残り火のぬくもり

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覚書 中国映画史 作品28 42年度 塞上風雲 抗日映画 応雲衛  陳天国 周伯 千原しのぶ死

2009年11月25日 12時35分03秒 | Weblog
覚書 中国映画史 作品紹介28 1942年度 塞上風雲 抗日、民族団結映画 青青草羊躍躍 応雲衛 黎莉莉 舒绣文 陳天国 周伯 呉茵 千原しのぶ死去

一九四二 中国

2月 四〇年一月から制作の陽翰笙脚本、応雲衛監督「塞上風雲」(中制)ようやく上映を闘いとる。
4月 日本投資の中華定形の出資で張善琨らの「新華」「芸華」「国華」「金星」など12社を合併して、中華連合制片公司(中聯)を設立。四二年一年間に約50本の映画を制作。
5月 毛沢東「延安における文芸座談会の講話」を発表。


1942 日本

11・大東亜省設置

主な作品

3・将軍と参謀と兵。4・緑の大地。間諜未だ死せず。待って居た男。5・維新の曲。
8・伊賀の水月。マレー戦記。9・空の神兵。南の風。12・ハワイ・マレー沖海戦。富士に立つ影

   塞上風雲 (1942)

 監督:応雲衛 脚本:陽翰笙
 主 演:黎莉莉(狼山喋血記参照) 舒绣文(女児経参照) 陳天国 周伯 呉茵(新女性参照)

   塞上風雲 (1942)   故事梗概

 日本軍の中国侵略目的は、“七·七”事変(1937 盧溝橋事件)以後、漢蒙両民族の関係を両断し、内蒙古地区を破壊し、内蒙古を占領することにあった。
 漢民族の青年、丁世雄(陳天国)は遼寧省から内蒙古の草原に亡命していた。彼は蒙古族の友達、浪桑といつも密かに連絡を取り合って、抗日問題を論じあっていた。浪桑の妹、金花(黎莉莉)は丁世雄を愛していた。彼女の婚約者、迪鲁瓦(周峰)は丁世雄に嫉妬していた。
 軍馬を買い付けに来ていた日本特務長(周伯)は、当地の実力者王家に特務機関を置き、ラマ教徒に化けてはいたるところで煽動し、デマをまき散らした。迪鲁瓦が丁世雄をよく思っていないことを知ると、特務長はそれを利用してモンゴル族と漢族を挑発してことを起こそうとたくらむ。ついに金花と浪桑の兄妹を逮捕した。迪鲁瓦の妹の羅安姫(舒绣文)は蒙漢団結の大義を説く。人々は浪桑と金花救出に立ち上がる。日本特務長を討ち果たしたが、金花は不幸にも死んでしまう。

   監督 応雲衛  俳優 陳天国  周伯

  応雲衛 演劇界出身の映画監督

 字雨辰,号楊震。原籍浙江慈溪,上海生。
青少年時代より演劇をこよなく愛し、1921年10月、黄炎培、沈鈞儒の資金援助を受け、上海戯劇協会を創設、監督と俳優を兼ねた。
1934年、明星影片公司で映画、《桃李劫》、《生死同心》を監督。
その後、話劇で活躍していたが、抗日戦争爆發後,武漢、重慶で活躍。
1939年秋,重慶で陽翰笙原作の話劇を原作に、《塞上風雲》を撮った。
皖南事変後,《大地回春》、《天国春秋》と《孔雀胆》を演出。
1942年,郭沫若原作《屈原》演出。
抗戦勝利後,上海国泰影業公司の招聘をうけ,《無名氏》《憶江南》を監督。
1946年、重慶で《升官図》監督。
1948~1949年,《鶏鳴早看天》、《喜迎春》、《宋士傑》、《追魚》等監督。
また、沪劇《自有後来人》、甬劇《半把剪刀》、越劇《関不住的姑娘》と方言話劇《啼笑姻縁》等を演出。

   俳優 陳天国  周伯

  陳天国  "文革"中迫害受け自殺

原籍安徽.瀋陽馮庸大学を終えた。
九.一八事变後,演劇活動にはいる。
1932年、北平から上海にうつり、1935年、天一影片公司に入り映画「海葬」の漁民二毛を演じる。
1936年、新華影片公司に入り、「小孤女」では酒鬼,「青年進行曲」では愛国学生,「黄海大盗」では梁永年,「貂蝉」では李䔥を演じた。
1939年在、重慶の中国電影制片廠で、「好丈夫」の某先生,「塞上風雲」の丁世雄,「血溅桜花」の山田桃太郎を演じた。
また、話劇「霧重慶」,「[天国春秋],「大地回春」等を演出。
1946年以後は、上海の映画会社で、「鶯飛人間」の任雲,「第五号情報員」の王克雄,「六二六間諜網」の周隊長,「血溅姉妹花」の探長,「珠光宝気」の魏天龍,「女賊」の徐志祥等を演じた。
1957年、"右派"の汚名を受け、"文革"中もまた迫害にあった。
1967年12月、杭州霊隐寺で自殺した。

  周伯 映画製作畑の名脇役

 原籍陕西臨潼,1911年3月西安生。
1930年、上海复旦大学で演劇、電影芸術理論を学ぶ。
電通の総務、劇務、宣伝、発行部門の行政の仕事をこなした。
1938年、重慶に行き、中国電影制片廠劇務科長と俳優の仕事に就いた。
抗戦勝利後,上海の連華影芸社で、映画《八千里雲和月》の制片主任を努めた。
40年近い映画生活の中で、40作ほどの映画製作に携わった。銀幕にあっては、資本家、土豪劣紳、土匪强盗、反動軍军官等十役柄ほどの助演を努めた。我国映画界にあって、著名な老練な脇役である。,文革前に健康を損ねて引退した。


  覚書   抗日、民族団結映画 「草原千里閃青光 青青草羊足躍躍」

  抗日、民族団結映画 

 脚本家の陽翰笙は、“813” (1937)上海抗戦が勃発するや、この映画のシナリオを書き上げたが、時局の変転によって映画化はならなかった。40年1月から映画化に取りかかり、9ヶ月かけて完成したが、国民党の妨害にあって直ちに公開はならなかった。1942年、やっと上映を闘いとった。この映画が上映されると大きな反響をよんだ。中国は多民族国家であるが、国民党支配のもとでは民族同士が互いに蔑視、圧迫しあう政策をとってきていた。この映画で人々は各民族が一致団結して抗日に当たってこそ、真の民族解放が実現できると知ったのである。

「中国経典老电影」(经典珍藏版 福建省広播影視集団 福建省音像出版社)(102部DVD)に収録されているこの映画には、なぜかタイトルがない。スタッフ、キャストはある。

  「草原千里閃青光 青青草羊足躍躍」

 冒頭、内蒙古が画面に映し出される。写真で見慣れた成吉思汗廟も映し出される。字幕に、
「成吉思汗的霊寝」
「在伊克昭盟伊金霍洛」
とでてくる。
この映画の舞台を示している。
 「伊克昭盟」ははじめて聞く名だ。地図などで調べてみる。今の鄂児多斯市である。
 「盟」とは盟旗制度にもとずく行政単位で、その下にいくつかの「旗」がおかれた。清朝時代には内モンゴルに六盟がおかれ、「伊克昭盟」(イフジョー盟)もその一つである。
 「伊克昭盟」とは「漢意为大廟」である。「大廟」は「成吉思汗的霊寝」をさしていよう。「成吉思汗廟」からとったものとみえる。民国後に綏遠省が設けられ、伊克昭盟ができた。中共後は,內蒙古自治区に入れられ今日に至っている。2001年、国務院は伊克昭盟を廃止し、鄂児多斯(オルドス)市とした。
 「伊金霍洛」は鄂児多斯市に属する旗で、2007年現在、人口151,603人である。
 「伊金霍洛」は内蒙古自治区包頭に南、鄂児多斯市よりさらに南に位置する。「成吉思汗陵」はもっと南で、峡西省との省境にある。伊金霍洛旗はモンゴル語で「君主の聖地」の意だという。
「塞上風雲」の塞は、「万事塞翁が馬」でおなじみの「塞」で、「険要の地.辺境の地」という意だ。
 約70年前のこの地方は、果てしなく続く砂漠地帯と草原地帯だ。仔牛が乳を吸う牛の群れ、草をはむ馬の群れ、砂丘を歩む痩せた駱駝の群れ。じつに長閑な草原地帯、美しく豊かな草原地帯が紹介される。去年、海拉尔草原に行った時は、羊の群れや馬の群れを見ることがほとんど出来なかったが、この「伊金霍洛」地方には、かつては駱駝や牛馬、羊は豊富にいたのであった。
 白黒の画面ではわかりにくいが、陰山山脈がうねったところに広がる草原は、「陽の光を受けて遠くまで蒼く光って見える。草は青々と生い茂り、羊は元気に飛び跳ねている。魯倫河畔に歌声が揚がる」と挿入歌にはある。美しい草原が彷彿される。
 風光だけでなく、この映画を通して当時の蒙古民族の生活もよくわかる。彼等の日常の挨拶は実に丁寧だ。親友同士であっても両手を組み、深々と頭を下げて「你好!!」と三度も挨拶をする。身分の上の者には、我が家であっても床に跪いて挨拶をする。主は茶を献じるのがもてなしの一つであるが、身分ある者はマイカップを持参しているのであった。
 成吉思汗大典に各地から人々が集まってくる。成吉思汗廟、中国語では「成吉思汗的霊寝」または「成吉思汗衣冠塚」という。成吉思汗の日常見回り品を埋葬してある塚(廟)というわけである。「成吉思汗衣冠塚」は蒙古民族の精神的よりどころだという。
 大典に集まってきた人々は各自パオを組み立てていく。雑然と方々にあるパオは美しく見えないが、ものにこだわらない草原の人々に心持ちが伺えて興味深い。
蒙古族の人々は友人を歓迎して、包の外、月明かりの下で和やかに歓談し、飲んだり踊ったりしている。
 昨年、呼倫貝児草原で包に1泊したことがあったが、その包はコンクリート造りの観光客用の包で、雨漏りがする粗雑な造りであった。1泊400元はぼったくりであった。100元前後相当であったろう。
 来年、西安を振り出しに、洛陽、大同、呼和浩得、包頭との旅を考えているので、ひとしを引き込まれて見入った。さて、70年たった現在はどのように変わっているのだろうか。気になるところだ。

 附記・女優・千原しのぶさんが死去…姉御役から花魁まで

 また、我が国の時代劇を支えてきた俳優が一人亡くなった。千原しのぶである。彼女は、東映時代劇で、片岡千恵蔵、月形龍之介、若手の東千代之介、中村錦之介、大川橋蔵などの相手役をつとめ、花を添えた女優であった。花柳小菊のあとを継ぎ、大川恵子、丘さとみ、桜町弘子にあとをまかせた女優であった。死去の報は、わずかにつぎの読売の記事だけである。寂しいことだ。そういう当方も、1974年に那覇市で呉服店開店。のちに京都市で高級オリジナル呉服を扱う「しのぶ好み」を経営。全日本書芸学院副理事。」ということを今回初めて知った。

 ご冥福を祈る。

 「千原しのぶさん(ちはら・しのぶ、本名・石原知子=いしはら・ともこ=女優)22日、肺がんで死去。
 78歳。告別式は24日午前11時、京都市中京区西ノ京南大炊御門町10セレマシティーホール西ノ京玉泉院。喪主は妹、石原さつきさん。
 1952年、東映に入社。同年、片岡千恵蔵主演の映画「忠治旅日記あいぞめ逢初道中」でデビュー。元気な姉御役からおいらん花魁まで幅広い役をこなし、主役の相手方を多く務めたため、「お姫様女優」とも呼ばれた。」

(2009年11月23日11時00分 読売新聞)






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