伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ここはどこ?

2017年05月20日 | Weblog

 

  さて、この写真はどこを撮ったのだろう? 
 茅葺きの家と、温泉宿のような看板が見える。ぐるりは山、鄙びた寒村のようだ。
  驚くなかれ。実は東京都内である。東京都西多摩郡檜原村(ひのはらむら)。           
 東京都唯一の郡。都内最西端に位置する西多摩郡。西を山梨、南を神奈川、北を埼玉の各県が囲む。さらにその郡内にある本州部唯一の村が檜原村である。
 小田原市とほぼ同じ面積で、昨年2月現在、人口2194人。3年前に増田寛也氏が主導した日本創成会議の予測、通称「増田リスト」によると、2040年には人口は1206人、2010年から約半減するという。となると、限界集落に至るのではないか。
 「限界」とは「過疎」の先、65歳以上が半数を超え集落の自治や冠婚葬祭の運営が困難になり、道路などの生活環境の維持もできなくなって共同体としての存続が限界を迎えるとの謂だ。
 大東京が限界可能性集落を抱える。嘘のような話だが、事実だ。だから村おこしを、などというのではない。起こしたって、所詮は弥縫策に過ぎぬ。右のものを左に置き換えるだけだ。一国規模の人口減少という構造に変わりはない。
 過疎化と高齢化が並進すると、どうなるか。代議制が機能不全に陥る。今月初めに報じられた高知県大川村を例に採る。人口約400人、65歳以上の高齢化率は43%。村議会議員の平均年齢が70歳を超え(半数の3人は75歳以上の後期高齢者)、前回の村議会議員選挙では定員6に立候補が同数で全員が無投票当選だった。今後現職の引退が予想され、過疎が亢進する中で若手にもインセンティブは働かず選挙で手を挙げる人は確実に定員を割る。かといって、隣接自治体との合併も断られている。ならば、定数を削ればどうか。現在の6人は人口の1.5%。これで民意を代表しているといえるのかと疑問が湧く(もっと値の低い自治体は数多あるが)。更に減員すれば寡頭制になってしまう。いっそ村長1人にして、すべて丸投げではどうか。それでは独裁制となり、民主制度は破綻する(その前に違法だ)。そこで村議会を廃止し、代わりに地方自治法の定めにより有権者が直接予算案などを審議する「村総会」の設置を検討し始めたという。直接民主制へのシフトだ。
 一見、もっともだといえる。だが、病院や介護施設にいる多くの高齢者(人口の1割強)はどうするのか。村内を走る路線バスは1日3往復しかない。免許を返上する人は今後増える。足は確保できるのか。その名に値する「総会」を、果たして開けるのか。民意の切り捨てはないか。いざ現場に落とすとなると、いくつもの難題が急浮上してくる。直接制も代議制も頭数という単一の尺度だけでは選択は至難だ。
 檜原村は大川村より人口規模は5倍ある。しかし、高齢化率は00年で33%。あと23年、下がることはない。人口は半分に。行政サービスは維持できるのだろうか。代議制は機能するのだろうか。他人事(ヒトゴト)ながら、不安が募る。もちろん合併という手はある。となれば、実態的には消滅だ。大学の研究機関が多摩地域の過疎化について研究を進めている。当然、檜原村も対象となっている。調査結果は絶望的とはいえないにせよ、都下唯一の村が限界集落へ向かおうとしている危機感は捨てるわけにはいくまい。
 人口減少については何度も触れてきた。一言でいうなら、それは問題ではなく回答であるということだ。急膨張した人類が直面する地球的問題群を乗り越えてどう生き延びるか。その最も直截な人類史的回答が人口減少である(国連がリードする“SDGs”=持続可能な開発目標とは次元の違う、いわば自然の調整機能)。その先駆的歴程にあるのが本邦である。したがって、人口減少『問題』とはいかに減少を食い止め増加に転じるかではない。それは問題の立て方自体が間違っている。かつて引いたが、「日本における歴史上始まって以来の総人口減少という事態は、なにか直接的な原因があってそうなったというよりは、それまでの日本人の歴史そのものが、まったく新たなフェーズに入ったと考える方が自然なことに思える」(「街場の読書論」から)との内田 樹氏の洞見こそ正鵠を射たものであろう。「新たなフェーズに入った」という認識がないから(あるいは認めたくないから、または目眩ましに)、某政府は『一億総活躍社会』などという能天気な与太を飛ばして恥じないのではないか。つまりは「ここはどこ?」か、まるっきり解っていない。
 「豊島区消滅可能性都市」説は多分に都市伝説のにおいがするが、檜原村には「増田リスト」というエビデンスがある。各種将来予測の中で人口予測は最も確実性が高い。数十年先なら、その時点での構成人口のほぼすべては今まさに現存しているからだ。変数は出生と死亡の比率だが、さほどの変動はない。
 「大東京が限界可能性集落を抱える」パラドキシカルな現実。大東京しか見ないでいると、わたしたちは今、どこにいるのか見失ってしまう。そういうコノテーションのようでもある。 □

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