伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「奇跡のレッスン」

2017年06月18日 | Weblog

──世界の最強コーチと子どもたち 
世界の一流指導者が子どもたちに1週間のレッスンを行い、技術だけでなく心の変化まで呼び起こす。──
 番組HPにはこのように記されている。Eテレで毎週金曜日夜10:00から10:50(BSは別時間帯)に放送されているシリーズだ。そろそろ1年になるか。これが実にすばらしいコンテンツである。
 過去の主だったものを拾ってみると、
◇世界の最強コーチと子どもたち~「柔道編」
◇アート編 「違いはみんなのために」
◇「“仲間”のために走ろう! 女子サッカー」
◇「“ぎりぎりセーフ”でポジティブになる! ゴルフ」
◇「最強コーチ」スペインの若き食の巨匠、アンドニ・ルイス・アドゥリスさんと子どもたち
◇「サッカー編 最強コーチ ミゲル・ロドリゴ 被災地へ」
◇「何かを成し遂げたければ自分でやるしかない!陸上100m」
◇「子どもたちのその後スペシャル テニス編&バレー編&合唱編」
 と、レンジは広い。他の種目では、車いすテニス/バスケットボール/フィギュアスケート/野球/ストリートダンス/ハンドボール/卓球/チアダンスなどなど。
 押し並べていえるのは、どのコーチも目線が低い。かつポジティヴだ。押しつけはせず、自分で考えさせる。弱点、失敗の指摘はほとんどしない。観た範囲ではまったくなかった。ともかく褒める。褒めまくる。長所、成功例に徹してフォーカスさせる。ゴルフのコーチ(タイガー・ウッズの元コーチ)は失敗や反省を一切捨てて、うまくいったことのみを日記に書き留めさせていた。
 「奇跡」とはいっても、駄目チームが技術の飛躍的進歩を成し遂げ遂に優勝を果たしたといったドラマではない。むしろ低かったモチベーションが急上昇する、後ろ向きががっちり前を向く、楽しくて仕方なくなる。わずか1週間で。つまり奇跡は子どもたちの心に起こる。そういう奇跡だ。
 対極にあるのが日本の鉄拳指導、体罰である。今月も、埼玉にある高校のサッカー部で暴力指導が発覚した。一言でいえば、腕力に頼るのは指導力がないからだ。山本五十六の言を借りるなら、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。 話し合い、耳を傾け、承認し、 任せてやらねば、人は育たず。 やっている、姿を感謝で見守って、 信頼せねば、人は実らず。」である。「叩いてみて」などどこにもない。ただ、元帥はなぜこのような発言に及んだのか。背景には精神論を主軸にした軍隊教育への自戒があったのではないか。
 実は、軍隊での暴力的指導は日露戦争を機に始まったらしい。ロシアの大軍と戦うために、急遽大量に新規徴兵した。体格ははるかに劣る。服従心も練度も低い。装備も少ない。しかし、事は急を要する。そこで、登場したのが大和魂と体罰だった。急場凌ぎの促成栽培だ。さらに、大正末期からは学校で軍事教練が課され、今時暴力的な熱血指導は抜き難い伝統となっている。よって、暴力指導が繰り返されるのは如上の近代史に根因があるといえよう。
 再度の引用となるが、内田 樹氏が「スポーツ界の体罰」と題して13年2月に朝日新聞に寄稿した一文を徴したい。
 〈「速成」が要請されるのはいつでも同じ理由からである。「ゆっくり育てている時間がない」というのだ。自然な成長を待つ暇がない。「負けてもいいのか」という血走った一言がすべてを合理化する。私はひそかにこれを「待ったなし主義」と名づけている。スポーツにおける体罰を正当化する指導者たちもまた例外なく「待ったなし主義者」である。「次の選考会まで」、「次の五輪まで」という時間的リミットから逆算する思考習慣をもつ人にとって、つねに時間は絶対的に足りない。だから、アスリートの心身に長期的には致命的なダメージを与えかねない危険な「速成プログラム」が合理化される。
 体罰と暴力によって身体能力は一時的に向上する。これは経験的にはたしかなことである。恫喝をかければ、人間は死ぬ気になる。けれども、それは一生かかって大切に使い伸ばすべき身体資源を「先食い」することで得られたみかけの利得に過ぎない。「待つたなしだ」という脅し文句で、手をつけてはいけない資源を「先食い」する。気鬱なことだが、この風儀は今やスポーツ界だけでなく日本全体を覆っている。〉(抄録)
 「待ったなし主義」は「日本全体を覆っている」という。今日閉じる国会でも、この風儀が跋扈した。オリンピックのためのテロ対策は「待ったなし」、森友・加計隠しのために「待ったなし」と2つもだ。
 「次の五輪まで」というなら、五輪なぞ願い下げだ。共謀罪の成立は、“社会”に「長期的には致命的なダメージを与えかねない危険な『速成プログラム』」だからだ。「手をつけてはいけない」“社会”の「資源を『先食い』する」からだ。その資源とは戦後70余年掛けてつくりあげてきた風通しのよい自由だ。監視社会は確実に自らを殺す。
 疑惑隠しは、逃げ切りの「待ったなし」だ。おそらく明示的な「総理のご意向」はなかったであろう。手続き上の瑕疵もなかったであろう。しかし、疑惑を呼びかねない構図があったことは確かだ。ツッコミの隙を与えたことは事実だ。戦略特区という「瓜田」に「履を納れ」たことは抗いようのないファクトだ。首相官邸のHPには国家戦略特区は「総理・内閣主導」と太ゴシックで書かれている。そこに「腹心の友人」が絡めば、『痛くもない腹』を探られるのは当然だ。これは明らかに「瓜田に履を納れず」との『君子行』に悖る。そんな事の進め方自体が稚拙すぎる。
 民事も刑事も、裁判官は自らが当事者の代理人であったり自らの親族が係わる訴訟については外れることが各訴訟法で義務づけられている。当たり前といえば当たり前だ。行政だって同等ではないか。「腹心」というなら、余計に距離を置くべきだ。当該事案については余人をもって代えるくらいの慎重さが必要だった。「李下に冠を正さず」ならば、気張っちゃダメなのだ。それにしても、この程度の御仁がトップリーダーとはまことに「気鬱なこと」である。
 永田町の面々には是非とも「奇跡のレッスン」をご覧いただき、霞ヶ関のコーチングに活かしてほしい。いな、上に立つ者、人の親、万人必見だ。 □

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