高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

最後まで残った木造国電 サエ9320 (静チウ) (蔵出し画像)

2015-12-19 23:47:55 | 旧型国電
 さてこちらは、当時飯田線詣でをしていたファンにとっては有名な豊橋機関区中部天竜支区 (後の佐久間レールパーク) の救援車、サエ9320。最後まで残った木造国電(?)... (というよりは木造電車というべきか) として有名だった存在ですが、残念ながら結局解体されてしまいました。元々は伊那電鉄の生き残りで、最後まで飯田線に残った買収国電の痕跡車輌でもありました。

 機関区の片隅に何か変なものがある、とよく知らずに写真を撮った方も多いかも知れません。





 さて、以上の写真は他でも撮った方は多いと思われますが、ではモデラーの方向けに反対サイドの写真をどうぞ。そして床下のトラス棒も...ってこの車輌、鉄道模型にしようというモデラーがいるのかなぁ。あなたのお宅の車両基地にも一家に一台、サエ9320をどうぞ!って?



 大正十三年、日本車輌東京支店の製造銘板も風格ですね。

 なお、サエ9320の車歴ですが、
1924.3日本車輌東京支店製造 (伊那電気鉄道 1 [3代目]) →1926.4.9 サロハユニフ101改番→1937.9.1 サハユニフ101に改番(2等廃止) →1943.8.1 国鉄買収・静トヨ転属→1944.4静ママ→1952.5救援車改造(サエ9320)静チウ→1978.10.1静トヨ→1979.8.2廃車

 買収後なぜか一旦豊橋 (元々は豊川・鳳来寺鉄道の電車庫) に移動しています。当時天竜峡以南が1500V以北が1200Vで、電動車は天竜峡で交代しトレーラーのみ直通という運用をやっていたらしいので、おそらく国鉄買収で少しでも合理化しようと集約されたのかとも思われますが、やはり検修や運用等で不都合があったのでしょう。すぐ伊那松島に戻されます。

 車歴情報の情報源は、「飯田線(上) -買収国電を探る(12)-」「飯田線(下) -買収国電を探る(13)-」『鉄道ピクトリアル 日本国鉄電車特集集成第1分冊』、「伊那電気鉄道の電車」Wikipedia日本語版です。

 因みに上記Wiki記事によりますと、「サロハユニフ」という良くわからない車種記号は、伊那電特有の制御機能のない「後付付随車」という車輌のようです。要は電動車を乗客を乗せられる電気機関車のように使い、本車は「電車」に分類されていたとは言え、実質車掌室付客車だったわけですね。しかしかつては2・3等客室に荷物・郵便とてんこ盛りのスペックだったという珍車でした。


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2 コメント

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伊那電気鉄道「サロハユニフ」 (原口 悟)
2015-12-23 16:14:22
伊那電気鉄道の「サロハユニフ」は最近ではRP誌の合造車特集でまとまった記事が掲載されています。

何故「後付付随車」になったかについても考察があり、4社直通運転をするに当たって伊那電気鉄道、三信鉄道、豊川・鳳来寺鉄道で制御方式に違いがあり、違う制御方式に体操する制御装置が付けられなかったために「後付付随車」としてぶら下がる方式になったそうです。
また、「フ」の記号は厳密に車両の機能を見ると余計だったそうで、これは客車の荷物車が「スニ」や「マニ」で「フ」の記号が付いていない理由とも一致するのですが、荷物車には後のスニ40型を例外として荷物管理のための専務車掌が必ず乗車しており、車掌が扱う手ブレーキ機能も必ず付けられるため、「荷物車」であることは車掌が乗車し、緩急機能があることは「自明」である、ということで、「フ」の記号が省略できる、と解釈されます。

後付付随車は最近(とはいっても数10年前になってしまいますが)では上田交通が有名でした。1980年代前半に東急旧5000系のサハが「クハ」に改造されて導入され、この時に「牽引サハ」の形態が無くなったとされています。
re: 伊那電気鉄道「サロハユニフ」 (管理人)
2015-12-23 18:01:23
最近のPR誌に合造号増車特集があったのですか。ちょっと探してみてみます。

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