伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

離婚と通販

2012年06月19日 | エッセー

 テレビから流れる音を聞くとはなしに聞いていたら、急に気分が暗くなった。
 なにかの芸能ニュースで、松田聖子の再々婚を報じていた。世代も違うし、彼女自身に対しては何の感慨もない。芸能人のプライベートな出来事に特段の興味も湧かない。50を過ぎてのそれであろうとも、平均寿命の延伸を徴すればあながち年甲斐もなくともいえまい。
 気鬱になったのは「家族、そして娘、神田沙也加からもあたたかい祝福と応援の言葉をもらい、その言葉を胸に心を引き締め頑張ってまいりたいと思います」とのコメントに及んだ時だ。
 なんでもアリーノが芸能界だとしても、ここまで破鏡や再婚を能天気に語っていいものだろうか。他人の娘(戸籍上はそうだ)まで引っ張り出して、自らの失敗履歴に裏判を押させていいものだろうか。「あたたかい祝福と応援の言葉」は、過去2度にわたる破鏡への肯定的理解を前提に発語されなければ理路が通らない。しかも恐ろしくも哀れなことに、娘は実の父親を足蹴にするという捩れたトポスに追い遣られている。少なくともこういう場合、別れた娘を引き合いに出すべきではない。それは最低限の大人のマナーだ。
 続けて、「驚きの後、次第に祝福ムードが広がっている」とも伝えていた。和田アキ子はラジオ番組で「昔だったら『ババアがなにやってるんだ』という感じだけどね。違和感を感じないね」と述べ、タレント議員の三原じゅん子も「おめでたい話。生涯の伴侶と出会えたのですね。いいな。お幸せに」と祝福したそうだ。ますます気が滅入る。和田が違和感を感じないのは、テメーが『ババア』であることを単に忘れているからだ。三原クンには悪いが、「生涯の伴侶」に3人も出会うはずはない。両方ともメディアに載せるような御託ではない。
 内田 樹氏が「「街場の現代思想」(文春文庫)で洞見を披瀝している。

◇「離婚のカジュアル化」と『通販生活』に共通しているものとは何か? それは「リセット可能性」である。どれほど貴重なものについても、「使ってみて、ダメだったら、他のものと交換する」ことができる。それはある意味たいへんに「贅沢なこと」である。しかし、どんな便利なものにも必ず欠点はある。「リセットが利く」ということは「最終的な決断」が不要になるということである。「使ってみてから、それがほんとうに自分が欲していたものであったかどうかを知る」ことが許されるということは、「使ってみるまでは、それが自分にとってほんとうに必要なものであるかどうかを真剣に吟味しなくてよい」という怠惰が許されるということである。そして、怠惰であることが許されるとき、私たちは必ずや精神の集中を惜しむようになる。あまり知られていないことだが、「やり直しが利く」という条件の下では、私たちは、それと知らぬうちに、「訂正することを前提にした選択」、すなわち「誤った選択」をする傾向にある。◇

 この前後に結婚について胸のすく高見を開陳しているのだが、本稿では割愛する(よりよい人生のために、必読をお薦めしたい)。──離・再婚は「リセット可能性」の元に行われる。「『やり直しが利く』という条件の下で」、「『誤った選択』をする傾向」が亢進する。──実に鋭い。かつ深い。だから、次のような結びとなる。

◇あなたが「結婚してみて、ダメだったら離婚して、もう一度やり直せばいい」という前提で結婚に立ち向かう場合と、「一度結婚した以上、この人と生涯添い遂げるほかない」という不退転の決意をもって結婚に臨む場合とでは、日々の生活における配偶者に対するあなたの言動には間違いなく有意な差が出る。◇

 筆者の場合、どう精査しても「有意な差」は認め難い。だからこの論考は肺腑を抉り、冷汗三斗を禁じ得ない。

 6月15日、「笑っていいとも!」に神田沙也加が出てきた。バナナマンの設楽に「お母さんが結婚されて」と話を向けられて、「ありがとうございます」と小声で、恥じらいとともに応じた。娘の方がよっぽどしっかりしている。親はなくとも、いや、いても子は育つ、か。 □