伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

閉会中審査の前に

2017年07月18日 | Weblog

 太古、斉の威王に虞姫(グキ)という寵妃がいた。家臣の不正を知り王に告げると、不遜にも政(マツリゴト)に容喙したとして幽閉されてしまう。しかし虞姫は毅然として威王に諫言する。
「人の上に立つ王たる者、大事をあらかじめ察知し、未然に防ぐべきです。他人から嫌疑を受けるような立場になってはなりません。例えば、瓜畑で身を屈め沓を履き替えたりなさってはなりません。瓜を掠めていると誤解されるからです。李(スモモ)の木の下で冠のズレを直してはなりません。手を伸ばして李の実を盗んでいるように見間違えられてしまうからです」
 『古楽府』君子行「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」の故事である。虞姫を前川前文科事務次官に準えるとおもしろい構図が描けるかもしれない。不正を働く家臣とは余計な忖度をした取り巻き及び霞ヶ関の一群か。
 来週には閉会中審査が行われるという。屋上屋、まことにしつこいが、事が事だけに屢述せざるを得ない。先月の拙稿を引く。
 〈おそらく明示的な「総理のご意向」はなかったであろう。手続き上の瑕疵もなかったであろう。しかし、疑惑を呼びかねない構図があったことは確かだ。ツッコミの隙を与えたことは事実だ。戦略特区という「瓜田」に「履を納れ」たことは抗いようのないファクトだ。首相官邸のHPには国家戦略特区は「総理・内閣主導」と太ゴシックで書かれている。そこに「腹心の友人」が絡めば、『痛くもない腹』を探られるのは当然だ。これは明らかに「瓜田に履を納れず」との『君子行』に悖る。そんな事の進め方自体が稚拙すぎる。
 民事も刑事も、裁判官は自らが当事者の代理人であったり自らの親族が係わる訴訟については外れることが各訴訟法で義務づけられている。当たり前といえば当たり前だ。行政だって同等ではないか。「腹心」というなら、余計に距離を置くべきだ。当該事案については余人をもって代えるくらいの慎重さが必要だった。「李下に冠を正さず」ならば、気張っちゃダメなのだ。それにしても、この程度の御仁がトップリーダーとはまことに「気鬱なこと」である。〉(「奇跡のレッスン」から)
 「戦略特区という『瓜田』」で、結句「腹心の友人」に絞り込まれた事実は「身を屈め沓を履き替えた」に符合するのではないか。手書きの追加条件は「身を屈め」といえようし、京産大が振り落とされたのは「沓を履き替えた」に等しい。
 「明示的な『総理のご意向』はなかったであろう。手続き上の瑕疵もなかったであろう」状況を「李の木」だとすれば、内部文書の「内部」は文字通りその「下」を、「文書」は「冠のズレを直して」に吻合する。「気張っちゃダメ」なのに、わざわざ「おしりを切っていた」。ケツカッチンは「冠を正さず」のまったく逆、「正した」ではないか。
 つまり、そのように警句があからさまに符節を合わすこと自体が疑惑の構造を形作っているのだ。「大事をあらかじめ察知し、未然に防ぐ」など、毫も形跡がない。いっぱい隙を作っておいて、さあ掛かってこいとは、これ見よがしな力の誇示が横綱の証だと勘違いしたどこかの頓珍漢相撲取りと同じではないか。万全の上にも万全の体勢を成した後、なお真摯に全力で立ち向かうのが綱を張る者のありようだ。アンバイ君の為様(シザマ)も同等だ。民事・刑事訴訟法を例示したように、行政のコンプライアンスへの真摯な向かい合いは微塵もない。疑念を持たれないような万全の体勢はなかったに等しい。むしろやってる感満載、己の売名のために敢えてしゃしゃり出たとしか見えない(といわれても、仕方なかろう)。その尻軽がなんとも愚かしい。驕りだか弛みだかしらないが、「この程度の御仁がトップリーダーとはまことに『気鬱なこと』である」と繰り返さざるを得ない。
 言った言わないではない。そんなことではない。言った言わないを問われる構図があったこと自体が問われるのだ。ここが画竜点睛である。“彼ら”の十八番である共謀罪に引き寄せれば、未遂であっても「企図し」「合意し」「準備行為」があれば罪に問える。特区選定はもちろん対象犯罪ではないが、構図は同等だ。自業自縛、身から出た錆とはこのことだ。
 イギリスの歴史家ジョン=アクトンは「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」と断じた。一強がお友達優遇という甚だ幼稚でみみっちいレベルではあっても、かつ忖度なる極めて民族誌的奇習ではあっても「絶対に腐敗する」醜態を晒した現実を注視せねばならない。そこから目を逸らしてはいけない。アクトンの箴言は常にアクチュアルなのだ。
 「行政が歪められたのではない。歪められてきた行政が正されたのです」と、加戸守行元愛媛県知事は切々とハスキーボイスで訴えた。本邦の住人は、どうもこの手の浪花節に弱い。
 「政策を決定する政治と、政策を遂行する行政機構とは別であります」と前川前事務次官は応じた。冷静で見事な切返しであった。歪められたのは政策であって、それは永田町が糺されるべきだ。歪められようとした政策遂行にレジリエンスを起動したのが霞ヶ関、なかんずく文科省ではないか。両者を混同してはことの本質を見誤る。前稿のごとく裁判に範を求めれば、デュー・プロセスである。政策遂行に恣意が介在すれば行政は死んでしまう。
 付言しておきたい。支持率急落はアクトンの箴言に抗する国民的レジリエンスといえなくもない。いな、そう捉えるべきだ。おきゃあがれ! あんまりナメんなよ! と。さらに、その向こうに憲法へのレジリエンス、改憲へのオブジェクションが仄見えないか。いや、そう甘くはない。憲法という「岩板規制に穴を開け」ようとする悪巧みを夢寐にも忘れるわけにはいかない。 □

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