伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代 …… その一人が綴る偶感録

死者の声が聞けるか!?

2016年10月20日 | Weblog

 ざっと3箇月になる。あの事件以来、間歇してきた思案がある。
 発生すぐに『障害者施設事件』と題する拙稿を上げた。「彼が病んでいたかどうかは知らない。だが、病んだ時代を表徴しているとはいえる」と書いた。時代はなにを病んでいるか、だ。
 17年前、石原慎太郎は都知事就任間もなく障害者施設を訪問し、
「ああいう人ってのは人格があるのかね。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって......。おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」
 と感想を述べた。明らかに植松聖に通底する。現に、ある文芸誌で
「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味でわかるんですよ。大江(健三郎)なんかも今困ってるだろうね。ああいう不幸な子どもさんを持ったことが、深層のベースメントにあって、そのトラウマが全部小説に出てるね」
 と語っている。この類いの確言だ。ナチスのT4に踵を接する思念だ。時代の病症の、それも重篤なひとつにちがいない。
 病因は察しが付く。コマーシャリズムの成れの果てだ。石原は「西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないか」と見当違いで薄っぺらな知見に託けているが、解りやすくいえば商売の邪魔になるということだ。分け前が減るといいたいのだ。もちろん石原の夜郎自大な自尊、慢心が「深層のベースメントにあって」発言を裏打ちしているのは疑いようもない。そこには弱者へ向ける眼差しも、生命の唯一無二性への信憑も、息遣いや心音に耳を澄ます敬虔な身構えも哀しいほどない。高尚を装ったヘイトスピーチ以外のなにものでもない。しかしこの「切り捨てちゃう」という忌むべき邪念は意外にも根深い。まるで宿痾のように根治を拒む。
 確かに棄老伝説はある。『楢山節考』も夙に高名だ。だが民間伝承であり、明瞭な史的エビデンスがあるわけではない。なにより忘れてならぬのは悲劇として描いているのであり、姥捨て自体を微塵も肯んじてはいないということだ。だから棄老の因習をもって植松や石原にエクスキューズを与えることはできない。
 「なにを病んでいるか」、つまりは病根だ。
 昨年9月、名大女子学生が知人老女の頭を斧で殴打して殺害した。高校の時は劇物を飲ませて同級生を殺害しようともしていた。調べに「人を殺してみたかった」と供述したそうだ。事件を受けて姜 尚中氏は『悪の力』(集英社新書)で、彼女に「決定的に欠落しているのは具体的な身体性の感覚」であり「他者は単なるマテリアル、つまり物質にすぎません」と綴った。
 これは示唆に富む。生命感が失われ他者がマテリアルと化す。肥大化した観念が身体という埓を超える。幼児のごっこ遊びは笑えるが、長じてのそれは危険極まりない。では、肥大化するのはどういう観念か。姜氏はナチスを例に、「誇大妄想的な自己肯定感」と病的な自己「空洞感」だという。前者は「自らを天使のようにピュアなものに浄化したいという願望」となり、後者は「想像を絶するような破壊行動」として出現する、と。T4を振りかざした植松聖の言動はこれと軌を一にする。『悪の力』から1年を待たずに凶行は繰り返された。それほどに根深い。
 姜氏はさらに続ける。
<現代には、薄っぺらで実のない原理主義がいたるところに出没しています。民族原理主義、宗教原理主義、市場原理主義、さまざまな原理主義が私たちの周囲に台頭しています。特定の化粧品や健康食品などに憑かれたようにのめり込む、あるいは、片時もスマホを手離せない、情報をチェックせずにはいられないというような強迫的状況も、原理主義的な偏愛と言えば大袈裟でしょうか。原理主義というと、私たちは、何かに夢中にのめり込んでいる姿を思い浮かべますが、その背景にあるのは、じつは何も信じられないという空虚感です。何も信じられないからこそ、これだけを信じていないと生きていけないと思い込む。そうなったときに原理主義が立ち現れるのだと思います。>(上掲書より)
 また上掲書についてのインタビューで、
「グローバルリズムが進むことによって、選択の自由、そして自己責任という考え方が一般化しましたよね。つまり他人を信じるとバカを見る、自分だけを信じなさい、あるいは信じられるのはお金だけだ、と言われ続けているわけです。だけどやっぱり、何も信じないという生き方に人間は耐えられない。原理主義というのはこれだけを信じればいいという考え方ですから、楽なんですよ」
 とも応えている。姜 尚中氏に拠れば、病根はこの辺りか。腑には落ちるが、未だ少しの隔靴掻痒の感。そこで、徴したいのが内田 樹氏の論攷である。
<人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。それは「墓を作る」ことである。今から数万年前の旧石器時代に、私たちの遠い祖先は「死者を葬る」という習慣を持つことで、他の霊長類と分岐した。「死んでいる人間」を「生きている」ようにありありと感じた最初の生物が人間だ、ということである。「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。死んだ瞬間にきれいさっぱり死者の「痕跡」が生活から消えてしまうのであれば、葬儀など誰がするであろうか。人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである。旧石器時代の墳墓にはしばしば死体の上に巨大な石を載せ、死者が土から出られないようにしたものがある。おそらくは、「戻ってこないように重しを載せる」というのが墓の本義なのだ。人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。>(「街場の現代思想」から縮約)
 「死者の声が聞こえる動物」とは言い得て妙だ。チンパンジーが仲間の死体を持ち去ったという特異例があるにはあるが(撤去しただけ)、人間以外の霊長類は同類の死体には見向きもしない。置き去りにする。単なる物体に過ぎない。「死者の声が聞こえる」のは人類の属性といえる。別の著作では、
<「葬制を持つ」ということは、言い換えれば「死者の発揮する恐るべき力能」を知ったということである。誤解を恐れずに言えば、それが「人間になった」ということである。人間を類人猿から最初に分かったのが葬礼であるとするなら、「死者の発揮する恐るべき力能」についての知が人間性の核をなしているということになる。>(「他者と死者」から縮約)
 人間性のコアに「『死者の発揮する恐るべき力能』についての知」がある。俗にパラフレーズすると、祟りがあるかもしれないとする畏怖だ。植松にも石原にも同類のものは毛筋ほども窺えない。あるのはマテリアルにしか見えない他者ばかりだ。勘違いしてはならない。「死者の声を聞く」とはオカルティズムではない。霊力、憑霊でも口寄せでもない。そうではなく、不可視な世界にまで及ぶ想像力だ。
 人類600万年の歴史で、宇宙からの帰還はできても死後からの帰還者はただの一人もいない。これからもいない。おそらく死者は数百億を下るまいが、“体験者”は皆無だ。臨死体験はとば口との往来ではあっても、死後の体験ではない。死後は究極の不可知であり、死者とは永遠の不可解なのだ。死の恐怖とはそれだ。ならば謙虚であるべきではないか。五感を研ぎ澄まし、全知全能を尽くして向き合うべきだ。そのような心身の構えを「死者の声」を聞くといいたい。
 「『死んだ人間』がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると『感じる』ことのできる」感性である。つまりは、この本性が人間の「人類学的定義」だ。
 となれば「時代はなにを病んでいるか」は、人間が原初的な意味において人間性を失いつつある病症、と置き換えられる。「他者がマテリアルと化す」とは、人間が人間ではなくなりつつある退嬰、もしくは逆進化の過程に入ったということだ。人間が「人類学的定義」から外れつつある。人間としての本能的な欠落を抱えるに至った──。極論は承知の上だが、よほど腑に落ちる。原理主義の瀰漫、結果としての生命の軽視、手段化は人間の種としての危機ともいえる。病識をそこに措かないと根治は不能ではないか。
 かといって、大仰に構えなくともよいだろう。先ずは自らに問いかけてみたい。繰り返すが、霊力ではない。想像力だ。死者への謙虚な居住まいだ。故人となった肉親でいい。生者の列を離れた友人でもいい。「死者の声が聞けるか?」と。 □

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