお金の多いこと!
ま、丸投げでこのようにして仕事は動いているという、見本か。
でも、海老蔵取材だからギャラなしでもいいところ。

その席でも、劇場支配人が「話さないんですよねー」と言った。
受けた当初は驚きいっぱいだけだったのが、このころには不安が増していて、
この一言がだめ押しみたく、ワァーと広がる。
でも、もう後に引けない。
で、團十郎邸へ向かう時間となった。 




国立 ロージナ茶房

2007-06-10 15:05:19 | Weblog


国立は不思議な魅力を持つ街だ。
駅南口、大正15年に建てられた赤い三角屋根の駅舎と、
その前から続く大学通りが、街の顔ともいえる。
大学通りは50mぐらいの超幅広の道路。両脇は見事な桜並木。
その道路を中心に放射線状に道が作られていて、閑静な住宅地が控える。
画廊と喫茶店が多く、教育熱心な住民が多く、
教育費にお金がかかるから出前を取ることが少なくて、すし屋はすぐに潰れるとも聞いた。

関東大震災で校舎を焼失した東京商科大学(一橋大学)が、移転地探しを小平学園都市を作った箱根土地(株)に申し入れたことから、開発が始まった。
その後、国立音楽大学や桐朋学園などが次々に移転、学園都市に。
大正末期に理想的な郊外都市の建設を目指して作られたというベースは、
街が発展して店舗が軒を連ねるようになっても、すっきりと整って、落ち着きのある街を可能にした。

その国立で昭和28年から営業しているロージナ茶房。
国立公民館ができるまでは公民館代わりに人が集まり、学生がゼミの教室代わりに使い、フロアのピアノを音大の先生や生徒が弾きと、サロン的役割を果たした歴史ある店だという。
店内は当時とさほど変わっていないのではないかと思われるほど、
今となっては店の全てが古めかしいのだが、けっこう客が入っている。
カフェ全盛の昨今、他の街なら、置いてきぼりをくった喫茶店になりかねない。
画家だったオーナーは、「店は客が作るもの。客が店に埋没しない、誰にとっても場違いでない店です」と以前に話していて、なるほどなと思ったことがある。
だが、客ではなくて店が埋没しそうな今の時代に、こういう店が健在であるということが、いかにも国立らしい。

店がある場所は、国立ではめずらしく路地のような趣きがあって、
一画は個性的なショップが立ち並ぶ。
ロージナ茶房の隣は、これまた昭和30年代オープン当事のままだという喫茶店「邪宗門」。
営業してるのかしてないのか分からないような外観で、扉を開けて入るのは少し勇気がいりそうだが、
薄暗い店内には船ランプや火縄銃、柱時計などの骨董品がぎっしり。
オーナーは元船乗りでマジシャンというユニークさ。
いずれもかって国立での喫茶文化を支えてきた店だ。



西荻窪 沖縄料理うんじゃみ

2007-06-03 16:56:02 | Weblog
沖縄と沖縄料理と沖縄音楽が好き。
ソーキそば、ゴーヤチャンプル、海ぶどう、島ラッキョウ、島バナナ、
数え挙げればきりがない。
ここ‘うんじゃみ’は、駅から1分、よく利用する。
田芋のコロッケでオリオンビール、最高です。

初めて沖縄にいったのが、八重山諸島の石垣島。
以来、一度は住んで見たい場所になった。
別にダイビングするわけでなくて、せいぜいシュノーケル。
リゾートやアウトドアよりは、知らない街をブラブラする方が好きなのだが。

旅行した街なり国がなりが好きになるのは、そこで何らかの感動を受けるからだと思う。
感動といっても大げさなものではなくて、ごく日常的なありふれた光景から。
私の場合、それは人に尽きる。

旅行して好きになった筆頭はアイルランド。親切でフレンドリーな人が多いのに驚いた。
列車に乗ると、隣り合わせた見知らぬ同士が気軽におしゃべりしている。
道路で地図を広げていると、「道に迷ったの?」と声をかけてくれる。
住宅地で道に迷って、車から出てきた女性に尋ねると、「駅から歩いてきたのか」と聞いた後、
‘それは大変だったわね’という表情で、目的地まで車で送ってくれたことがあった。
ホテルの予約を取るために、駅からインフォメーション・センターまでタクシーに乗ったら、
予約後ホテルまで乗せてあげるからと、メーター倒して待っていてくれたことも。

ダブリンの街中で、赤ん坊を抱いたジプシーの物乞いに、親しげに話しかける地元の人を見かけたり、
募金集めに立っている人に、男の子を連れた母親らしき人が、小銭が詰まった缶を差し出していたり、
それらが、日常的で自然な行為に見えたことに感動。
海外では治安上用心しなければならないことは多いが、
多分どこの国でも人々は、要注意人物と同じぐらい、親切な人も多いわけで。

東京では、シャイな日本人気質のせいなのか、おせっかいを嫌がるからなのか知らないが、
袖触れ合う程度の他人同士が気安く話をするという場面に、あまり遭遇したことがない。
大都会だからなのか、東京は人と人との距離が遠いように感じる。

その東京から沖縄に行くと、人懐っこい笑顔や話し方の沖縄の人たちに接して、
なんか気持がトロンとくつろぐ。
これを南国特有ののんびりした雰囲気というのかはともかく、
フレンドリーって、とっても感動的なことだと思う。




My Sight Seeing in etc.

2007-05-27 13:02:17 | Weblog

鈴木道彦・著 「越境の時 1960年代と在日」

この本の著者はフランス文学者。1960年代から70年代にかけて在日の人権運動に関わった。
1958年に二人の日本人女性を殺害し死刑となった在日が、獄中で支援者と交わした往復書簡集から衝撃を受けた著者の、以後、1968年、金嬉老事件(ライフル銃を持って旅館に立てこもり日本人による在日差別を告発)の8年半に及ぶ裁判支援までの回想記だ。
60年代に、なぜ在日の問題を日本人の問題として自ら関わったのか、その過程がていねいに書かれていて、引き込まれる。

同じ時期に私は大阪で、住んでいた駅から4駅目が‘鶴橋’という在日の人たちが多い場所の近くで育った。
在日という言葉は当たり前のごとく存在し、なぜ在日問題があるのかといったことには、皆目関心がいかなかった。すごく鈍感だったと思う。
学校の歴史授業にしても、江戸時代まではていねいに進み、近代史は時間がないからとさわりだけ、日本の中国、朝鮮半島支配はすっぽ抜け。故意に教えなかったのではとも思えるが。だから、自分から知ろうとしない限り空白だった。

私が子どものころ、父は時々在日への差別用語を口にすることがあった。
当時の大阪の風潮としては、さほどめずらしいことではなかった、と思うのだが‥‥。
韓流ブームが起こる前、韓国映画に魅せられて周りにそのよさを説いていたが、まったく反応が鈍く、私と同世代、同じ大阪で育った人の中には、子どものときの在日に対する感覚が尾を引いて、興味がもてないという返事もあったぐらい。

しかし「冬ソナ」が劇的に変えた韓国への関心度。
この本で書かれている時代は、一昔前のこととなってしまった。
著者は「パッチギ!」を見て、金嬉老事件と同じ時代設定なのに、そこに流れている明るい空気は信じられないぐらいだった、と書いている。
かって著者が困難な状況の中で乗り越えようとした日本人と在日の境界線。
「冬ソナ」から韓国に夢中の人たちにも、より広範な韓国及び朝鮮人と日本人の関係を知る上で、辿ってほしい本だ。