伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

JAL機内誌

2017年07月09日 | Weblog

  少年老い易く学成り難し
  一寸の光陰軽んずべからず
  ・・・・(朱熹)

    ・・・・
  時に及んで当に勉励すべし
  歳月は人を待たず(陶淵明)

 と二首を挙げ『加速する人生』と題する一篇が、
   浅田次郎著「龍宮城と七夕さま」 (小学館 先月刊)
 に収録されている。
 氏は若年期の迅速というよりも加齢とともに増していく加速感、「人生の加速度」にこそ二首の真意があるのではないかと語る。年齢を重ねれば重ねるほど、逆に時は速く流れる。氏はこれを「怪奇現象」だともいう。確かに、小学校の夏休みは果てもなく長かった。ところが、リタイアの後は瞬く間に一年が過ぎる。
 氏はフランスの心理学者の学説を引く。
 〈人生の一時期における時間の心理的な長さは、年齢に反比例するという説である。たとえば、十歳の少年の一年は人生の十分の一だが、六十歳の一年は人生の六十分の一に過ぎぬから、心理的には短く感じられる、というのである。〉(上掲書より)
 さらに「経験量の理論」なる異説も紹介し、
 〈さまざまな経験を積み重ねているうちに、人生には未知の部分が少なくなり、新鮮な感動を覚える機会も減ってしまう。能動的な挑戦もしなくなるので、生活の中の可測領域が増えていく。通いなれた道は近く感ずるが、初めて歩く道は遠いのである。〉(同上)
 と綴っている。どちらも宜なる哉ではあるが、稿者はこう考える。
 列車が等速で走っているとする。こちらは車で併走する。車が速い時は隣の列車は遅く見えるし、スピードが落ちれば列車は車をぐいぐい離していく。列車をニュートンの絶対時間、新陳代謝や頭脳、心身両面の活性度を車の速度とすると「怪奇現象」の説明はつきそうだ。
 となれば「怪奇現象」が立ち現れたこれからこそ、「学成り」「勉励すべ」き好機と捉えるべきではなかろうか。であるなら、「学」とはなにか。碩学の言を徴したい。
 〈「学び」とは「離陸すること」です。それまで自分を「私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに規定していた「決めつけ」の枠組みを上方に離脱することです。自分を超えた視座から自分を見下ろし、自分について語ることです。〉(内田 樹著「街場の教育論」ちくま書房)
 「枠組みを上方に離脱」し、「自分を見下ろ」す視座を獲得する。つまりは、「学び」とは居着いた地平から「離陸すること」である、と内田氏は訓える。固着した自らを相対化し、外に開くことだ。それは「人生の加速度」がいや増し、「一寸の光陰軽んずべからず」がストンと胸に落ち「歳月は人を待たず」が骨身に滲みる今だからこそ主題化するのではないか。いや、させねばならない。また「学び」とは狭義の学問を指すばかりではあるまい。人生の万般への探究を指すにちがいない。浅田氏のいう「初めて歩く道」にも通じよう。
 
 このエッセー集は、 JALの機内誌『スカイワード』に連載された40作を単行本化したシリーズの第四弾である。JALだけあってアジアから欧米と話題は世界を跨ぎ、時間は中世、昭和と大股に世界史を闊歩する。表題のおとぎ話から納豆、キムチという庶民の味、作家の楽屋落ち、なべぶた齋藤の字源を繙く学的深みまで、コンテンツは実に多彩だ。かつ愉しい。機内にふさわしい讀物である。空弁や駅弁とは違う、それはちょうど機内食のようだ。限られた環境ではあっても、選りすぐりの上質な食がコンパクトに供される。文章は重からず、軽からず。涙を流すわけではないが涙腺がくすぐられ、吹き出すわけではないが頬が緩む。書きざまは、オペラ歌手がカラオケで興ずるような趣である。機内にあらずとも、つまりは空中に身を置かずとも世界と歴史を鳥瞰できる珠玉のエッセー集である。
 機内から見る空は遠く蒼く晴れ渡っている。 □

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